21.決断
図らずも気が付いてしまった自分の本心に、紗良は呆然とした。まさか自分がそんなことを望んでいたとは。
(もう、一緒にはいたくない)
結婚以来初めて『離婚』という言葉が浮かんだ。いや、まったく初めてなわけではない。喧嘩も何度もしたし、嫌気がさしたことも一度や二度ではない。しかしリアルに現実の手段として思い浮かべるのは初めてかもしれない。
しかし、今はもう振り払うことが出来ないほどに、そこへ意識が囚われていた。
もし本当に離婚するなら、越えなくてはいけないハードルは山ほどあるだろう。
まずは夫に同意してもらう必要があり、その後は財産や住居の問題、お互いの親への報告、場合によっては転職もしなくてはいけなくなるかもしれない。紗良も仕事をしているから突然生活に困るということはないだろうが、それでも今と全く同じというわけにはいかないはずだ。
それでも。
離婚後の一人の生活を想像すると、窮屈な狭い部屋から突然地平線が見えるほどの大平原へ出られたような解放感が紗良を支配した。
◇◆◇
風呂の準備を終えてリビングへ戻ってきた史郎は、ソファに腰掛けている紗良の表情が先ほどまでとは一変していることに気づき、驚いた。
(何か思い浮かんだのかな……。でも本当に素直に何でも顔に出る人だな)
先刻までの迷子のような暗さは消え、代わりに何かを探すような、追い求めるような目をしている。一人にしたのは正解だったと、史郎は頷いた。紗良の思考の邪魔をしないよう、自分の部屋へ行く。
一方紗良は、考えれば考えるほどじっとしていられなくなり、はっと我に返るとソファから立ち上がって史郎を探した。
すると、隣の部屋から音がしたので、開いているが扉をノックしながら声を掛けた。
「史郎さん、すみません、色々と」
「あ、気が付きました?」
「気が付いた?」
「なんかすごく没頭して考え込んでたように見えたので、邪魔しちゃ悪いと思って。でもこっちの世界に戻ってきたみたいですね」
「……すみません、そんな感じでした?」
「いいんですよ、時間かけて考えたら、って提案したの俺ですし」
「ええ。お蔭様で少し分かってきました」
「どうしたいか、ですか?」
「はい」
普段はふんわりした雰囲気の紗良が、急に表情も空気も引き締めるように頷き、史郎は緊張した。
「……どう、したいんですか?」
「離婚、します」
「……離婚?」
「はい」
「今回のことで、ですか?」
「やっぱり、そう思いますよね」
史郎の反応を見て、紗良は苦笑した。
「でも、それだけじゃないんです」
紗良は再びリビングへ戻る。史郎もそれに続いた。
「夫が全面的に悪いわけではないです。私も、その場その場で思ったことを言えばよかった。まぁ、言ったところで即否定されたでしょうけど」
「そんなことは……」
「いえ、そういう人なんです。でもきっと悪気はないんです。彼にしたら、私には正しい判断は出来ないだろうから自分が決めてやらなければいけない、とでも思っているんでしょう。最初の頃は何度か自己主張もしたんですけど、夫の反論と戦うのが面倒になって、止めました」
先ほどとは違い、紗良の隣に史郎も腰掛けた。紗良は続ける。
「夫が私との生活をどう思っているのかは、これから聞かなくちゃいけないことです。でも私は……、私自身を大事にするために、もうあの人とは一緒にいられないって、そう思ったんです」
頼りなげな人だと思っていた。それが今の紗良の横顔は、凛として見惚れるほどで、史郎は驚きを隠せない。
「大切に、ですか」
「はい」
紗良は史郎へ向き直った。
「自分の心の隅にわいてきた小さな感情を、全部無視して生きてきました。それは結婚する前から。だから私がどんな人間なのか、夫だけでなく両親も知らないと思います」
いや、もしかしたら、自分自身を一番知らないのは、紗良本人かもしれない。
「でもそうやって自分を蔑ろにし続けた結果がこれです。もう、やめたいんです、今の自分を」
紗良は史郎に話しているようで、実は自分自身と対話しているような錯覚に陥った。
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