第25話 落とし穴
◇◇
ゼノス歴303年8月8日。
10人ほどの小隊が、アルトニーの王城を出て東に向かっていた。
彼らが向かっているのは岩山の『切通し』。
その先頭には、白馬にまたがった国王のラファエルがおり、その隣にアデリーナの姿があった。
徒歩の彼女はラファエルを見上げながら、問いかけた。
「いくら和平の話し合いとはいえ、陛下自ら城を出ていくなんて、無防備すぎないかしら?」
「ははっ。無防備すぎるからいいんじゃないか」
「どういうことですかぁ?」
首をかしげたアデリーナに、ラファエルは爽やかな笑顔で答えた。
「落とし穴にはまる時というのは、無警戒な時だ。つまりこちらが無防備であればあるほど、相手の警戒心は解けて、落とし穴にはまりやすくなる、ということだ」
「32歳の国王が17歳の少年をだまして落とし穴にはめようとしているなんて……。ちょっとは心が痛まないのかしら?」
アデリーナが嫌味をこめて問いかけたのは、彼の良心に訴えかけようとしたからだ。
しかしラファエルは、その質問に答えようとはせず、不敵な笑みを浮かべたまま、静かに馬を進めていったのだった。
◇◇
同じ頃。
レナードはジュヌシー城からの脱出に成功していた。
ハンナやコリンは軍備に忙しく、レナードの監視が緩んでおり、ラウルの耳を利用して人の目を避けることができたのだ。
レナードは上空に舞うハヤブサを見ながら、ユーフィンの策を思い起こしていた。
――明日の朝。メリア様はアルトニーの国王宛にハヤブサで伝書を送るとのことです。そのハヤブサの足に書状をくくりつけるお役目をちょうだいしました。そこでメリア様の書いた書状と、白紙を取り換えます。そうすればメリア様の存在を相手に知られることはないでしょう。
「ユーフィンはうまくやってくれたかな……?」
その問いに対し、彼の隣に並んだラウルが淡々とした口調で答えた。
「ユーフィンなら大丈夫。絶対にうまくやったはず」
二人は西へと風のように進んでいく。
切通しの場所は事前にラウルが確かめているから、道に迷うことはない。
1ドンヌ(約1時間)もしないうちに、その入り口までたどり着いた。
「ここか……」
道幅は大人が3人並ぶのがやっとなほど狭い。
両脇は数十ノーク(数十メートル)はあろうかと思うほどの岩壁がそそり立っている。
ほとんど太陽の光が入ってこないためか、道のあちこちにコケが生えており、中に一歩足を踏み入れると、季節を忘れるほどひんやりしていた。
「いこう」
レナードはラウルに力強く声をかけた。
正直言って、相手を説得できる自信はない。
元から相手との駆け引きとか、だまし合いとは無縁の生活を送ってきたのだから。
それでも自分が動かねば後悔する。それだけは絶対に嫌だ。
その一心だけが、レナードの足を動かす原動力だった。
そうして進むこと、3オクト(約30分)。
ちょうど山岳地帯の中心あたりで、前方から人影が見えてきた。
彼らのうち、最前列の中央で白馬にまたがった男が、突き抜けるような声をあげる。
「あなたがレナード・フット殿か?」
「はい! そうです! あなたがアルトニーの国王、ラファエル陛下でしょうか?」
彼らから10ノーク(約10メートル)ほど離れたところで立ち止まったレナードが、大声で問いかけると、ラファエルが少しだけ前に馬を進めた。
「いかにも。俺がラファエルだ。よくここまできたな。では早速話し合おうではないか。もう少しこちらへきてくれないか?」
屈託のない笑顔のラファエル。
無警戒に近づこうとするレナードの肩をラウルがつかんだ。
「待ってくれ。音を確かめるから」
そう告げた彼は目を閉じて耳を澄ます。
ラファエルたちのことはもちろんのこと、来た道や両脇にそびえ立つ岩壁まで、あらゆる方角の音に不自然な点がないか、ラウルは察知しようとした。
しばらくして目を開けた彼は、レナードと顔を合わせて小さくうなずいた。
「不審な音はない。大丈夫だ」
ラウルの手がレナードの肩からはなれる。
レナードは再び足を前に進めはじめた。
一歩また一歩とラファエルとの距離がつまっていく。
張りつめた静寂の中、大空を舞うトビの声だけが聞こえる。
そうしていよいよあと5ノークまできた、その時だった――。
「レナード! 逃げてぇ! 罠よぉ!!」
鼓膜を震わせる甲高い女性の声。
