第14話 蝶のための森
◇◇
レイラは自分で自分のことがこんなにも嫌になったのは生まれて初めてだった。
――私もウィネット様のお誕生日を直接お祝いにいきたいのです!
本来ならば兄のライアンだけがアラス王国へ訪問する予定だった。
一国の王族が2人同時に他国に渡ることがどれほど大変なことか、彼女にはよく分からない。それでもレイラのためだけに王族だけが乗ることを許された馬車が1台、それを守る兵50人、それに彼女の世話をする侍女10人が、大慌てで用意されたのは正しく知っていた。
決して裕福ではない彼女の国にとって、安くない出費であったことには違いない。
でもそんな損得勘定など『レナードに会える!』という希望の光の前では、かすんでいた。
だが今こうして帰国を前にして、希望がなくなったと知るや、これまで色々な人に迷惑をかけてきたことが、鉛のように重い罪悪感となって彼女を苦しめたのだった。
「はぁ……。ひどい顔……」
洗面台の鏡の前で彼女は自分の顔を見ながら、ため息まじりに漏らした。
昨晩、よく眠れなかったからだ。
長い昼寝から目を覚ましたウィネット相手に、夜遅くまで、カードゲームではしゃぎすぎたせいかしら。
いや、違う。
理由なんて一つしかないもの……。
――コンコン。
扉をノックする軽い音が鼓膜を震わせたところで、はっとした彼女は顔を冷水ですすぎ、髪を整える。
最後にパンと両手で頬を張って笑顔を作った。
「よしっ! 帰るわよ!」
強引に気持ちを切り替えて洗面所を出る。
同時に扉の向こうからよく通る女性の声が聞こえてきた。
「レイラ様。お時間でございます。ご用意は整いましたでしょうか」
「はい、大丈夫よ」
レイラは忘れ物がないか部屋を見渡した後、最後に白い絹の手袋をして扉を開けた。
そこには小柄で華奢な黒髪の少女が背筋を伸ばして立っていた。
だがアラス王国の近衛兵であることは、えんじ色の外套と左胸にある銅製のハヤブサの紋章からして明らかだ。
自分とさして年齢は変わらないであろう。
しかし凛としたたたずまいから、彼女の方が年上のように感じられてならなかった。
「本日、護衛をさせていただきますユーフィンと申します。よろしくお願いいたします」
ペコリと頭を下げたユーフィンに対し、レイラは小さくうなずいた。
「ユーフィンさんね。よろしくお願いします」
「では、まいりましょう」
レイラが寝泊まりしていた客間は王宮の西側にあり、出立式の行われる獅子王門までは王宮の中央にある中庭に出てから南に進む。
そうレイラは事前に聞かされていた。
だが前を行くユーフィンは広い中庭に出ても方角を変えずに東へ真っ直ぐ進み続けたのだ。
「ユーフィンさん? こちらでいいの?」
「ええ。実は直前にルートが変わったのです。中庭は人々で溢れかえっておりますので、東にあるわき道を通るよう、言いつけられております」
「そうだったの……」
にわかに胸騒ぎがする。
心なしか人が少なくなってきたのは気のせいではないはずだ。
いったいユーフィンは何を企んでいるのだろうか……。
悪い予感に顔が曇っていく。
「こちらの中を通ります」
小さな林の中に石畳の小路が続いている。
周囲を木々でおおわれており、ひんやりとしているはずなのに、背中の汗は止まらない。
だが彼女の心配などよそに、ユーフィンはしっかりした足取りでずんずんと前を進んでいく。
そして林を抜けて、再び夏の太陽の下に出た。
周囲を見回すと近衛兵たちがこちらを見ているのが分かる。
レイラは人目があることにほっと息をついた。
「申し訳ございません、レイラ様。道を間違えてしまいました」
「道を間違えた?」
ユーフィンの言葉に小首をかしげたレイラ。
だがユーフィンはそれ以上は何も言おうとはせず、手を背後に組んで直立している。
「じゃあ、引き返すの?」
そう問いかけた直後だった。
群青色のマントに身を包んだ、ひげ面の男が目の前で立ち止まったのだ。
「ちっ……」
彼は舌打ちをして、苦虫を嚙み潰したような顔でレイラを睨みつけている。
いったいこの人は誰だろう。なぜ彼は私を見て不機嫌になっているのだろう……。
にわかに混乱した彼女だったが、その男の斜め後ろに姿をあらわした人物を見て、不安も、困惑も、恐怖も、全部吹き飛んでしまったのだった。
「レナード様……」
そう……。それは彼女が恋焦がれたレナード・フットその人だったのである。
さらさらで鮮やかな金色の髪も、長いまつげも、少しだけ垂れた優しい目も、小さな唇も――目に映るすべてが彼女が夢の中で何度も思い描いたものと、まったく変わらない。
「お会いしたかった……です……」
そう言うのが精一杯だった。
あとは涙にくれ、何も考えられなくなる。
