26.安堵
何とか気持ちも体調も落ち着いてきたタイミングで、紗良は浴室から出た。
体を拭き、髪を乾かす。体中に付いた傷は、見て見ぬふりをした。考え込んだらまた立てなくなる。一刻も早くこの家を出たかった。
フラフラしながら身支度を済ませ、荷物を持って家を出ようとした。ふと、夫が残していったらしいメモが目に入った。
『今後のことはメールする。それには返信してほしい』
何を考えてこのメモを残したのか、今はそれに考えを巡らすことすら煩わしかった。了解の意味を込めてメモをゴミ箱へ捨て、外へ出た。
◇◆◇
時間感覚を失っていたようだが、まだ昼過ぎだったらしい。夏の、しかも一日で一番暑い時間帯に出てきてしまったが、仕方がない。スマートフォンで手頃なホテルを探すと、会社の最寄り駅の隣の駅にあったので、そのまま一週間の予約を取ると、タクシーを拾った。
「ご旅行ですか?」
大きな荷物を引きずり、行先はホテルと告げれば、知らない人はそう思うだろう。人の好さそうな運転手に苦笑いで答えながら、座席にゆっくりと身をゆだねた。
(今私がすべきことはここまで……。明日からまた仕事だし、今日はもうゆっくりしよう)
何も考えたくないし、したくない。欲しいものも無い。あるとすれば誰にも邪魔されず休める空間と時間だけだった。
しばし車に揺られ、目的のホテルへ着いた。チェックインを済ませると指定された部屋まで行き、中に入った途端、猛烈な眠気に襲われて、そのままベッドへ倒れ込んだ。
◇◆◇
目を開けたら、窓の外は真っ暗だった。驚いて跳び起きたが、すぐにそこが自宅ではないことに、今日あったことが流れるように思い出され、ホッとして座り込んだ。
(もう一人なんだから、時間なんて気にしなくていいんだ……)
夫の帰宅時間に合わせて行動することも、夫の体調や好みを考慮した食事を作ることも、夫のためにシャツにアイロンを掛けたりスーツの埃を払ったりする必要もないのだ。
思えば、どれだけの時間を夫のために割いてきたのだろうか。自分のための時間など、それこそ週1回茜亭へ行くだけだった―。
そこまで思い至って、朝別れてから史郎に何も連絡をしていなかったことに気づいた。史郎も店で忙しいだろうが、昨日あれだけ世話になっておきながら何も報告しないというわけにはいかない。出来るだけ完結に、心配をかけないような言葉を選んで、メッセージを送ろうと決めた。
『昨夜は本当にありがとうございました。今はホテルに落ち着いています。またお礼に伺います。』
Eメールではないのだから長々書くのもマナー違反かと、これだけに収めて送信ボタンを押す。
(あの人に離婚を切り出す時より言葉選んだかも)
ふとそんなことを考えて、紗良は苦笑した。夫には浮気を疑われ、そんな事実は何一つないのだから否定はしたが、心の中ではどうなのだと自問自答する。多少は後ろめたさも感じるが、恋愛感情なのかと聞かれると、よくわからなくなってきた。
(あれかな、病気の時に主治医の先生がかっこよく見えちゃうような感じかな)
夫との息詰まった関係から生じていたストレスの、逃げ場が史郎だったとも思える。茜亭で過ごす時間が唯一の紗良のオアシスだったことも関係しているかもしれない。異性として全く意識していないか、と問われると否とは言えないが、史郎とそういう関係になりたいのか?というと、それも少し違っているようにも思える。
(夫の次が史郎さんじゃ、自分と向き合いたい、なんて豪語しといて全然学んでないわ、私)
精神的に頼る対象を変えただけになる。それでは夫を苦しめてまで離婚に踏み出した意味が無くなる。紗良はかぶりを振って、つまらない邪念を払おうとした。その時。
『ブーブブ』
何かの着信を知らせる音がスマートフォンから響いた。恐る恐る手に取ると、史郎からの返信と分かり、ホッとしてメッセージ画面を開いた。
『ホテルって、家出ちゃったんですか?大丈夫ですか?ホテルとか言って、まさかネットカフェにいるんじゃないですよね?』
まだ茜亭の閉店時間ではない。営業中なのに、慌てて返信をくれたのかと思うと、紗良の心が温かくなる。こういうことがあると、自分の史郎への感情が、感謝なのか憧れなのか、やはり異性への恋情なのか判断がつかなくなってしまう。
自分の気持ちを弄びながら、紗良は更に返信を返した。
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