14.溜息

『ただいま』

 帰宅を告げながら家に入ったが、室内は真っ暗だった。

(帰ってないのかな)

 不審に思いつつリビングの電気を付けると、ソファに夫が座っていた。

 居るのに、外も暗いのに、寝ているわけでもないのに明かりをつけていなかったのか。普段の夫ならあり得ない行動だが、昼間の自分の振る舞いを思い出せば納得できる。

(怒ってるのね)

 紗良はため息を吐いた。普段の自分ならきっとあれこれ言い訳して謝っていただろう。いや、そもそも二人で出掛けておいて、相手が席を外した隙に自分だけ帰宅するなどありえなかった。

 しかし、もう色々と疲れていて、そういった我慢や配慮が出来ないところまで、紗良はたどり着いていた。


 紗良のため息が聞こえたらしく、苛ついた夫の声が聞こえた。

「何考えてんだよ、お前」

「……なに、って」

「黙って帰って。体調悪いんじゃないのかよ。心配してあれから俺もすぐ帰ってきたよ。そしたら出掛けてるとか……、何なんだよ!」

 話しているうちにどんどん声が大きくなり、最後は怒鳴って、バン!とテーブルを叩いて立ち上がった。

「ふざけんなよ!」

 紗良は、それでも冷静な自分に驚く。そう、夫がこういう反応をすることは想定していた。それでも我慢できなかったのだ。あれ以上夫と一緒にいることも、茜亭へ行かずに夫の帰りを待つことも。


「私が何考えてるか、分からないんだ」

「……は?」

「私はあなたが何考えてるか全部分かるけど、あなたは分からないのね」

 普段の紗良と反応が違うことに動揺したのか、夫は黙ってしまった。そして予想通り、紗良の気持ちはこれっぽっちも理解していない夫に、苛立ちも失望もなく、納得しかない自分の気持ちのほうに、紗良はむしろ驚いていた。


「着替えてきていい?」

 夫からの返事も待たず、自室へ戻った。とにかくどっと疲れて、外出着を着ているのが辛くなってきたから部屋着へ着替えようとしたのだが、自室へ入ってドアを閉めようとした瞬間、夫がそれを止め、部屋に入ってきたので、さすがに驚いた。


「ごめん、着替えるから出てって」

「なんで着替えるんだよ?」

「は?」

「見てたっていいだろ、夫婦なんだから」

「何言ってるの……」

「それとも見られたくないものでもあるのか?今着てる服か、体に」


 夫が何を想像しているのか気が付いて、紗良は眩暈がした。本当に疲れているのに、その疲れのほとんどは夫が原因なのに、それには全く考えが至らないのか。


「とにかく、着替えたらリビング戻るから……」

 夫に退室を促すために押し返したら、その手を掴まれてベッドへ引き倒された。

「っ!」

 驚いて顔を上げると、見たことも無いほど怒りに歪んだ夫の顔が鼻先にあった。

「もしかしたら男の匂いがまだ残ってるのかもな」

 紗良の両手首を全力で押さえつけたまま、紗良の首筋に顔を埋め、匂いを嗅ぐように鼻を鳴らす。

「っ、やめて!離して!」

「なんでだよ。バレるのが怖いのか?」

「あなたが考えているような相手はいない!無駄だから、やめて!」

 紗良は必死でもがいた。疑われていること、無理やり押さえつけられていることへの悔しさもあるが、それ以上に、最近には無かったほど近くに感じる夫の存在に鳥肌しか立たない。耐えられそうにないほどの不快感が胃から込み上げてくる。

「いいじゃん、夫婦なんだし」

 下卑た声音でそう言うと、膝を紗良の太腿の間に割り込ませ、片手を離してスカートの中へ手を這わせた。

 その瞬間、本当に紗良は耐えられなくなった。

「……っんぐ!」

 渾身の力を込めて夫を突き飛ばし、両手で口を覆って慌てて洗面所へ駆け込んだ。


 紗良の反応に、夫は怒りも忘れてその場に力なくへたり込んでしまった。

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