第37話
◆
どこかで誰かが呼んでいた。
顔を上げた時、そこにいたのはアルカラッドだった。まだ夢を見ているのか。いや、これは現実だ。全身にある倦怠感がそれを主張している。
龍はいつも通りの穏やかな視線を私に向けている。
「起きたね、アンナ。体の具合は?」
体の具合……。
急に記憶が蘇った。私はなぜか、オリフと戦っていた。何がそうさせたのか、今になってみると少しもわからなかった。おかしな衝動、感情が私を支配して、そのままに突き動かされていた。
座り込んでいる私のすぐそばに、剣が落ちている。しかし刃は半ばで折れて、半分になっている。先はどこかへ消えていた。
あの剣はそう、オリフの腕を切ったときに折れた。偶然じゃないだろう。
その後、どうなった? オリフが私に触れて、何かが私に流れ込んで、全てが曖昧になった。
「オリフが、いたはずです」
恐る恐る、すぐそばに佇むアルカラッドに訊ねても、すぐに返事はない。
「答えてください。オリフはどこですか?」
聞かなくてもわかっているんだ。私の感覚、ぐっと頼りなくなった魔力でも、周囲にオリフがいないのはわかっている。でももしかしたら、遠くにいるのかもしれない。何かの理由で、何かが必要で……。
「オリフは、どこへ行ったんですか?」
アルカラッドは恨めしいほど、平然としている。
「答えて!」
「彼は、遠いところへ行った。きみの代わりにね」
「代わりにって、私は、もしかして、死んで……」
「彼の記憶が私に少し閲覧できた。オリフはいつか、きみに助けられたと言っていた。だからこれはその時のお礼なんだよ。彼は自分というものを使って、きみを助ける。そういうことができる人間だって、知っているよね?」
それは、そうだ。
あの時、猟師に撃たれた時だって、私をかばったんだ。
いつだって私を、かばって……。
「全てが終わったことを、なぜか私は理解しているよ、アンナ」
「ええ、それは……」
「おかしな話だけど、きみやオリフがやったことは、少しも無駄にはならない。それをきみに伝えるとしよう。でも、はっきりとは結末を見せることができない。どこかで誰かが幸福になる、そんな感じになるだろう」
曖昧な話だ。でもきっと、曖昧にしか表現できないんだろう。
「オリフの分も、いきなさい」
その一言が何かを、私の中で変えたようだ。悲しみも、喪失感も、絶望も、まるですべてに共通する一点があって、その一点に光が当たったように、違う色に変わった。
気力なんてものじゃない。もっと些細な、弱い力が、どこからか湧いてきていた。
これなら一歩、一歩なら、一歩だけなら、踏み出せるだろう。
「どうしてここを選んだのか、聞いておくよ」
アルカラッドが言いながら、森の向こうを見る。
私がここを選んだという自覚はなかった。ただ長い時間を過ごした、古代文明の神殿で最後を迎えたかったのかもしれない。あの時の私は、全てを終わらせるつもりだった。
きっと私自身すら、最後にしたかったんだろう。
「理由はないのか。そうでなければ、何かの導きかもしれないな」
勝手に納得して、アルカラッドがこちらに手を差し伸べる。私はその手を借りて立ち上がった。全身がこわばって、何か、乾いた泥にでもまとわりつかれているようで、見えない存在が剥落した気がした。
「私がオリフとアンナ、二人を選んだのは、偶然だって話したよね」
何気ない風に、アルカラッドが話し始める。
「龍には未来が見える。でも未来は常に変化する。無数の可能性と、それが形になる無数の世界。無限に枝分かれする幸福と不幸の織物だ。無数の糸の中から選んだのは、きみたちだった」
「偶然なのに、選んだわけですか?」
「龍には世界の全てを知ることはできても、全てを理解することはできない。ただ、きみたち二人は、きっと特別だったんだろう。私に見出されるという意味ではね」
おかしな話だった。それでもわからなくはない。極端にぼやけた理屈が、心地よく心を温める。
私たちは確かに、意味がある二人だった。それはもう、疑うべくもない。
「そろそろ子どもたちが帰ってくる」
子どもたち。幼い頃の、私とオリフだ。
「しっかりと成長している二人に会えたことを、幸福に思うよ」
そう言って私をまっすぐに見て、アルカラッドが表情をほころばせる。
「予想よりも、思っていたよりも、嬉しいものだね」
「そうですか」
正直、照れてそんなことしか言えなかった。
森の中から足音が近づいてくる。
「さ、もう、おいき。帰るべき場所と時間があるだろう? そこまで送り届けてあげよう」
今、私の中にある魔力は、びっくりするほど弱いままで、回復する兆しがない。左手の義手さえもうまく動かない有様だ。
アルカラッドが私の頭に手を置いたけど、前に頭に手を置かれた時は、彼の方が背丈が高かったはずだ。今はほんの少しの差しかない。
「さようなら、龍の子。強くいきなさい」
ぐらりと全てが歪んで、私はよろめいて座り込んでいた。
急に全てが真っ暗になり、自分がどこにいるのかわからなくなった。
「大丈夫?」
目の前に焚き火がある。その向こうにいるのは、ホーナーだ。
ホーナー。私は彼を殺したのではなかったか。あれは夢? 現実だったのでは?
でも間違いなくホーナーは生きている。焚き火の向こうでこちらを不思議そうに見ている。
「どうしたの? アンナさん。具合が悪いとか?」
なんでもない、と答えながら、額を押さえる。頭が痛む。アルカラッドに会った。古代神殿で。あれは現実か。
そう、剣が折れた。
視線をいつも座る時に剣を置いている、左側を見た。
剣がある。あるけれど、今までの剣と違う。見たこともない剣だった。
ぎこちなく動く義手は頼りにならないので、体をひねって右手で剣を取る。鍔を押して鯉口を切り、勢いに任せて剣を抜いた。ホーナーが不思議そうにこちらを見ている。
「本当にどうしちゃったんですか? アンナさん。おかしいですよ」
彼を無視して、焚き火に剣を掲げる。
鮮やかな輝き。でもどこか違う。
私の剣はこれではなかった。
よっぽどそのことをホーナーに訊ねようかと思った。私はずっとこの剣を使っているか、と。
でもそれは、訊かないことにした。返ってくる答えは予想がつく。ずっとこの剣を使っている、と不思議そうに答えるはずだ。
何かが変わってしまったのだ。どこの何がきっかけかはわからないが、確かに変わった。
私は苦労して鞘に剣を戻し、ホーナーがその様子を見て、義手を交換した方がいい、と言った。
「アンナさんは剣術の腕は超一流でも、魔力が弱いですから、義手も難しいですよね」
そんなことを言われて、ぽかんとしてしまった。
魔力が弱い? 私が?
言われてみれば、確かに体の内側に魔力の気配がほとんどない。生まれてからこのかた、こんなに頼りない魔力しかない時なんてない。
これも結局は、オリフの影響なんだろう。
オリフはもう、いない。私のために、消えてしまった。
猛烈に悲しくなったが、涙は流れなかった。今はその時ではないとでもいうのか、少しも、ほんの少しも、滲みもしない。
夜空の下にいて、頭上を見上げると、月が輝いている。
真っ白な三日月の光が、少し眩しい。
(続く)
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