15.逃亡

 そのまま、財布だけもって紗良は家を出た。ただとにかくあの家に居たくない、それだけの理由で。

 実家は遠いし、突然連絡して泊めてくれるような知人はいない。それに知り合いの家に行けば、何があったか話さないといけない。そんな気力も今は無かった。


(帰りたくない。でも、どうしよう……)


 フラフラとあてもなく歩いていたら、突然声を掛けられた。

「紗良さん?」

 誰の声なのか直感で分かって、しかし耳を疑った。まさか。

 声のしたほうに視線を向けると、丁度店じまいをしていた史郎が、いた。


「し、ろう、さん」

 どうやら自分は無意識に茜亭へ歩いてきたらしい。紗良は自分の行動も信じられなかった。

 史郎は、紗良の様子がおかしいことに声を掛けてから気づいた。名を呼んで立ち止まったのだから紗良に間違いないはずだが、こちらを見ているのか分からないような、目の焦点が合っていないような。

 手に持っていた看板を置き、紗良の近くへ歩いていった。


「どうしました?こんな時間に」

 もう21時を回っている。そして夕方店に来たばかりなのにまたこの近くにいるなんて。

 目の前まで来て話しかけているのに、まだぼうっとしているような表情だ。増々不審に思って、紗良の手を引いた。

「とにかく、店に行きませんか?」

「え?」

「え、って……。紗良さん、いつもと違いますよ。このままじゃあ、ってわけにはいきません。まだサイフォン落としてないから、一杯どうですか?」

 手から伝わる史郎の温かい体温と、コーヒーを淹れてくれるという提案で、急に緊張感と不安から解放され、思考が回り始めた。

「でも、ご迷惑じゃ……」

「もう閉店してますし。実は自分夕食まだなんでこれから作ろうと思ってたんですよ。ていうか、ほんと普通じゃないですよ、大丈夫ですか?」

 紗良は申し訳なさに身がすくむ思いだったが、しかし断ることなんてできない。

「じゃあ、すみません、お邪魔します」

 提案を受け入れてくれた紗良にほっとして、史郎は微笑んで、改めて紗良の手を引いて店の裏口へ案内した。


◇◆◇


 閉店後の喫茶店には初めて入った。ケーキや持ち帰り用の品は片付けられ、カウンター上の機器には布巾が掛けられている。照明は普段通りだが「終わった後」の雰囲気が何故か落ち着く気がした。


「どうぞ。夕方と同じ豆ですみませんが」

「いえ、嬉しいです。ありがとうございます」

 紗良のいつもの生活とはすべてがかけ離れたような、現実感のない一日だった。家を飛び出してきてしまったこの状況もだ。この異常さを今一度自分で理解し直すために、淹れたてのコーヒーの香りほど役に立つものはない。


「本当に美味しいです……」

 一口含んで、ホッと一息ついた。紗良は安心感から吐いたつもりだったが、史郎にはため息にでも聞こえたのか、より心配したような表情で覗き込んできた。

「何か、あったんですか?」

「何か……、いえ、何も」

「喫茶店の店長を甘く見ないでください」

 そっと頬に手を当てられ、紗良はびっくりして固まってしまった。

「毎日色んなお客様を見てるでしょう。そうするとね、何となくわかるんですよ。嬉しいことがあったんだな、とか、イライラしてる気分を鎮めようと頑張ってるんだな、とか」

 紗良の頬から手を離して自分の分のコーヒーを注ぎながら、史郎は話し出した。


「カウンセラーとかそんなんじゃないですけどね。人と人が接するって、不思議と伝わってきますよね、そういうの」

 カップを手に、カウンターから出て紗良の隣に座る。


「今の紗良さんは…何かから逃げようとしてここへ来た。違いますか?」

 ドキッとした。そうだ、紗良は逃げ出してきたのだ。『夫』という現実から。


「僕で良かったら、聞きますよ」

 大好きな人に、今の自分の一番の『恥部』を晒すようで、本当なら話したくない。だが、そこで強がれる力は、紗良にはもう残っていなかった。

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