19.納得
「紗良さん……」
突然無表情になったかと思うと、静かに涙を流し始めた紗良を見て史郎は驚き、言葉を失った。
(やばい、幽霊とか言っちゃったから)
自分の言動が彼女を傷つけたと思った史郎は、慌てて謝罪した。
「ご、ごめんなさい!変なこと言いました!」
もうちょっとでテーブルにぶつけそうな勢いで頭を下げると、紗良はハッとしたように我に返り、こちらも謝罪を返した。
「いいえ、いいえいいえ!すみません、あら?私……」
自分が泣いていたことを今気づいて、紗良も慌てる。
「なんで?なんで泣いてるんだろ?」
「だから、俺が幽霊とか……」
「違う!違うんです、それで悲しいとかじゃなくて、私……」
幽霊と言われたことが悲しいのではない。幽霊の気持ちが分かってしまった、そんな自分が空しく哀しかったのだ。
(夫にとって、私は幽霊だ……)
実体はあるのだから見えてはいるだろう。しかし、紗良がどんな人間で何を感じてどう考えて動いているのか、生きているのか。おそらく理解していないし、それ以前に理解しようとしていない。
夫にとっての紗良は、妻とはきっと。自分が生活するうえで『こうしてくれるといいな』という願望が化けて出たような存在なのだ。
先ほど史郎を撮影していたスマートフォンを拾って見た。しかし夫からの連絡は何一つ入っていない。ほらね、と、一人で頷く。
(所詮、その程度なのだ)
自分の存在を、史郎の『幽霊のようだ』という言葉が教えてくれた。確かにショックも受けているが、それ以上に『納得』という言葉が一番しっくりくる。涙が流れた理由は、自分でも分からないが……。
「史郎さんのせいじゃないんです。本当に違うんです」
ちゃんと自分の言葉にしたくて、紗良は思わず正座して史郎と向き合う。それを見て史郎も正座してみた。
「そうだ、って、納得できたんです。きっと史郎さんは青い顔をしてふらついてた様子を思い出して幽霊、って表現されたんだと思うんです。でも私は違うことを考えてた……」
冷めたら勿体ないと、もう一口コーヒーを飲んでから、紗良は続けた。
「幽霊って、何か思念があってこの世に残ってるっていうじゃないですか。多分何か伝えたいことがあるんでしょうね。でも、当然普通の人には伝わらない。その感じが……、私と夫のようで。十年も夫婦だったのに、私は人間扱いされていなかったんだ、って気づいて……」
こんな話し方でどこまで伝わるだろうか……、いや、伝わる必要はないのかも。ただ自分が泣いた理由は史郎の言葉そのものではないことは伝えたい。
「だから、せい、じゃないんです。いえ、むしろお陰っていうか」
「いいんですよ」
2,3枚ティッシュを取って差し出しながら、史郎が紗良の言葉を遮った。
「無理しないで。この際だから、思ってること吐き出しちゃったらどうですか?」
もらったティッシュで涙をぬぐいながら、もう一度紗良は史郎の今の言葉を反芻していた。
―オモッテイルコトヲハキダス―
そこで紗良の思考が再び止まってしまった。
(私が思っていることって、ここで聞いて欲しいことって何だろう……)
夫への愚痴か、言いたいことも言えない自分への文句か。いい年をして家出してきたことへの反省か、迷惑をかけている謝罪か。
ぐるぐる考えを巡らせている紗良の様子を見ながら、史郎はもう一言付け加えた。
「思いつかないですか?」
その言葉を聞いた紗良は、また何かを言い当てられたような気がして史郎を見つめ返した。
「はい……」
情けない声音で、正直な思いが先に口から滑り出した。
「じゃあ、質問を変えます。これから紗良さんは、どうしたいって思ってます?」
「これから?」
「はい。ご主人とのこと、生活のこと。出来るとか出来ないとか、条件は考えないで、こうしたいっていう展望は、何かありますか?」
頬杖をつきながら優しい目でそう尋ねてくる史郎が、何か違うものに見えてきて、紗良は二、三度目を瞬かせた。
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