16.提案
紗良は、恥ずかしさを理性で押さえながら、今日一日のことを史郎に話した。
昨日から体調が悪かったが、夫に午前中からドライブに連れ出されたこと、人混みが苦手なのに我慢して座っていたら辛くなってきたこと、車で来ているのにアルコールを飲んだ夫のこと、我慢できず夫が席を立っている間に一人で帰ってきてしまったこと、夕方外出したことを帰宅後夫に責められたこと、無理やり行為に及ばれそうになり拒否感で嘔吐してしまったこと。
史郎が淹れてくれたコーヒーがすっかり冷たくなる頃、紗良の話は終わった。史郎は黙って聞いてくれて、話が終わってからも沈黙のままだ。
(改めて人に話すと、自分達夫婦がどれだけお互い身勝手かよく分かるわ……)
(いい年をしてみっともない。史郎さんには呆れられてしまったかもしれない)
この期に及んで夫の心配より史郎にどう思われたかを怖がっているのだから、そんな自分に二重に落ち込んだ。
少しして、史郎が立ち上がりながら声を掛けてきた。
「こんな時間ですけど、もう一杯どうですか?」
コーヒーが冷めてしまったことに気づき、入れ直しを提案してくれた。紗良は面食らいながらも受け入れた。
「あ、はい。でもご迷惑じゃ……」
「僕んちこの上なんですよ。僕より紗良さんは時間大丈夫ですか?」
「私は……」
そろそろ22時近い。しかし夫のいる家には帰りたくない。どうしたらいいのだろう。
逡巡していると、またも驚きの提案が降ってきた。
「もしよかったら、今晩は泊っていきます?」
「……え?」
紗良は耳を疑う。今、なんて言った?
「あ、いえ、変な意味じゃなくて……。今のお話伺って、もしかしたらお家には帰りづらいのかな、って。でもこの辺り手頃なビジネスホテルとかないし」
「だ、大丈夫です!ほら、あの、ネットカフェとかあるし……」
「女性が一人で一晩過ごすような場所じゃないですよ。そんなところに行かれたら僕が心配で眠れない」
史郎は一社会人としての親切と倫理観から言ってくれた言葉なのだと、紗良は何度も何度も自分に言い聞かせる。しかしこんな状況なのに史郎からの親切は、どんどん紗良を幸福にしていく。
「明日は日曜日ですからお仕事もお休みでしょう。もう一日ゆっくり考える時間があってもいいんじゃないですか?」
「でもそれって、コーヒーどころじゃないご迷惑ですよ。そこまでしていただくわけには……。そうだ、ご一緒に住んでる方とかいないんですか?」
「それは心配ないです。僕一人ですから気兼ねしないでください」
(する、思いっきりする。どうしよう、でも本当に行く場所無いし……)
「ね。ちょっと待っててください。完全に店じまいしちゃうので、その後コンビニで必要なもの買いに行きましょう。あ、俺飯食ってなかった……。紗良さん、食事は?」
すっかり忘れていた、紗良も食べていなかったことを思い出して答える。
「じゃあ向かいのファミレス行きましょう。すいません、手料理とか振舞えなくて」
「そんな!むしろお付き合いさせちゃって、ほんと……ごめんなさい」
「もう今からは余計な気遣いはお互いやめませんか?気の置ける相手とじゃ、疲れちゃうだけですよ」
(好きな人相手に気を遣うな、って無理よ……)
しかし史郎は出来るという。それは紗良をただの客の一人として扱っているからこそなのだろう。失望感もあったが、今は彼の人柄そのものがありがたかった。
「じゃあ、お言葉に甘えて」
「はい。じゃあ、紗良さんも手伝ってください。俺看板仕舞ってくるんで、カップ洗っておいてもらっていいですか?」
「はい。ここにある分だけでいいですか?」
「お願いします」
そう言い置くと、また裏口から外へ出ていった。
そして史郎の一人称が『僕』から『俺』になっていることに後から気づいて、そんな変化にも、紗良は喜びを感じていた。
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