第26話 絶望の深淵(デスペル・アビス)

◇◇


絶望の深淵デスベル・アビス!!」



 レナードの声が、曇り空を貫く。

 とたんに地面が大きく揺れ出した。


「うあああああ!!」

「ひぃぃぃぃ!!」


 立つことすらままならないくらいの、大きな縦揺れだ。


「くっ!」


 ラファエルも馬の上から振り落とされて、腰をついて顔をしかめている。


「レナード!」


 メリアの呼びかけに、レナードは必死に声を振り絞った。


「早く……。逃げて……」


 目を赤く光らせ、全身を黒の炎で包んだ今のレナードに、微笑みの天使ミスダール・アルマエルと呼ばれた、母のよく知る彼の面影はまったくない。


「レナード……」


 自然と涙があふれ、どうしたらいいのか分からなくなってしまったメリアの手を、ハンナが強く握りしめた。


「メリア様。いったん引きましょう」


「でも、レナードが!」


「レナード様は大丈夫です! 今の彼は伝説を殺す者レジェンド・キラーなのですから!」


 メリアの決して認めたくない現実の刃を、ハンナは容赦なく彼女に突き立てた。

 しかしいつかは認めなくてはならない事実でもある。

 なぜならメリアとハンナは、伝説を殺す者レジェンド・キラーの力を利用して、アラス王国の復権を目論んでいるのだから……。


「いやよ……。あの子は私の息子なのよ!」


「ええ、その通りです。レナード様はメリア様のご子息で、アラス王国の救世主です! だからこそ、彼の言うことを信じて、今は引くのです!」


 ついにハンナはメリアを引きずるようにしてその場から離れはじめた。

 ユーフィンとアデリーナは、ようやく目を覚ましたラウルに肩を貸して離れていく。

 こうして5人の姿が見えなくなったところで、レナードは上を向きながら目を閉じた。


 ――おまえの母さんのことは誰にも知られてはならない。そうだろ? だったらやるしかない。これも彼女の幸せのためだ。


 『声』が聞こえる。

 だがそれは自分で自分に言い聞かせているようにも思えた。


「やるしかないんだ」


 レナードはゆっくりと顔を元の位置に戻す。

 目があったラファエルは、引きつった笑みを浮かべた。


「ただ地面を揺らしているだけか? 伝説を殺す者レジェンド・キラーの力とはその程度なのか!」


 彼は腰からナイフを取り出して、レナードに投げつけた。

 だがレナードは身じろぎ一つしようともしない。

 そしてナイフは黒い炎のところで、灰となって消えてしまった。


「なに……」


 レナードは憐れむような目でラファエルを見つめた。


「哀れだな。世間知らずというものは……」


「貴様……。いったい何をするつもりだ?」


「この道がなければ、あんたがジュヌシー城を攻めることは難しくなるらしいな」


 レナードの言っている意味が分からずに、眉をひそめるラファエル。

 だが次の瞬間に、彼の顔色が変わった。


 ――ビシッ! ビシッ! ビシッ!


 なんと地面のあらゆるところにひび割れが生じ始めたではないか。


「まさか……」


 そうつぶやいた直後。


 ――ドゴオォォォォン!!


 ラファエルから少し離れたところの地面がすっぽりと抜けた。


「ぎゃあああああ!!」

「ぐああああああ!!」


 何人もの兵たちが暗闇の底へと消えていく。


「ま、まずい! に、逃げろぉぉぉ!!」

「た、助けてくれぇぇぇ!!」


 狭い切通しの中が大混乱に陥る。

 だがその間も、次から次へと穴があき、兵たちが吸い込まれていった。


「くっそ……。化け物め……」


 ようやく立ち上がることができたラファエルは、兵たちと違って取り乱さずにレナードをにらみつける。

 そして意を決したように叫んだ。


「一騎打ちだ。俺と一騎打ちをしろ!」


 レナードは首をかしげた。


「なぜあんたと一騎打ちをしなくてはならないのだ?」


「うるさい! 男が一騎打ちを申し込まれたならば、絶対に受けねばならないというのが、常識であろう! さあ、武器を取って、俺と戦え!」


「武器? ははは! そんなもの必要ない」


「ならば俺の剣で死ね!! うおおおお!!」


 ラファエルは長剣をかまえてレナードに突進していく。

 しかしレナードはここでも身じろぎ一つしなかった。


「なめるなぁぁぁぁ!!」


 黒い炎を切り裂きながら、ラファエルの渾身の一撃がレナードの右肩へ吸い込まれていく。

 だがまさに剣がレナードに触れたか触れないかというところで、目の前から彼の姿が消えたのだ。

 そしていつの間にかラファエルの背後に回ったレナードは、彼のケツをつま先で蹴り上げた。


「ぐあああああ!!」


 尻を両手で抑えながらもんどりうつラファエル。


「あんたは罪もない民の尻に火であぶった鉄の棒を突き刺したそうじゃないか。これで少しは民の痛みを知ることができたか?」


「おのれぇぇ……」


 尻を突き出しながら膝をついたラファエルは、涙目になりながらレナードをにらむ。

 だがもはや転がった長剣を手にして戦う気力はそがれたようだ。

 そうこうしているうちに、レナードとラファエルのいる場所からアントニーまでの道のりは深淵と化した。


 その距離はおよそ3ジグ(約3km)にもおよんだ。


「さてと。残るはあんただけだ」


「貴様に殺されるくらいなら……」


 ラファエルは膝をがくがくと震わせながら、気力を振り絞って立ち上がった。

 そして近くの穴の淵に立つと、そのまま奈落の底へと身を投げたのである。

 しかしレナードは彼の首根っこをつかんだ。


「は、はなせ!」


「俺だってこんなことはしたくない。だがあんたにはまだやってもらわねばならないことがあるんでな」


 そう告げるなり、レナードはラファエルの首をつかんだまま宙に浮きあがる。


「や、やめろ!」


 手足をばたつかせながら必死に抵抗するラファエルだったが、レナードの手をふりほどけるはずもない。

 そうしてレナードはラファエルとともに、アントニーの王城の方へ、文字通りに飛んでいったのだった。


 




 



 

 


 

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