37.決着
「紗良さんがどんな思いでその話をしたか、想像しましたか?!言いたくないのは被害者のほうです。加害者には何も要求する権利はない!」
重ねて加害者と呼ばれ、夫は羞恥と怒りの両方とも矛先を失い、唇を震わせ真っ青になって固まってしまった。しかし史郎は関係ないとばかりに話を続ける。
「俺たちは生憎あなたが期待しているような関係ではないです。離婚を有利に進めたいというならどうぞご自由にご想像ください。ただしこちらも証拠を残していますので、泣き寝入りはしませんから」
証拠?紗良は首を傾げるが、史郎は夫を睨み据えたまま視線を外さない。
「……しょ、証拠、って」
「DVですよ。いえ、強制性交罪のほうがいいですか?医師の診断書もありますしね」
(史郎さん、もしかしてハッタリ……?)
病院など行っていないから診断書なんてあるわけない。しかし案の定夫の顔色はますます悪くなる。
「ふ、夫婦なんだから、罪に」
「なりますよ。夫婦だからこそ、今は厳しい目が向けられるんです。俺は紗良さんの命と名誉を守るためなら、あなたにどんな制裁を加えることも厭わない」
「人の女房を寝取っておいて……!」
「そんなんじゃないわ!さっきから言っているでしょう!全然人の話を聞かないし理解もしないのね」
紗良の肩が震えていることに気づき、史郎は深く息を吸い、紗良をなだめるように数回肩を叩くと、もう一度夫へ向き直った。
「紗良さんは籍を抜くこと以外何も求めていない。もういいでしょう、彼女の人生を返してあげてください」
史郎の言葉を、夫はオウム返しする。
「紗良の、人生」
ゆっくり頷き、そして史郎は紗良を見た。紗良は『自分の言葉で伝えろ』と言われた気がして、史郎から離れ、夫へ話し始めた。
「今までありがとう。あなたに頼り切ってしまっていた部分もある。でもだからこそ、あなたから離れて、自分で考えて自分で決めて行動したい。時間も心もお金も、全部自分の自由にしたい。失敗しても……、自分で責任を取る。そんなふうに生きていきたいの」
静かだが揺るがない紗良の瞳を見て、夫は夫婦の全てが終わったことを、受け入れざるを得なかった。
◇◆◇
夫は記入済みの離婚届を置いて、一人で帰って行った。
史郎と紗良は、ふーっと息をついた。一気に全身の力が抜ける思いがした。
「いやー、驚きましたね」
「それは私のセリフです!まさかあそこに二人が現れるなんて……」
「俺の勘、すごいでしょ」
「じゃなくて!お店は?」
「閉めてきましたよ、ちゃんと」
「ちゃんと、って……」
「はいストップ。俺がいなかったらどうなってました?そこはありがとうって言って欲しいなぁ」
ワン!と両手を耳の形にして犬の真似をする史郎に、紗良はもう笑うしかなかった。
「もう……。本当に、ありがとうございました」
「いえいえ。帰ったらチューもしてもらおうかな」
「ちょっ……!史郎さん!」
「あはは。で……、届どうします?」
「帰ったら私の分記入して、明日出しに行ってきます」
「離婚届って24時間出せるらしいですよ?」
「詳しいですね……。いえ、もう今日は疲れて……。明日午前半休取って行ってきます」
「ご自宅には?」
「まだ荷物が残っているので、夫がいない時を見計らって取りにいきます」
「俺、付き添いますよ」
「いえそんな!お店あるし……」
「駄目です。怖いです、あの人」
夫への『怖い』という史郎の評を聞いて、先ほどのやり取りを思い出す。
「むしろ逆では……。あの人、めちゃくちゃ怖がってましたよ、史郎さんのこと」
「それは『怖い』の意味が違いますよ。俺はちょっとドス効かせすぎました。ご主人はのは、何するか分からない怖さです」
ああ、なるほど……。紗良は納得し、確かに一人で行くのは不安が大きいと気付いた。
「あの、じゃあ、すみませんその時は……」
「どうせなら明日行きますか。俺も紗良さんも仕事休んで。早いほうがいいでしょう」
「でも荷物の置き場が……」
「何とかします。店の倉庫も結構空いてるし」
紗良は改めて史郎に向き直り、深く頭を下げた。
「本当に、何から何まで、ありがとうございました」
史郎は無言で、紗良の頭を優しく撫でた。
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