第15話 時の迷路(ティム・ラビリン)
◇◇
ステファノは「時を止める魔法」と言ったが、厳密には少し異なる。
己の身体能力を爆発的に向上させ、他人の目では追いつけないほどのスピードで動くことを可能とする魔法なのだ。
その効果が持続する時間は術者の『魔力』によって異なる。
今のレナードでは3ニノ(約30秒)が限度だ。
だがタイミングを計る暇はなかった。
この時を逃せば、もうチャンスはない。
なぜならレナードの隣には『
そして小さな妹が転びそうになったのが、時を告げる号砲だった。
「わが身に秘めたる力を解き放つ時は今なり。『
人々の声、動き、息遣い、全てが止まる。
大空を舞う小鳥ですら、まるで凍ったかのように羽を伸ばしたまま、空の中央で固まっている。
レナードはその中を一人、駆け出した。
王宮にはびこる数々の黒い陰謀から、己のけがれなき身を逃すために。
まずは今にも地面に可愛い顔をぶつけようとしている妹のウィネットの体を、ひょいっと抱き上げ、レイラの腕の中に収める。
ここまで2ニノ。
あと残された時間は1ニノ。
セシリアの横をすり抜けてレイラの馬車の扉を開け、中に潜り込んだ。そしてすぐに扉を閉める。
その直後、「ワアッ!」という大歓声が聞こえてきた。
魔法が解けた証である。
「ふぅ……。なんとかなったな」
だがまだ終わりではない。
今ここでセシリアが扉を開ければ、鉢合わせになってしまうのは目に見えている。
どこかに隠れなければ……。
そこで目に留まったのは椅子の下にあるわずかな隙間だった。
迷っている暇なんてない。
レナードは急いでその隙間に身を滑らせた。
その瞬間、扉の開く音とともに、セシリアの声が耳に届いた。
「レイラ様。お達者で!」
「ありがとう。セシリアさんもね」
つい先ほどまで甘酸っぱい時間を共に過ごした相手が、自分に気づくことなく目の前に座る。そして扉は固く閉ざされた。
だがこのままでいても、彼女に見つかってしまうのは時間の問題だ。
そこでレナードは自ら名乗り出ることにしたのである。
「レイラ。声を出さないで」
◇◇
声を出さいないで、というまでもなく、レイラは驚きのあまりに言葉を失っているようだ。
自分を見送りにきた人間が、一瞬にして馬車の中にあらわれれば、彼女でなくても呆然自失となるのは当たり前である。
レナードは恐る恐る椅子の下から這い出ると、彼女と向かいあうようにして座った。
「理由をちゃんと話すから、アラス王国を出るまで、ここにいさせてほしいんだ」
レイラは大きく目を見開いたまま、コクコクと何度か首を縦に振る。
「ありがとう。レイラ」
そうレナードが言ったとたんに、外にいるセシリアが声をあげた。
「では出発いたします。揺れますので近くの手すりにおつかまりください」
「わ、わかったわ」
レイラがしどろもどろになりながら答える。
このまま馬車が動き出せば、しばらくは誰も馬車の中を気にする者はいないだろう。
レナードがほっとしたのもつかの間、セシリアの声が再び聞こえてきた。
「レイラ様。皆様が手を振ってらっしゃいます。窓を開けて、レイラ様もお別れのご挨拶をなさってはいかがでしょうか」
まずい――!
