36.対面

「ここじゃ人目があります、移動しましょう」

 史郎は紗良ではなく夫のほうの腕をつかみ、ビルの裏側へ廻ろうとするが、驚いて固まっていた夫も、強い力で引っ張られて我に返り、史郎を振り払った。

「だ、誰だお前は!」

「紗良さんの知人です」

 思いがけない返答に、夫はまたパニックになる。

「紗良!お前この男と……!」

「俺と、なんです?」

「うるさい、あんたに聞いてない!紗良、こいつか、こいつのせいで離婚とか馬鹿なことを言い出したのか!?」

 夫の大声に、さすがに周囲も何事かと気にし始めた。通行人が立ち止まってこちらを伺っている。


 史郎は二人の間に割って入り、この場を離れることを提案する。

「移動しましょう。裏手の公園でも、レストランでも。ここで騒ぐのは紗良さんの迷惑です」

 史郎は紗良を背後に庇いながら夫を睨み据える。言葉も丁寧だし大きな声を出しているわけでもないのに、史郎の言葉には不思議と逆らえない力強さがあった。

 その強さに、紗良は安堵を、夫は威圧を感じた。

「……わ、分かった。紗良、ちゃんと説明しろよ」

「……行きましょう」

 史郎は紗良の肩に手を回して先んじて歩き始めた。他の男に肩を抱かれて歩く妻を、夫は不思議な感覚で後ろから見つめていた。




 大通りを渡り、反対側に建つホテルの喫茶室に、三人は腰を下ろした。史郎は様子を見守るため、入店からは無言を貫いていた。


「紗良。これは誰だ」

 紗良は許可を得るため斜め前に座る史郎を見遣る。史郎は黙って頷いた。

「知り合いの方で……」

「それだけか」

「……今、この方の家にお世話になって」

 途中まで聞いてカッとした夫は、紗良が全て言い終わる前に手元のグラスに入った水を紗良にぶちまけた。

「何するんですか!」

 史郎は堪らず紗良を抱き寄せ、自分のおしぼりとハンカチで紗良の顔や髪の水滴を拭った。

「お、お前こそ……、お前らこそ、何なんだ!」

 辺り構わず、夫は再び声を荒げる。

「世話?世話ってなんだ!やっぱり愛人がいたんじゃないか!俺のせいで別れるようなことを言っておいて、そいつがいるから別れるんだろう!」

「違うわ!」

 史郎の腕の中で震えていた紗良は、夫の言葉を聞いてキッと夫を睨みつける。

「違う。史郎さんのせいじゃない。本当にあなたとは一緒に居たくないって思ったの」

「だからそれはそいつと付き合ってるから……」

「違う。ずっと前から、あなたがだった」

 聞いたこともないような紗良の低く厳しい声音に、夫も史郎も驚いて何も言えなかった。

「最初は我慢したわ。いつか私を一人の人間として扱ってくれるって期待もしてた。でももう、あなたが近寄るのも嫌なの。声を聞くのも、臭いがするのも、あなたが何か言うことについて考えることも、何もかも。史郎さんと知り合う前からずっと……、ずっと思ってた」

「ずっと、って……」

 紗良の告白に、夫は先ほどまでの勢いを失い、ソファにへたり込んだ。紗良も一気に吐き出して、一瞬眩暈を感じて史郎に凭れかかった。力強く支えてくれる腕に励まされ、ソファに座り直すと、姿勢を正して夫に向き直った。


「我慢して、期待し続けてきたのは私の勝手かもしれない。でも私の話に聞く耳持たなかったのはいつもあなた。自分の話だけ終わるとどこかへ行ってしまうかお酒飲むかで、私は一方的な聞き役で支え役。もううんざりなの、休日の過ごし方ひとつ自分で決められないなんて」

「お前の希望も」

「聞いてないよね、ただの一度も」

「違う!俺は、お前が喜ぶと思って……」

、のよね、勝手に。実際に私に楽しいか嬉しいかなんて聞いたことないけどね」

「……っ、お前!」

 夫はまた手を振り上げそうになったが、紗良の横でじっと睨み返してくる男の存在に怯み、膝の上で拳を握りしめるに留まった。


「で、でも、じゃあその男は何なんだ!夫婦の話し合いに、なんでそいつが付いてくるんだ!」

「あなたのせいでしょう」

 紗良が口を開くより先に史郎が会話に割って入った。

「今日の話し合いを希望しているということは紗良さんから伺ってました。でも場所が未定とのことで、まさかと思って迎えに来たらあなたが彼女を拉致しようとした。案の定信用できない男だ。来てよかった」

 何故史郎があの場に居合わせたのか、紗良はやっと合点が行った。しかし、また店を早仕舞いさせたことになるのだろう。申し訳なくていたたまれない。

「家に、住んでるって……」

「店を経営してまして、紗良さんはうちの常連さんです。あなたが彼女に乱暴した日、真っ青な顔で店の前を通りかかったので声を掛けました」


 土曜の件を他人の口から指摘され、再び夫の顔に血が上る。

「他人にべらべらとっ……!恥ずかしくないのか、お前は!」

「いい加減にしてください!」

 史郎の怒声が店内に響いた。聞こえないふりを装っていた店員も他の客も振り向くほどの大声だった。

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