それでも純白のハンカチを差し出したレナードが見せた眩しい笑みだけは、この先一生忘れまいと、胸に誓ったのだった。
◇◇
「レイラが王国を去ってからも色々な花や木を植えたんだよ」
今通ってきたばかりの林の中を、レイラは再び歩いていた。
けど先ほどまでと違うのは、すぐ隣にレナードがいること。
不安でいっぱいだった胸の中が、今は喜びで満たされている。
「そ、そうでしたか」
ふわふわと宙に浮いているような心持ちで、気の利いた答えが出てこない。
ちらりと背後に目をやると、ユーフィン、群青の外套をきた3人の男、さらに黒髪の少年の5人が距離を取ってついてきている。
つまり周囲10ノーク(約10メートル)の空間で、レイラはレナードと二人きりでいるということだ。
「レイラは2年前と全然変わらないね」
レナードが裏表のない澄み切った口調で言った。
レイラはちょっぴりムッとして口を尖らせた。
「それは子供っぽいってことでしょうか?」
思わぬ反論にレナードは一瞬だけ目を丸くしたが、すぐに目を細めて笑った。
「あはは。そうじゃないよ」
「じゃあ、どういうことですか?」
柄にもなく深く聞いたのは、彼の本心が知りたかったからだ。
本当は私のことをどう思ってくれているのだろうか……。
怖いけど、聞いておかないと後悔しそうだった。
レナードはわずかに困ったような顔をしたが、黄色や紫に咲く花々を見ながら答えた。
「薄い黄色のドレスが似合ってるところとか……」
「とか?」
「あとは……一緒にいるとワクワクするところとか……かな」
答えになっているようで、そうでないような、なんとも言い難い答えに、レイラはどんな反応をしていいか分からない。
でも彼女の口から自然と出てきたのは紛れもない、彼女の本心だった。
「私もレナード様と一緒にいるとワクワクします」
二人の間に甘い沈黙が流れる。
胸がドキドキしてはちきれそうで、大きな声で叫び出したくなるくらいに、レイラは幸せだった。
二人だけの足音がハーモニーとなって、鼓膜を優しく震わせる。
それだけでこんなにも嬉しいだなんて、想像すらしなかった。
しかしレナードにとっては居心地が悪かったのか、早口で花のことを話しはじめた。
「これは初夏に咲く花なんだけど――」
それからはいつもの二人だった。
植物や動物のことを目を輝かせて語るレナード。
彼の話を聞いて、驚いたり、笑ったりするレイラ。
わずか1オクト(10分)にも満たない時間だったが、レイラにとってそれは永遠にも感じられた。
そして『木漏れ日の道』を出る直前で、レナードは1本の植物を根元から折って、彼女に手渡した。
紫色の小さな花がいくつも咲いた、長い円錐形の花穂は、とても甘い香りがする。
「この花は『
「へぇ。そうなの! うん、いい匂い」
嬉しそうに花を見つめるレイラのことを、レナードはしばらく見ていたが、一度だけ深呼吸をした後に、少しだけ口調を強めて言った。
「いつかレイラに会った時に、渡そうと思って大切に育ててきたんだ」
「私に?」
「うん」
レイラは大事そうに両手で花を持ち、笑みを作った。
「ありがとうございます。とても嬉しい」
レナードの頬がわずかに赤くなったのは気のせいだろうか。
そんなことに気を取られているうちに、ユーフィンの声が聞こえてきた。
「レイラ様。私たちはここからは南へ進みます。レナード様は中庭の中央まで行ってから南に方向を変えますので、ここでお別れです」
それは夢から現実に引き戻す言葉だった。
でもレイラは悲しくなかった。
こうして夢にまでみたレナードとの再会が果たせたことだけで満足だったからだ。
「では、レナード様。さようなら」
「うん。また近いうちに会えるといいね」
レイラは何も言わずに、ちょこんと頭を下げただけでその場を後にした。
なぜならこれ以上言葉を交わせば、別れが惜しくなってしまうことを知っていたからだ。
夢見心地のままでアラス王国を立ち去りたい――。
それが最後の望みだった。
しかし数歩進んだところで、彼女は肝心なことを忘れていたことに気づいた。
「あっ! 返事を聞いてない!」
――お慕い申し上げております。レナード様。
――ごめん。僕はまだ自分の気持ちがよく分からない。だから次に会った時に返事をさせてほしい。
あの時の返事を聞きそびれるとは……。
レイラはレナードが歩いていった方に目を向けた。
しかしすでにレナードは人だかりの中にあり、姿を見ることすらかなわない。
「レイラ様、いかがいたしましたか?」
ユーフィンの問いに、素直に答えるわけにもいかず、
「いえ、なんでもないわ」
と平静を装って前を向きなおした。
次はいつ会えるか分からない。
その時までまたもどかしい想いを胸の奥にしまっておかねばならないのか……。
――そんなの絶対にイヤ!
