第34話
◆
日が暮れて、真っ暗になって、月明かりの中で私たちは向かい合っていた。
大きく息を吐き、オリフが片膝をつく。私は剣を振り上げ、無意識にその切っ先を見上げた。
この程度の隙は隙にならない。
刃を伝うように月光が降りてくる。
血にまみれて、汚れた刃が、こうすると綺麗に見える。
視線を下げると、私とオリフの間にホーナーが立っていた。
「アンナさん、もう良いだろう、殺す必要はない」
月明かりを受ける彼の顔はほとんど真っ白だった。
それもそうか、さっきまで超人たちの戦いを見ていたのだから。怯えても、恐怖しても、おかしくないし、むしろ自然だろう。
「この人が、いつも話している人だろう?」
血の気がなくても、ホーナーは冷静だった。
「一緒に育ったっていう人だろう?」
まったく、なんで私は昔話をしてしまったんだろう?
誰かの理解を求めたのか。それとも、誰かにも覚えてもらいたかったのか。なんて感傷だろう。私のことなんて誰も覚えていなくていい。
いずれこの世界は消え去るのだから。
いずれ、ではなく、すぐにでも。
やっぱり私はおかしい。何かが違う。
ホーナーは私の前から動かない。迷いと不安の瞳を、私に向けている。
面倒だ。もう何もかも、終わるんだから、いちいち思案するのも馬鹿げている。
「馬鹿ね」
私はそうとだけ告げた。
切っ先がゆっくりとホーナーの胸に突き刺さり、皮膚を破り、肉を破り、骨を断ち、心臓を破壊し、背中へ抜けた。
「え?」
濁った声を発して、信じられないという顔でホーナーが胸を見下ろしている。
私も困惑した。なんで私はホーナーを殺しているんだ? なんのために?
ただ殺したのか。でも、なぜ?
剣を引き抜く時には、すでにホーナーは意識を失っていた。人形が倒れるように力無く彼は倒れた。
「アンナ!」
叫んだのはオリフだった。彼は全身から血を流しながらホーナーに駆け寄り、魔術を行使し始めた。そんな余裕なんてないくせに。
剣を振るうと、刃はオリフに触れる寸前に停止する。
魔術による結界。強力すぎて、破れそうもない。
「邪魔はもう入らないけど、場所を変えましょう」ペラペラと私は喋っている。「もっとどうなってもいい場所が、あるでしょう? それに思い出深い場所が」
私自身、自分が何を言っているか、わからなかった。
目を細めた時、異常な力が体から湧き起こった。今まで理解したことのない、体感したことさえない、圧倒的な力。
その力が周囲を改変していく。時間改変、空間改変、神の能力。
ホーナーがどこかへ消え、どこかの草原に一変した景色の中で、私の目の前にはオリフがいる。自分の血と、ホーナーの血に塗れて。
「アンナ」
すっとオリフが立ち上がった。もう私も彼も息を乱してもいない。
「何かしら?」
「きみはもう、きみではなくなっている。きみは死龍に取り憑かれている」
ああ、なるほど。そういうことか。
「だから私を殺すわけね。同じ理由で、アルカラッドも殺したわけ?」
「アルカラッドは、僕が全て悪い」
絞り出すように言うオリフは、やっぱり善人だな、と心のどこかが評価した。
でも善人だからって、全てが許されるわけではない。
「アルカラッドはアンナを救おうとした。だから僕も、アンナを救うよ」
「殺すことが救いってことね。残酷なこと。それに、破滅的ね」
「そういうお前こそが、破滅を司っているはずだ、死龍」
思わず笑いそうになっていた。私は私だ。
「勘違いしているようだけど、私の呪われた腕は切り離されたの。今の私は、ただの私、アンナというひとりの戦士よ」
「それこそが勘違いさ」
オリフの口調は固かった。
「普通の人間にあんな体の使い方はできない。こうして世界を改変することも、できないんだ。十年前の古代神殿に戻すなんてことはね」
そう言ってオリフが周囲を見る。
景色は草原からも変わっていた。
ここは、私たちが幼い頃を過ごした神殿の前だった。いつの間にか太陽が周囲を照らし、木々は鮮やかな緑の葉を茂らせている。神殿の上には布の幕が見える。
そして神殿から、少年と少女が飛び出してきて、私たちに気づかずに、森の中へ去っていく。
懐かしい景色。懐かしい世界。
「ここで戦わなければいけないのは、苦痛だけど、でも戦いは必要だ」
そう言ってオリフが右手に下げている剣を構え直す。私も構えを取った。
「なんで殺し合うのかしらね」
思わず声が出た。私の声だ。そして続く言葉は、私の言葉ではない。
「アルカラッドの痕跡は、最後まで消さなくてはならない」
やっぱり私の言葉ではない。
「この世界への干渉の起点を、さて、潰せるかな。守護者よ」
何かが私の心を支配していた。まさか、これが死龍?
でもどこまでが死龍で、どこまでが私なんだ?
同じ体に共存し、同じ思考を共有し、完全に溶け合った異質なものは、もう私自身と区別がつかない。
助けて。そんな言葉が心に浮かぶが、すぐに消える。
助けて。オリフ。私を、助けて!
「楽しもう、守護者」
私の体が動き出す。オリフもまた突っ込んでくる。
二つ振りの剣が交錯し、弾き合う。
魔術が発動し、魔力を物質に置き換えていく。それが私の全身を覆っていく。真っ黒い鎧になった。
オリフの剣が鎧の表面で火花を上げる。
私の剣がオリフの左肩を貫く。そのまま引き裂き、血飛沫が走る。
オリフ、私を、殺して。
もうあなたを傷つけたくない。
私はもう、私ではないのだから。
刃が交錯し、火花と血飛沫の中で、競り合っていく。私は無傷なのに、オリフは肩を割られ、胸を薙ぎ払われ、足をえぐられ、胴を貫かれる。
死んでしまう。オリフが死んでしまう。
普通だったら死んでいるだろう。しかしオリフは立ち続け、剣を振るっている。
諦めていない。私のことを、諦めていないんだ。
こんな私を、黒く染まった私にまだ何かを、見出している。
それを失うのが怖かった。
こんな自分を殺して欲しいのに、私が死んでしまうことはオリフを裏切ることになる。
それでもどちらかを選ばないといけないのだ。
甲高い音を立てて、一振りの剣が宙に舞い上がる。二人ともが動きを止めた。
地面に転がったのは、私の剣だ。
そして私の額のすぐ前に、オリフの剣の切っ先がある。
終わりが来たんだ。やっとこの、悪い夢が終わる。
オリフを見ると、苦しそうな顔をしている。ボロボロの体をして、血に染まっていなところはほとんどない。そうしたのは私だ。
どう謝罪すればいいだろう。
きっと許してくれないだろう。
そのオリフの顔が歪み、咳き込んだが、吐き出されたのは息ではなかった。
大量の血液が吐き出され、地面で跳ねる。
大きく一歩後退し、オリフが膝をついた。また咳き込み、大量に吐血する。
「運は私に味方した」
私はそう言って、離れたところに転がっている剣に手を向ける。
魔力が剣を絡め取り、小刻みに揺れながら剣が地面の上で動き始めた。
(続く)
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