08.我慢
茜亭から自宅までの記憶が全くない。それでも迷わず事故にも遭わず家にたどり着くのだから人間ってすごい。しかもしっかり夕食の買い出しまでしている自分に、一人になってから笑ってしまった。
(主婦、だなー)
今の紗良にとっては不快感すら抱かせる代名詞が、自分に染みついていることに驚く。
記憶が飛ぶほどショックを受けているはずなのに、涙も出ない。それどころか手は機械的に夕食を作り始めている。
しかし頭の中では、一つのことだけをずっと考え続けていた。
(あの
店に飾られた写真たちのように馴染んでいた。あんなに楽しそうに笑う史郎は見たことが無い。自然にカウンター内へ入り、『いつもの』場所を知っている。
(そっか。そういうことか)
知り合いか、友人か……、恋人か。
どんな関係かは知らない。しかしそのどれであろうと、あの女性の存在そのものが紗良の心臓を握りつぶす。二人が笑い合っている姿を思い出すと足元から震えが立ち上ってくるようだ。
引き換え自分は。ただの常連に過ぎないのだ。
野菜を切る手元へ目を戻すと、昨夜一生懸命選んで塗ったネイルが目に入った。昨日の自分を思い出し、唐突に笑いが込み上げた。
「あっはっは……、あははは、あははは!!」
紗良一人のキッチンに、馬鹿みたいに大きな笑い声がこだまする。テレビもつけていない室内は、そのまま紗良の声を反響し、紗良の耳に突き刺さるように返ってくる。
気が付くと、まな板の上には水滴を吸い込んだ後が出来ていた。次から次へと滴り落ちてくるそれが食材にかからないよう顔を背け、紗良は次の準備に取り掛かった。
◇◆◇
電子レンジで温めるだけの状態にして、夕食を冷蔵庫へ入れ、ダイニングテーブルにはメモを残し、紗良は自室へ引きこもった。
『体調が悪いので先に寝ます
夕食は冷蔵庫に入っているので
チンして食べてください』
泣いて腫れあがった顔を見られるわけにはいかないのもあるが、今はどうしても夫の顔を見たくなかった。何もなかったかのように出迎え、向かい合って食事を取り、夫の話に相槌を打つ。普段どおりの手順をこなす余力はなかった。
ベッドにもぐりこんで布団を頭まで被る。考えるのは、考えたくないのに思い浮かぶ茜亭での二人の様子だ。また涙が流れてしまいそうで、ぎゅっと瞼を閉じる。
そうしているうちに玄関が開いた音がした。
『ただいまー』
夫の声がする。紗良が出迎えると無邪気に信じ込んでいる声。しかし出迎えるどころかベッドから返事をする力もない。
「あれ?紗良?」
がちゃりと紗良の部屋のドアが開く。ノックもせず開けるところも今は不愉快だ。夫婦なら必要ないと、夫なら言うのだろう。
「もう寝ちゃったの?」
メモも見ないで入ってきたらしい。しかし無視をすれば布団を捲りあげて来そうで、仕方なく返事をする。
「頭痛くて……、風邪みたい」
「うわー、大丈夫?」
わざと背を向けているのに、ベッドの反対側に廻りこんで紗良の額に手を当てる。
「ほんとだ、熱っぽいね。寝てなよ」
だから寝ているのに。夫の頓珍漢さに、今まで自分はよく耐えてきたものだ。
「うん、ありがとう」
「夕飯は?」
「……、冷蔵庫に入ってる」
「そう。じゃあね」
満足げに紗良の部屋を出ていく。夫の気配が消えたところで、紗良は例えようもない惨めさに襲われた。
泣いたらもっと惨めになりそうで、布団の中で子供のように膝を抱えて、耐えようとした。
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