しかしどうにもならないのが現実だ。
いつの間にか獅子王門の前までやってきた。
目の前には帰りの馬車。
――こんな気持ちのまま帰りたくないのに……。
そう思ってひとりでに視線が落ちていったその時だった――。
「レイラ様! そのお花! とても綺麗ですね!」
聞き覚えのある声に、はっとなって顔を上げると、目に飛び込んできたのは、昨日道案内をしてくれた侍女――セシリアだった。どうやら彼女が馬車の扉を開ける役目らしい。
「え、ええ。そうね」
とっさに言葉が出ず、生返事をするレイラ。
そんな彼女に対し、セシリアはうっとりとした表情で続けた。
「それは
「花言葉が『あなたのことを愛しております』……!?」
ガツンと脳天を叩かれたかのような衝撃に、一瞬だけ目の前が真っ白になったが、直後に色々な感情がこみ上げてきた。
慌てて周囲を見回す。
するとレナードの姿を視界にとらえたのだ。
彼の隣には群青のマントの男たちではなく、深紅の鎧の美女がいる。
しかしそんなことはどうでもいい。
「レナード様!! 私――」
と口を開きかけた。
しかし……。
「レイラお姉ちゃぁぁぁん!!」
甲高い少女の声に彼女の言葉は完全にかき消された。
思わず声の持ち主に目を向けると、ピンク色の可愛いドレスに身を包んだウィネットが、前のめりになって駆けてくるではないか。
「そんなに走ったら危ないわよ!」
そう声をかけたが、5歳の女の子が聞き入れるわけもない。
ウィネットは鼻をふくらませて真剣な顔つきで、必死に足を動かしている。
だが次の瞬間、恐れていたことが起こってしまったのだ。
――ガッ。
石畳のわずかな隙間につまずいたウィネットは、前傾姿勢のまま宙に浮く。
「ダメ!!」
このままでは顔を地面に打ちつけて大けがしてしまう……。
レイラは懸命に手を伸ばしたが届くわけもない。
「いやぁぁぁ!!」
思わず目をつむった直後――。
――ボフッ。
両腕が柔らかな感触に包まれたのだ。
「えっ?」
ゆっくりと目を開けると、なんと腕の中にウィネットの姿があるではないか。
しかも顔のどこにも傷はない。それどころか転んだ時につくであろう汚れすら見当たらない。
「レイラお姉ちゃん?」
「へっ? あ、無事でよかったわ」
「うん! お姉ちゃん! また今度遊ぼうね!」
「え、ええ。それまであんまり走り回ってケガしたらダメよ」
「うん!」
いまだに何が起こったのか分からないままレイラはウィネットから離れて、馬車の方を向く。するとセシリアがドアの取っ手に手をかけた。
「レイラ様。お達者で!」
「ありがとう。セシリアさんもね」
ガチャリと高い音を立ててドアがあけられる。
レイラは放心状態のまま、馬車の中に入った。
バタンとドアが閉じられると同時に、ふかふかの椅子に寄り掛かる。
……と、次の瞬間だった。
椅子の下の隙間から、声が聞こえてきたのだ。
「レイラ。声を出さないで」
それは紛れもない。
レナードの声だった――。
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