39.区切

「あ、史郎さん、区役所に寄りたいのでいいですか?」

「あっ、そうだ!そっちが本命でしたよね。行きます行きます」

 史郎は慌ててハンドルを切った。

「史郎さん、運転お上手ですね」

「え?そうですか?」

「レンタカーなのに。私全然酔わない」

「あ、車酔いやすいんですか?」

「乗ってる時間とか、自分の体調にもよりますけど。大抵は酔い止め飲んでから乗ります。でも今日は飲んでないのに全然平気」

「良かった。大事な人乗せてるんだから、俺だって慎重になりますよ」


 大事。

 史郎の言葉が嬉しい。だからこそ、きちんとすべきだと、紗良は改めて決意する。

「あ、着きましたよ。俺もついていきましょうか?」

「いえ、大丈夫です。すぐ戻ってくるので待っててもらっていいですか?」

「はい。じゃあ、いってらっしゃい」


 助手席のドアを閉め、紗良は窓口へ向かう。裁判も協議もしていないので、あっさり受理された。転居届は後日取りに来ることにする。

「お待たせしました」

「え、もう?」

「はい。変ですか?」

「いえ……。なんか、不思議なもんですね。よくドラマとかでも『紙一枚の関係』なんていうけど、役所にしてみれば事務処理の一つなんだな。結婚も、離婚も」

「……仕方ないですよ。私の後にももう一人いらっしゃいました。件数が多いんじゃないですか?」

「へー……。そんなもんなんですね」

 意外とあっさりしている紗良の顔を、史郎はそっと観察する。元気、というのでも、感傷に浸っている感じでもない。しかし無感情というのでもない。


(いつもこうやって自分の中に感情を押し込めてきたんだろうな。それが悪いこととは思わないけど……)


 一人で抱え込めるのはそれだけのキャパシティがあるからだ。そしてそれは紗良の強さだ。でも史郎は、自分には吐露してほしいと思ってしまう。


◇◆◇


 史郎の家に戻ってきた。段ボールに詰めた荷物はすぐに使うものではないとのことなので、倉庫の空きスペースへ収納する。

「あ、スーツケース俺が運びますよ」

 このビルにエレベーターはない。女性の手には余るだろう。

「ありがとうございます。あ、じゃあ私お昼作りますね。何がいいですか?」

「うーん、じゃあ軽めにパスタがいいかな」

「はい。夜はまた考えますね」



「お待たせしましたー」

 紗良がダイニングに昼食を並べる。丁度片付けを終わらせた史郎は、手を洗って食卓につく。史郎が座ったことを確認して、紗良はいただきます、と手を合わせようとしたところで、史郎から『待った』がかかった。


「紗良さん。5分ください」

 史郎の意図が分からず、紗良はきょとんとしつつも頷く。史郎はポケットから小さな箱を取り出した。

 そっと開けられた蓋の下には、小ぶりのダイヤモンドが光っていた。

 紗良は驚きで、石を見つめたまま動けなくなった。


「紗良さん。俺と結婚してくれませんか」


 その時、紗良の全身を恍惚に似た衝撃が駆け抜けた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る