ドクンと胸が脈打つとともに、レナードはラファエルから背を向けて駆け出した。
ラファエルは鬼のような形相で叫んだ。
「ちっ! よくべらべらと回る『口』め! その女を縛っておけ!!」
ラウルが背にした槍をかまえてレナードの前に立つ。
しかし駿馬に乗ったラファエルは長剣で彼の槍をいとも簡単に吹き飛ばした。
「逃げられると思うか!」
ラファエルが馬を飛ばしたまま、右手をレナードの首筋に向かって伸ばす。
「させるかぁぁ!!」
ラウルがラファエルの手にしがみつく。
「こざかしいわ!」
ラファエルが勢いよく手を前後させるとラウルは吹き飛ばされる。
「ぐはっ!」
岩肌にうちつけられて気絶してしまった彼のことを、ラファエルの手勢が囲み、後ろ手にしばる。
レナードは立ち止まって反転すると、短剣を抜いて叫んだ。
「ラウルを離せ!!」
ラファエルはニタニタしながら答えた。
「それはできん相談だな。だが貴様が大人しく俺のものになれば、こやつはわが国の牢で生き長らえることができるぞ! どうする?」
レナードはぎりっと歯ぎしりをした。
彼に「逃げて!」と叫んだ若い女性も、ラウルの横に並んでひざまずかされている。
見たこともない人だが、純白の修道服からしてルーン神国の人であるのは確かだ。
「最初から和睦の話し合いをするつもりはなかった、ということか……?」
レナードが声を震わせながら問いかけると、ラファエルは小さなため息をついて小首をかしげた。
「何の力もない貴様と、俺が対等に話し合いをすると思ったのか? これだから世間知らずのおぼっちゃまというのは哀れだ」
いつのまにかラファエルの背後には数十人の兵が集まってきている。
「そこのルーン神国の特別捜査員の女も貴様の身柄を拘束しにきたらしいぞ。単なる第二王子が随分と大人気じゃないか。羨ましい限りだ」
「いいから逃げて……。ステファノが心配してるからぁ」
ステファノの名が出た瞬間に、レナードの脳裏に「ルーン神国に入ったらアデリーナを頼れ」という彼の言葉がよぎった。
「もしかして……あなたがアデリーナ?」
彼女はレナードの顔を見て小さく口角を上げる。
「ようやく会えたわねぇ。でもこんな出会い方はごめんだわぁ」
レナードは再びラファエルに視線を戻した。
「二人を離せ!」
「貴様は自分の立場をわきまえていないようだな。今の状況で命令できるのは貴様ではなく俺だ。さあ、おしゃべりはそろそろ終わりにしようか。大人しく俺のもとへ来い。そうすれば二人の命は助けてやる」
ラファエルが軽く右手をあげる。
彼の背後にいる兵たちが一斉に武器をかまえて、ラウルとアデリーナに向けた。
「貴様は『落とし穴』にはまったんだよ――」
そうラファエルが吐き捨てるように言った瞬間だった。
レナードの脳裏に『声』が響き渡ったのである。
――卑劣なヤツには地獄を見せろ。
みるみるうちに体温が下がっていき、白い顔がさらに白くなっていくのが自分でも分かる。
首を小刻みに振り、『声』を打ち消そうと必死になる。
だがあらがえばあらがうほど、『声』は大きくなっていく。
――『力』を解放せよ。大切な人を助けるために。
「やめろ……」
レナードのつぶやきに、ラファエルが苦虫を嚙み潰したような顔つきになる。
「だから命令をくだすのは貴様ではなく、俺――」
そう言いかけたとたんに、レナードの目が赤く光り、全身から黒い炎が立ち込めた。
「やめろぉぉぉぉ!!」
地獄の番人を思わせるようなおどろおどろしい声で叫んだレナード。
ラファエルの馬が恐怖のあまりにいななく。
アルトニーの兵たちも思わず一歩あとずさった。
……と、そこにユーフィン、ハンナ、メリアの3人が息を切らして駆けつけてきた。
「レナード!!」
メリアが彼の背後から声をかける。
だがレナードが返事をする前に、ラファエルが嬉々として声を張り上げた。
「その声……メリアか!? まさか生きていたとは! おおおお!! 『ゆすりのタネ』が増えたぞ!! やはり神は俺を見捨ててなどいなかったのだ! ははははは!!」
一方のレナードはうつむいたままぶつぶつと何かをつぶやいている。
まるで自分の中にいるもう一人の自分と戦っているように……。
――『力』におぼれるな! 命あれば策はある! 大人しくラファエルの言う通りにするんだ!
