13.共感

 紗良が入店して少ししたら、その前からいた客も帰り、店内には紗良と史郎の二人だけが残った。


 コーヒーをドリップする音と、低く流れるインストゥルメンタルだけが聞こえてくる。史郎は客とほとんど話をしない。そういう接客スタイルも、人見知りの気がある紗良は好ましかったが、今となっては多少恨めしい。自分から話しかければいいのだが逆に勇気が出ず、仕事の邪魔になることもしたくないため、音楽に耳を傾ける素振りで、手際よくカウンター内を片付ける史郎を見つめていた。


「どうぞ」

 史郎が紗良の前にコーヒーを差し出す。柔らかい湯気と香りが上り立ち、無条件にホッとする瞬間だ。

「ありがとうございます」

 さすがにまだ熱くて口にできないが、香りを楽しみたくてカップを持ち上げる。

「いい匂い……」

 思わず零れた紗良の言葉に、史郎は心底嬉しそうに微笑んだ。

「ありがとうございます。昨日入ったばかりなんです。この豆でお出しするのは紗良さんが初めてです」

 喫茶店とはいえコーヒー専門店と謳ってるわけではないから、それほどコアなコーヒー好きも多くない。史郎にとって、コーヒーそのものを楽しんでくれる紗良の存在は、同士を得たようで嬉しかった。


(初めて……)


 入荷したばかりならごく自然なことなのに、些細なキーワードにいちいちときめいてしまう。期待しちゃいけないと自分を戒めながら、紗良は頬が緩むのを止められない。


「土曜日のご来店は初めてですね。お出かけとか?」

 外出、と言われ、昼間の夫とのドライブを思い出した。はい、と頷きながら、

「でも暑くて……、帰ってきちゃいました」

 夫を置いて一人で、とは言えない紗良に、外を見ながら史郎は同意した。

「今日は本当にいい天気でしたからね。店内に籠ってると分かりませんが、外は暑そうでしたね」

 世間話として流れた話題にほっとする。そろそろいいかと、目の前のコーヒーに口を付けた。

「おいしい……」

 掛け値なしにそう感じ、紗良は感嘆の声をあげた。

 しかし本当に旨い。コーヒーには欠かせない香りと苦みをしっかり感じることが出来るが、変な後味がほとんどない。香ばしさだけが名残のように鼻の奥にとどまっている。逃したくなくて次の一口もすぐ口に含んでしまう。

「よかった。それ、インドネシアのコーヒーなんですよ。酸味がほとんどないでしょう。ミルクも砂糖も入れない方には好評なんです」

「インドネシアですか。行ったことないです。何が有名なんだろう……」

「僕も無いですねぇ。確かベトナムより南だったはずだから、何となく暑そうですね」

「ほんとだ。でも暑い国が多いですね、コーヒーの産地って」

「言われてみればそうですね。ブラジルも、アフリカもハワイも」

 南国生まれの豆が生み出す香り豊かな飲料。なのに飲むほうは寒い日に特に恋しくなるのも不思議な気がした。

 

 ふと顔を上げると、新しい写真が壁に掛けられていた。あれは……。

 一点をじっと見つめる紗良に気づき、史郎はその視線の先をたどると、ああ、と声を上げた。

「いいでしょう、あれ」

「もしかしてあの写真……」

「はい、紗良さんが撮ってくれたうちの外観です」

 やはり、見覚えがあるはずだ。しかしなぜ。

「最近、初めてのお客さんが多いですよ。そのうちのお一人が紗良さんの写真を見て来店したって教えてくれて。嬉しくて、プリントアウトして飾っちゃいました」

「あ、ありがたいんですけど……、あれ一枚だけ素人くさい出来だから、恥ずかしいです」

「そんなことないですよ?あ、でも雰囲気出すためにモノクロにしちゃいました」

 史郎は悪戯を見つかった子供のように申し訳なさそうに告白するが、紗良はお陰で確かに雰囲気のある写真になり、自分の技術の拙さが胡麻化されているのでありがたい。

「いいんですか?あんな目立つところに飾ってもらっちゃって」

「もちろんですよ。うちの顔ですからね」


 嬉しくて言葉にならない。思い付きと、本当にもっとこの店を知ってもらいたくて写真をSNSへアップしたが、そのことが色んなものへ、史郎との絆として繋がっていく。そう考えると、下手くそな自分の写真が愛おしくなる。


「もっと上手に撮りますね、今度は」

「紗良さんも写った写真にしますか?」

「ええ?!やだやだ、それはダメです!」

 全力で拒否する紗良が面白くて、史郎は声を立てて笑った。そして紗良は、


(史郎が写った写真は絵になりそう)


 とも感じた。そうだ、ゆっくりコーヒーを淹れている姿を撮ってみようと心の中で決めた。



 楽しい時間はあっという間だ。外も少しずつ暗さを増し始め、時計を見ると19時近かった。いい加減帰らなくては。そう考えた途端、現実に引き戻された。

 時計を見遣った紗良に気づき、史郎は帰宅を促す。

「引き留めてしまってすみません。もうお帰りですよね」

 名残惜しいが仕方がない。紗良は後ろ髪引かれる思いで席を立つ。


「ありがとうございました。またお待ちしています」


 店の外まで見送ってくれた史郎にお辞儀をして、家路へつく。打って変わって鉛のように重くなった心と体を引きずりながら。


◇◆◇


 玄関を開ける。鍵はかかっていないから、夫は帰宅しているようだ。

 深呼吸し、吐き出す勢いで声を出した。


「ただいま」

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