第35話
◆
限界だった。
あと一歩で、アンナを殺せたかもしれない。死龍を倒せたかもしれない。
でも今、僕の体は守護者としての力、自分自身の力に耐えきれそうもない。
苦しくて息を吐くと、それは血の塊で、どこから出てくるのか不思議なほどだ。僕の中で全部の内臓がぐちゃぐちゃになっていると言われたら信じるだろう。
とにかく、全身の傷を治癒させる。内臓も。思ったようには進まないが、まだ終わらせるわけにはいかない。
目の前で、ひとりでに宙を舞った剣がアンナの手にピタリと収まる。
首をはねに来るだろう。そうすればこの世界で、死龍は受肉したも同然の肉体を手にして、生きていくだろう。超常の力を振るい、それでどうなるかは僕にはわからない。世界に恐怖が広まるなんて思えなかった。
死龍はただの一人で、人ならざるものでも、仲間は一人もいないのだ。
あるいは死龍と共にその眷族が人間たちに戦いを挑むかもしれない。そうなれば人龍大戦が再び起こるのだろうか。
今は結末、未来なんてどうでもいい。
僕が守るべきはアンナだ。そのために全てを尽くすしかない。
ゆっくりとアンナが剣を振りかぶる。立派で、頑丈すぎる鎧に包まれたその体に、僕の攻撃は防がれていて、少しも傷を負わせていない。しかしアンナは自分自身の力で、自分自身を半ば破壊していた。今も彼女の中で魔力がうごめき、肉体を再構築しているのがわかる。
次の一瞬、これからの一瞬が全てになるのは、よくわかっていた。
呼吸ができない。血を吐くのが止まらない。
視界は全てがぼやけているので、頼るのをやめた。
目を閉じ、全てを力の流れで把握する。
形を失いそうな僕の精神の輪郭がはっきりして、その時を待ち構える。
世界は僕の中に収まっている。だけど今は全部を意識する必要はない。限られた空間。僕とアンナがいるここだけが分かればいい。
時間が間延びして、高速のはずのアンナの剣がゆっくりと認識できる。僕の体は思ったより早く動いた。回復を無視して、運動を強化したからだ。
剣が首筋に触れる寸前に、僕の左腕がそれを遮る。
刃が、腕に食い込む。
正直、少し安心した。これができなければ、何もかもが終わっていた。
刃が皮膚を切り、肉へ食い込む。激痛を超えた激痛。
刃が骨に達する。
僕はその間も腕に力を込め続けていた。
ついに骨を断ち割ったその時、負荷に耐えきれず、アンナの剣が折れた。
折れても勢いのままに僕の左腕は手首で切断されて、どこかへすっ飛んで行った。
アンナが呆然とこちらを見ている。
死龍がどうやってアンナを乗っ取っていたのか、それをずっと、戦いの初めから最後まで、僕は考え続け、探り続けていた。全身に重傷を負っても引き下がらなかったのは、時間稼ぎだったのだ。
最も死龍の要素が濃い部分。
それが、アンナの愛剣だった。それを破壊することが、今見える唯一の光と決め、僕はこうして全てを犠牲にして、剣を破壊した。
アンナの瞳に正気の色が戻った。握ったままだった刃の折れた剣が、するりと手からこぼれた。
声をかけたかったが、それはできなかった。
アンナの鎧が消えない。そして僕は腕を落とされるという想像を絶する痛みの対処をする必要があった。体中にある深手を治しながら、左腕にも対処するのは至難だった。
もっとも、僕自身のことは後回しにするしかない。
アンナを救わなくては。
救える可能性に、挑まなくてはいけない。
僕は血なのか汗なのか、よく分からない液体が全身を這い回る不快感を無視して、アンナに向かって飛び、その胸に無事な方の手のひらを叩きつけた。
アルカラッドと短い時間だが、訓練を積んだ守護者としての力が、アンナに流れ込む。
彼女はピタリと動きを止めて、こちらを見た。
途端、表情が憤怒のそれに変わり、彼女の右手が僕の首を鷲掴みにした。人間離れした膂力に、今にも首の骨が折れそうだった。
アンナが叫ぶ。
僕の手のひらからの波動が、一度、二度と脈打ち、その度にアンナを包んでいる鎧が震えた。僕がどうにか意識を保っているうちに、鎧の滑らかだった表面が泡立ち、無数の鱗に変わる。
魔力を全て、破壊する必要がある。アンナの体から魔力を根こそぎにしなければ、死龍を完全に葬ることはできない。
そうなってアンナが生きていることに、賭けるしかない。
頭の中でアルカラッドの声がした。
アンナを救え。
僕はアルカラッドを失った。アンナだけは、失いたくない。
助けられるのなら、助けたい。
それがどれほど残酷で、危険で、崖の縁を歩くような行為でも、僕は今、それを選ぶ。
渾身の力で手のひらから力を流し込んだ。
真っ黒い吹雪のように、アンナを守っていた鎧が粉々になり、舞い上がる。
最後の一辺までが消えるまで、それほどの時間はかからなかった。死龍が取り込んだ魔力は消え去り、そして次は、死龍が寄生しているアンナ自身の魔力が、吹き散らされていく。
ゆっくりとアンナの手から力が抜ける。だらんと腕が下がり、顔は伏せられた。その顔を見ることは、怖くてできなかった。
最後まで、やるべきことをする。
それだけが今、僕ができることだ。
手応えがふっとなくなり、僕の力が飲み込むべき魔力、食い潰すべき魔力は全て、消えた。
「アンナ……」
声に押されるように、アンナが仰向けに倒れこむのを、僕は慌てて片腕で支えた。
脱力しきった体に、意識は少しもない。
そっと地面に横たえ、もう一度、声をかけた。
「アンナ」
反応はない。手首に触れる。脈はなかった。口元に手をやる。呼吸の気配はない。
アンナは絶命しているとしか言えない。死んでしまった。
絶望がやってきた。今まで感じたことのない深い喪失感が僕を飲み込んで、まるで世界に一人きりになったような気がした。
違う。これは勘違いじゃない。本当に僕は一人になった。アルカラッドを失い、アンナを失った。
僕が帰るべき場所にはもう、誰もいない。
涙が自然とこぼれるのに、嗚咽は出なかった。ただ涙が一筋、流れる。
終わったんだ。僕はやるべきことをした。
しかしこんな結末があるだろうか。僕は今まで、この結末のために生きてきたのか。そんなことって、あるだろうか。あまりにも酷い。僕はただ、すべてにケリをつける存在、最後の最後に手を汚すために、ここにいるのか。
それでこの先、僕はどう生きろというのか。何かがこの先にあるとして、また僕は誰かの血と死を招き入れるのか。
ここまで自分という存在に失望し、虚無を感じたことはなかった。
「あまり落ち込むな、オリフ」
いきなりの声は、僕の幻聴だと思った。
だってその声の持ち主は、死んでしまったから。
「聞こえているかな、オリフ」
のろのろと振り返って、その姿を見ても、やっぱり幻を見ているとしか思えなかった。
そこにいるのは、アルカラッドだった。
人の姿で、穏やかに笑って、こちらを見ている。
(続く)
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