――大切な人と国を守るのに『力』を使わずしてなんとする。それとも何か? はじめからおまえは『力』を使わずに、ラファエルと話をつけるつもりだったのか? くくく。違うな。おまえは最初から『力』を利用して、相手を説得しようとしていたのだろう?
「違う……。違う……」
――いや、違わない。おまえは相手の落とし穴にはまると見せかけて、相手を奈落まで続く落とし穴に引きずり込むつもりだった。今が、その時ではないか! さあ、使え! その『力』を解き放て!
――いいか、レナード。目の前の不幸を取り除こうとして『力』を使えば、その先でもっと大きな不幸を呼ぶことになる。それでもいいのか?
――おまえが『力』を使おうと使うまいと、不幸な人間は生まれる。現にアルトニーの民衆たちの中には飢えて死んでいく者たちが後を絶たないというではないか。ここで戦争になり、さらに国が消耗すれば、もっと多くの人間が不幸となり、死んでいくのだぞ。『力』を使ってラファエルを地獄に落とせば、戦争になるのを防げるのだ。さあ、やれ!
――ダメだ! 『力』に取り込まれるな!
――うるさい! 『力』を使うんだ!
『声』が入り乱れる――。
レナードの目からは大粒の涙があふれ、強く噛みすぎた唇からは血がしたたり落ちてきた。
その様子に怪物でも見るような視線を送っていたラファエルは、背後を振り返ると、大声で兵たちに命じた。
「もうよい! お呼びでない客も増えたことだ。これ以上は待てぬ! レナードとメリアをとらえよ! その他の者は皆殺しだ! まずは見せしめにそこの黒髪のガキを血祭りにあげてやれ!!」
意識を失ったままのラウルに向けて兵たちが武器を突き出そうとする。
その瞬間だった。
レナードの中で何かが切れた――。
「うああああああっ!」
――ドンッ!!
爆発するような音を立てて、地面を蹴ったレナードは、血の涙を流しながら、疾風となってラファエルの横を通り抜けると、ラウルの周囲に群がった3人の兵たちに向かって一直線に突進していった。
そして持っていた短剣をラウルの一番そばにいる兵に向かって投げた。
――ビュッ!
糸を引くように真っすぐ飛んでいった短剣は、兵の喉を貫いた。
「グゲッ」
カエルが潰されたような声をあげて、兵が仰向けに倒れていく。
何が起こったか分からずに混乱している兵たちに、レナードは素手のまま殴りかかった。
――ドゴンッ!
右の鉄拳が鎧の隙をついて、脇腹に深々と突き刺さる。
「ぐはっ……」
これで2人目が倒れる。
さらに最後の1人に対しては、左から回し蹴りを飛ばした。
――ズガッ。
鈍い音ととに、顎を粉砕された3人目が倒れる。
だがレナードはまだ止まらなかった。
「ユーフィン!! 受け取れ!!」
彼はラウルの体を軽々と持ち上げると、ユーフィンに向かって投げつけたのだ。
――ビュンッ!
光線のようにユーフィンの胸元にラウルは飛んでいき、彼女はそれを両手で抱えるようにして受け止めた。
「次はアデリーナだ!」
レナードはアデリーナの体をお姫様だっこする。
「ひゃっ! な、なにをする気なのぉ!?」
「ちょっと痛いかもしれないけど、我慢だ。ハンナ!! 受け取れ!!」
レナードは高々とアデリーナを投げ飛ばした。
「きゃああああ!」
彼女の悲鳴が空に響き、その体は美しい放物線を描いてハンナのもとへと吸い込まれていく。
そしてハンナはアデリーナを見事に受け止めた。
「お、おのれ!! 全軍、レナードをとらえよ!!」
ラファエルの命令が耳をつんざく。
だがレナードの圧倒的な強さと雰囲気に、兵たちは完全に尻込みしてしまった。
そんな中、レナードは不気味な声を発したのだった。
「母さんの姿を見た者を、生かして帰すわけにはいかない……。覚悟しろ……。お前らを奈落の底に突き落としてやる」
そう前置きをした彼は、ついに唱えたのだった。
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