40.辞退

 紗良は、史郎を見つめたまま、息をするのも忘れて固まってしまった。


「……紗良さん?」


 史郎は全く反応が無い紗良へ、そっと手を伸ばした。触れられた瞬間、紗良は我に返った。


「あ、ご、ごめんなさい。あの、びっくりして……」

「そうですよね、すいません。でも……、何故か早く言わなきゃいけない気がして」

 そう言うと、史郎は両手を自分の膝に戻し姿勢を正して、今一度同じ言葉を繰り返した。


「紗良さん。俺と結婚してください。生涯、俺にあなたを守らせてください」

「でも、あの……、まだお互いのことよく知らないし……」

「お互いのことって、何ですか?身長体重ですか、生年月日ですか?血液型ですか?」

「え?あ、いえ、その……、うん、そういうことも含めて」

「いくらでも教えますよ。紗良さんになら」

 何故か不安げに自分を見上げる紗良から目を離さず、史郎は続けた。

「実際に婚姻届けを出すのは大分先ですよね。女性は離婚してからしばらく再婚出来ないはずだし……。今日こんなことを言ったのは、俺がどんな目であなたを見ているのかだけでも知って欲しかったんです」

 紗良は黙って聞き続けた。


「今まで結婚を意識するような相手はいませんでした。気が付けばこの年で……。店も楽しいし、一人で不便もないし、このまま爺になるのもいいかな、とも思ってたんです」

 でも、と史郎は言う。

「ここ数日紗良さんがこの家にいて、自分に何が欠けていたのかが分かった気がしたんです。毎日がとても充実している気がする。俺は……どうしてもあなたと離れたくない」

「だから……、結婚を?」

「はい」

 紗良は、今一度差し出された指輪を見つめた。

 その表情は、何故が物悲しそうに見えて、史郎は急に不安になった。


「駄目、ですか……」


 紗良は視線を史郎へ戻し、じっとその目を見つめると深く頭を下げた。


「ごめんなさい」


◇◆◇


 紗良は、史郎からのプロポーズの言葉を聞いたとき、今まで感じたことが無いほどの感動を得ていた。

 そして同時に、自分がそれを想定していたことにも気が付いていた。


(どうしよう、すっごい嬉しい……。でも、だからこそ言わなきゃいけない)


 史郎のダメ押しの言葉に拒絶の返事をしてから、改めて紗良は口を開いた。


「すごく嬉しいです。私も史郎さんが大好き。今こうしてお世話になっていることがなくても、私はずっとあなたが好きでした。いえ、憧れてました」

 次は史郎が黙って聞く番だった。紗良は続ける。

「だけど……、だからこそ今の私はあなたのお申し出を受けちゃいけないんです」

 ふーっと一つ、深く息をつく。


「今回、夫と別れるために、史郎さんにたくさん助けられました。そして守ってもらった。今ここで普通にご飯が食べられるのも、史郎さんのおかげです。一人で全部やろうとしていたら、きっと今頃どうなってたか……」

 昨日の夫の行動を思い出し、身震いがした。離婚話自体が立ち消えていた可能性だってある。

「本当は全部一人でやらなきゃいけないのに。そうできる人間になりたいために離婚したのに……。結局あなたを頼ってる」

 堪らず史郎は声を上げた。

「いいんです……、それで、いいんです!たくさん頼ってください」

「いいえ、ダメです」

 きっぱりと、紗良は拒絶した。


「あなたが大好きです。だからこそ、私は一人にならないとだめなんです」

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