第10話

     ◆


 人龍大戦の一場面を見たほんの三日後だった。

 食料を取りにアンナと揃って外へ出ようとした時、さっとアンナが手で僕を遮った。

「人がいる。大勢」

 そう囁いて、アンナが壁際に身を寄せる。思わずそれに倣って僕も壁際に歩み寄り、そっと外をうかがった。

 うろついているのは、見るからに猟師の服装の男で、今は三人が見える。一人が視界から外れ、別の一人がやってくる。

「何人?」

 そう訊ねる僕を睨みつけてから、「十四」とアンナが答えた。それくらい、自分で調べなさい。そう言いたげな眼差しだった。

 十四人か。そう簡単には収まりそうもない。今のところ、周囲を回って人が生活する痕跡を探しているようだ。そうか、屋根の一角に粉を乾かす幕がそのままになっている。あれが見つかっていれば、僕とアンナの存在は露見するな。

 かといって、今からそれを引き上げるわけにもいかない。

 ここでじっと息を潜めて、どうにかなるだろうか。

 猟師たちが何か声を掛け合って、二人一組で神殿へ入ると決めたようだった。僕たちには考えている余裕もないようだ。

「奥へ行って、アルカラッドに転移させてもらおう。それしかない」

「追い払うこともできる」

 そう応じる強気なアンナの瞳に、僕は思わず目を丸くしていた。冗談で言っている顔ではない。

「本気?」

「一人を倒せば、逃げるでしょ。なにせ、神殿に住む悪魔なんだから」

 確かにいつかの猟師がそんなようなことを言っていた。でもそれは何も確定させていない。

「無駄な争いだよ。引き下がるべきだ」

「腰抜け、臆病者、負け犬」

「いや、なんて言われても、引くべきだと思う」

 こちらが不機嫌になるはずなのに、僕は冷静で、逆にアンナの方が不快げだった。

「ちょっと待ってなさい、あんたは」

 そう言い残して、アンナが駆け出していく。猟師が僕たちが潜む通路に近づいていたこともある。

 猟師がいきなり現れたアンナに呆然とする。二人ともすでに短剣を抜いていたが、鞘から抜くどころではない。

 一人にアンナが体当たりするが、猟師の体は不自然なほどその場から動かない。動かないのが、クタクタと倒れこんで本当に動かなくなる。完璧な当身、達人級の技だった。

 もう一人が短い悲鳴をあげ、こちらは短剣を抜いてアンナに振り下ろす。

 アンナは冷静だった。手首を受け止め、相手が腕を振った勢いを逆用し、投げる。猟師の両足が宙に舞い上がり、背中から地面に叩きつけられ、やはり動かなくなった。

 僕もさすがに魔術を行使して、周囲を確認していた。すぐそばにいる猟師はあと五人。ただ、五人ともが及び腰で、その場から動いていない。さすがにアンナの早業に驚いている。

 何かが鼻先をかすめたのは、アンナがこちらへ振り向いた時だった。

 焦げ臭い匂い、何かが焼けるような。金属?

 記憶が一瞬で結びつき、僕は通路から飛び出していた。猟師ほどではないが、アンナが驚いている。そのアンナを僕は突き倒した。

 もっともアンナもそこはそれ、一流の武術を学んでいるので、倒れこむようなことにはならない。

 ならないが、よろめいたアンナを掠めて飛来した弾丸は、僕の右胸を貫通していった。

 銃声が同時に鳴っても、僕はそんなことを気にする余裕はない。耳鳴りはひどくて、周囲の音が小さく聞こえる。一歩下がるのが限界で、次に後ろに送った足にはもう力が入らなかった。

 そんな僕を前にしてアンナの対応は早かった。僕を抱えて、神殿へ駆け戻る。魔術による剛力のせいで、掴まれている腕が折れそうだけど、それは今はどうでもいい。

 僕の中で魔力が励起され、右胸の傷口を治癒させようとする。

 するけど、ほんの小さな穴から血液が流れ出て、止まらない。何より血液と一緒に魔力さえも流れてしまう。

 呼吸が苦しい。右胸がかなりのダメージを負ったようだった。もし万全の呼吸ができれば、魔術の精度も上がったはずなのに、今は本来の力の十分の一も出ない。

 神殿の通路に入って、アンナがすぐに魔術で大地に干渉した。地震が起こり、神殿の周囲の地面が盛り上がり、天然の土塁を作る。今、僕たちがいる通路を塞ぐ形だった。その光景が、かすみ始めた視界でも理解できた。

 思考が曖昧になる。アンナが何か叫んでいる。よく聞こえない。耳鳴りは消えてきたのに、なぜだろう。

 胸に熱が宿ったことで、アンナが僕に治癒の魔術を行使しているのがわかった。

 不思議なことに、僕には確信のようなものがあった。

 僕の体に宿る魔力があまりにも弱い。そして傷口から僕の魔力と一緒に、流れ込んできたはずのアンナの魔力が流れ、霧散していく。

 つまり僕はもう、助からないらしい。

 少しずつ耳に届く音が消えていき、無音が迫ってきた。視界は霞みが激しくなり、そのまま白く染まり始める。

 こんなところで、こんな終わりというのは予想もしていなかったけど、誇れることはある。

 アンナを救うことができた。それだけは確かだと思う。

 もしかしたらアンナが銃弾を身に受ければ、アンナのことだから、自分の傷を自分で直して、こんな混乱はなかったかもしれない。でもそれはもう起こらない可能性だ。

 弾丸の一撃で、アンナの心臓が破壊される。そういう可能性を消せただけ、マシだろう。

 ついに体の感覚が消える。魔術が破綻した瞬間、激痛が走ったけど、息を飲む余裕ももう残っていない。

 自分がどこかに浮かび上がり、しかし何も見えない。

 一面の真っ白い世界。

 どこかで何かが鳴いている。遠吠えのようだけど、笛みたいに高い音だった。

 誰かを招くような、誰かを迎え入れるような、そんな声だった。

 周囲を見たくても何も見えない。触れることさえできない。体がない。

 死ぬっていうのはこういうことか、と不意に理解した。いや、気づいた、という表現が正しいかもしれない。だって、僕という人間の思考力は、肉体の喪失と同時に失われているはずだ。

 思考とは別種の、精神が感じていること。それも肉体の感覚とは違う、本来は感じることのできない、直接に精神に響く波のようなもの。

 足元を波が洗うようだった。

 またどこかで、何かが鳴いている。

 そちらへ行くべきかもしれない。でも、どっちだろう。

 瞬間、何かが僕を掴んだ気がした。

 視界を下げると、鱗に覆われ、長い爪の生えた爬虫類じみた手が、力の限りに僕を掴んでいた。

 悲鳴を上げていた。

 悲鳴は、声にならずに、ただの波として消えた。



(続く)

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る