33.誓約

 翌朝。紗良は出勤に合わせて起床したため、その時まだ史郎は眠っているようだった。起こさないよう、音を立てないように気を付けながら身支度をする。

 史郎が環境を整えてくれたおかげで、昨夜はよく眠れた。まだ痛いところがあちこちあるが、頭はかなりスッキリしている。

 史郎の部屋の扉を見遣る。静かだからまだ眠っているだろう。出勤すること、帰宅予定時間、夕食分の買い物をしてくる旨を認めたメモをダイニングテーブルへ残し、家を出た。


(起きてこなかった、良かった……)


 疲れているだろう史郎を少しでも休ませたい気持ちと、昨夜のことを思い出すと恥ずかしくて、出来れば顔を合わせたくないという思いも、紗良にあった。


◇◆◇


 突然キスをされ、紗良は何が起こっているのか分からなかった。


 ずっと、手の届かない存在だと思っていた史郎が、どんどん自分との距離を詰めてくる。心理的にも、物理的にも。

 絶対に縮まることがないと思っていた距離が無くなっていくことへ、紗良は幸せよりも戸惑いを強く感じていた。決して嫌ではないし、むしろ嬉しいはずなのに、何故自分は近づいてくる史郎を押し返そうとしてしまうのか、自分でも理由が分からなかった。


 あっという間だったのか、それとも長い時間だったのか。ゆっくりと史郎が唇を離した。

「紗良さん……」

 名前を呼びながら、もう一度抱きしめようとする史郎を、今度は本当に押しとどめる。史郎が次に何をしようとしているのかが分かってしまった。

「ごめんなさい」

 とっさに自分の口から出た言葉に、紗良も驚く。しかし言い間違いではないし、自分の戸惑いの理由がこれで分かった。

「今の私には、その権利はないんです」

 史郎に愛される権利は、と、紗良は心の中で続けた。


(友人としての優しさは受け入れられる。でも今は……)


 紗良の言葉を聞いて、史郎はふーっと息をつき、紗良の体から手を離した。

「急ぎすぎましたね、すみません」

「いえ……」

 恥ずかしさと申し訳なさで、二人ともお互いを見ることが出来ない。しかし、今以上に近づくことも、離れることも出来ず、そのまましばらく時間が過ぎた。


 ようやく、気持ちが落ち着いた紗良が先に口を開いた。言いたくはないが、言わなくてはいけないと思ったのだ。

「今日、家を出ようとしたら、夫に無理やり抱かれました」

 史郎は薄々予想していたことだったので、黙って頷いた。

「体中変な傷とか痣とかあるので、見られたくないんです」

 その傷が、自分の汚らしさの象徴のように、今の紗良は感じていた。もしいつか史郎とそうなるのだとしたら、すべてが終わってからにしたい。身上も体も。


「いや、俺の配慮が足りませんでした。いやなこと言わせちゃってすみません」

「……気づいていらっしゃいました?」

「なんとなく。事故や不注意では出来ないような傷が見えたので」

 察して黙っていてくれた史郎に、また有難い思いがした。しかし、と史郎が続ける。

「だったら尚更あなたを一人に出来ない。ご主人は危険です」

「でも……」

「夫婦間でも、同意が無ければ犯罪が成り立つんですよ。離婚を切り出された後にそんな振る舞いをする男の理性なんか当てになるもんか」

「でも……」

「でも、じゃないです。無事他人になるまでは、俺は番犬だと思ってください」

 両手を耳の上に当てて、ワン、と鳴き真似をして見せた史郎に、紗良は思わず笑ってしまった。

「犬、ですか?ボディーガードじゃなくて?」

「いやー、そんな格好いいことは出来ないかなーって。俺三枚目だし」

「え?まさか。格好いいのに」

「いやいや!昔から笑わせてなんぼなキャラですよ。いい大人になったので封印してますけどね」


 やっと笑顔になった紗良をみて、史郎は安心した。そして少し緊張感を戻して、続ける。

「あなたは男の怖さを分かってないし、まだご主人を信じてる」

 思いがけないことを言われ、紗良は驚いた。

「でももう他人になるんです。しかもただの他人じゃない、一度家族だった二人が、片方の一方的な申し出で他人になるんです。そう簡単に納得なんかしないだろうし、それまであなたの身が安全だなんて言いきれますか?」

 そう言われ、紗良は昼間の一件を思い出し、無意識に身震いした。

「俺、本物の犬より多少は役に立ちますよ?」

 史郎はそう言うと、ソファから滑り降りて紗良の前に跪いた。


「守ります。あなたが安心して新しい人生をスタートできる日まで」

 そう言うと、紗良の左手を取り、もう指輪を外してある左手の薬指にそっとキスをした。

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