35.妨害
紗良からの返信を読み、夫は信じられないというふうに首を振った。
(家には来たくない、両親は自分で説得しろ、離婚届も勝手に出せ、だと?)
夫が把握していた紗良という人間は、もっと従順で、決してノーと言わない女性だった。それが昨日から、まるで別人のように自分に意見をぶつけてくる。
家に来いと言ったことがそれほど非常識なことだったろうか。別れるための下相談など、居酒屋のような騒々しい場所はそぐわないし、ちゃんとしたレストランでは静かすぎて誰に聞かれるか分からない。もう一度二人きりになれる、という下心があったことは否定しないが、これほど明白に拒否されるとは思わなかった。
(紗良が自分一人で考えて決めたことか?……もしかしたら、誰かと一緒にいるのか?)
突然思い浮かんだ疑念に、夫は目の前が真っ赤になった。
◇◆◇
再び戻ってきた史郎と一緒に夕食を取った。今日も史郎は『旨い旨い』といいながら、すごいスピードで食べてくれた。
「後片付けは俺がやりますよ」
シャツの袖を捲りながらやってきた史郎を、紗良はやんわりと拒否する。
「大丈夫です、ちょっとしかないので。史郎さんお疲れでしょ?」
「紗良さんだってお仕事の後じゃないですか」
「私は17時で終わってますから……」
「じゃ、俺はコーヒー係ですね」
にかっと笑うと、史郎は豆と機械を取り出した。紗良は嬉しくて、笑って頷いた。
「あー、やっぱり史郎さんの淹れたコーヒーは美味しいです」
「そんなに何度も褒めてくれなくても」
「だって本当だし」
「紗良さんだけっすよ、そんなに言ってくれるの」
「茜亭のお客さんみんなの声を代表しています」
「なんすかそれ」
お互い可笑しくて、あははと声をだして笑い合った。
自分が作った料理を美味しいと言って食べてくれる、片付けも手伝おうと言ってくれ、食後のコーヒーも入れてくれる。テレビなんかいらない、二人で向かい合ってコーヒーを飲んでいるだけで充実した時間が流れる。
紗良の心は、家を出てから急速に満たされていくのを感じていた。
◇◆◇
翌日の終業後、紗良は昨日と同じように茜亭へ帰ろうとしたところで、ふと夫のことが気になった。
(あの人のメールでは今日家に来いって言ってたよね。それを私が断ってから連絡ないけど……)
自分から『行かない』と決めておきながら、結論が見えていないことが多少不安を煽る。しかしここで自ら出向いてしまっては意味がないと思い改める。紗良は同僚に退勤の挨拶をし、オフィスを出た。
そこへ。
「紗良」
自動ドアを出た瞬間、横から名を呼びながら肘を掴まれ、紗良は心臓が飛び出るほど驚いた。手の主を見ると、夫だった。
「あなた……」
「帰るぞ」
「……いや」
「いいから来い!」
「あの家には行きたくないの!」
「うるさい!まだお前の家はあそこだ!」
夫が紗良の肘から肩に手を伸ばし、体ごと強引に連れ去ろうとしたところへ、二人の前に立ちふさがる影があった。
「みっともないです。やめてください」
静かだが有無を言わさない力を込めた声は、史郎だった。
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