もし今のままで窓を開けたら、レナードの姿が集まった人々の目にとまってしまう。
同じことをレイラも感じたのだろう。
口を半開きにして目が泳いでいる。
もたもたしているうちに外からセシリアがせっついてきた。
「レイラ様? 窓の開け方が分からないなら、私が開けましょうか?」
「だ、大丈夫よ。今開けるから」
これ以上、迷ってはいられない。
覚悟を決めたレイラは丸い窓を少しだけ開けて、外を覗き込みながら手を振ったのだった。
◇◇
「もう大丈夫そうよ」
レイラを乗せた馬車が王都シュタッツを出てからしばらくした後、レイラは小声でそう言った。
すると彼女の座る椅子の下からレナードがゆっくりと這い出てきた。
「こうするしかなかったとはいえ……ごめんね」
レイラは頬を桃色にして、ブルブルと首を横に振った。
そしてレナードが再び彼女に向き合うようにして座ったところで、彼女は問いかけた。
「どうして見送りにきていたレナード様が馬車の中にいるのですか?」
レナードは穏やかな表情のまま、じっとレイラを見つめる。
戸惑った彼女が目を窓の方へそらしたところで、レナードは低い声をあげた。
「今は教えるわけにはいかない」
レイラはレナードの方へ視線を戻した。
「どうして?」
「こんなことをした僕が言うのもなんだけど、君を巻き込みたくないんだ」
「どういうこと?」
レナードは表情をさらに引き締めて答えた。
「とある理由で僕は命を狙われているんだ。だから国外に逃げることにしたんだよ」
「命を……狙われている……」
レイラの顔が青くなり、大きな目には涙がたまってきた。
レナードは努めて優しい笑顔を作った。
仕方なかったとはいえ、大切な相手に嫌な思いをさせてしまったことに罪悪感を抱いていた。だから、せめて「僕は大丈夫だよ」と言葉にせずとも伝えたかったのだ。
そんな彼の気持ちが伝わったのか、レイラは涙をぬぐうと、大きくうなずいた。
「ありがとう。レイラ」
「ううん。でもこれからどうするのですか?」
「この馬車はアラス王国を抜けた後、東のユニオール王国に入るね。城下町で一泊することになっていると聞いた。僕の従者も後を追ってやってくる。そして深夜になってから、馬車に潜んでいる僕を外に出してくれる手はずになっているんだ」
「そうでしたか……」
「それまでは……しばらく……」
レナードはそこまで口にしたとたんに、強烈な眠気に襲われた。
「レナード様!?」
レイラが席を立ち、よろめきかけたレナードの体を支えた。
その手に自分の手をそっと添えたレナードは、精いっぱいの笑みで続けた。
「大丈夫だから……。少しだけ……横になりたいんだ……」
そして彼はもう一度椅子の下に潜り込むと、そのまま意識を手放したのだった。
◇◇
意識を失ったレナードは真っ暗闇の中で『声』を聞いていた。
声の持ち主は言うまでもなく『
――無理がたたったようだな。今のお前の体では2日連続で
そうだったのか……。
どうりで昨日『
――もっと力がほしいか?
いかにも悪魔が口にしそうな誘惑の言葉だ。
その手に乗るものかと、心の中で首を横に振る。
――そうか……。いや、それでいい。昨日のように力に取り込まれれば、おまえはおまえでなくなってしまう。
つまり君が僕にとって代わるということかい?
――俺が? それは違うな。まあ、その辺の難しい話はまたいつかじっくりと聞かせてやろう。それよりも大切なのは目先のことだ。
どういうこと?
――これからおまえは選択を迫られることになる。果たして今のおまえはどちらを取るか……。じっくりと見てみることにしよう。
そこまでだった。
再び『声』が遥か彼方に消えていったのは。
その代わり、レナードの耳に飛び込んできたのは、待ち望んだ声だった。
「レナード様! ラウルでございます!」
「ユーフィンです!」
◇◇
ラウルが『音』で周囲を警戒し、ユーフィンの『目』をたよりに、灯りがなくては何も見えぬ夜道を休まずに駆けてきたらしい。
「二人とも、ありがとう!」
「礼などいりません。レナード様のためならこの命ですら惜しみませんので」
かすかに頬を赤くしたユーフィンに、ラウルが冷えた視線を送る。
それを嫌ったユーフィンは早口で続けた。
「門は固く閉ざされておりますが、一か所だけ警備の甘い場所がありました。そこから町を出ます」
彼女の言葉の後をラウルが継いだ。
「町を出た後は南西の街道を進めばルーンにつく。ステファノ様が『ルーンではアデリーナを頼れ』と言ってた」
アデリーナ……。いったい誰のことだろう。
だが今はその答えを探っている場合ではないのはよく分かっている。
レナードは急いで馬車から出た。
「足音はない。周囲には誰もいなそうだ」
ラウルの言葉に小さくうなずいたユーフィンは、周囲をきょろきょろと見回した後、レナードの方を向いて言った。
「では私の後についてきてください」
「ああ、分かったよ」
こうして3人は星空の下を走り出した。
3人とも明日がどうなるのか、それすらも知らない。
それでも彼らの胸は一様に高鳴っていた。
それは未踏の地にのぞむ冒険家たちの心情に近いだろう。
だがそんな青い興奮も、ラウルだけに聞こえる音によって、粉々に打ち砕かれてしまった。
「馬の音……。誰かくる!」
ユーフィンは足を止めて、建物の屋根にひょいっと上がる。
そして背後に目をこらした。
「赤い鎧……。金の紋章……。ハンナ将軍だわ! 従者は5人。いずれも騎兵」
「まずい。町を出るための門はヤツらが追ってくる方向だ」
ラウルの言葉にユーフィンの顔がゆがむ。
このままだと町の中を逃げ回らなければならない。
そして朝までにはより多くの追手がやってくるに違いない。
「どうしよう……」
レナードが半ばあきらめたかのような絶望に満ちた声をあげた瞬間だった。
「レナード、こっちだ!」
はっとなって声の持ち主に顔を向ける。
そこに立っていたのはライアンとレイラの二人だった――。
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