第12話

     ◆


 奇妙な場所だった、と静かな口調でオリフが言った。

「真っ白でね、音がないんだよ。まったくね。今までに静かな場所っていうのを知らなかったんだって、理解したよ。何もないから、まったくの無音で、果てしなく広いはずなのに、でも距離は計れない」

 どうやら臨死体験を語っているらしい。

「その変な場所で、音がないのに、何かが鳴いている。遠吠えだけど、甲高くて、あれは龍の鳴き声だと思う」

「死神じゃないの?」

 思わずそう声にすると、オリフが微笑む。

「死神だろうね。その声がどんどん大きくなって近づいてきたような気がする。でもそれは僕こそがそちらに近づいたのかも。とにかく距離も遠近感もないから、わからないけど。でもとにかく、龍の鳴き声だった」

 かすかな音を立てて、草が揺れる。

「それが僕を包み込んで、何かが見えそうだった。見えそうだったところで、僕の体を掴んだ」

「体?」

「ああ、身体はない、なかったんだけど、それが僕に触れた瞬間、体が生まれた。不思議なんだけど、僕という存在が溶けて、流れ出して、周りと境界がなくなっていたのを、それがはっきりと蘇らせたんだね」

「それって?」

 オリフがこちらを見る。困ったような顔だった。

「龍の手だよ。僕を鷲掴みにして、引っ張るんだ」

「それって……、もしかして……」

 答えを聞く前から、わかっていた。オリフの笑みが、嬉しそうなそれに変わる。

「アルカラッドだよ。彼が僕を助けたんだ」

「龍だからね、まぁ、それくらいは……」

 私も大概、感覚が麻痺し始めている。

「ものすごく力強くて、でも優しい手だったよ。見た目は怖かったけど」

 そんなことを言ってから、オリフが姿勢を変えて、草原に寝転がった。私が視線を向けても、オリフはこちらを見ずに空を見上げている。私は座った姿勢のまま、彼の視線の先を確認した。

 真っ青な空に、表現できないほど平凡な雲が浮かんでいる。

「あんな光景を見ちゃうと、もう死にたいとは思えないな。人を殺すのも、怖いよ」

 そんなことを言うオリフに、そんな覚悟もないくせに、と私は応じたけど、自分の声とは思えないほど弱くて、風に簡単に吹き散らされた。

「命っていうのは、いつかは死ぬけど、みんなあそこへ帰るのかなぁ」

 嘆いているとも、感心しているとも受け取れる口調のオリフを、私は見ることができなかった。

 私はオリフが死んだ時、いろいろな思いに支配された。死んでほしくないとも思ったし、救いたいとも思った。自分の馬鹿さ、迂闊さを呪ったし、猟師を皆殺しにすることもどこかで考えていた。アルカラッドに蘇生させることと、アルカラッドがそれを断った時、どうしたらいいかも、やっぱりどこかで考えた。

 私はどこまでも残酷だった。

 誰かを傷つけること、報復し、脅迫し、いうことを聞かせること、それをまず考えてしまう。

 そんな力尽くでは解決しないことが、この世界には多くあることを、私はもう知っている。知っていても、最後には力に頼ってしまう。

 まるで支配者になろうとするような自分が、まるで好きになれない私がいる。

 オリフとは真逆の、人間として大事なものを失っている、私。

「猟師を恨むのはやめよう」

 オリフが言う。

 やっぱり彼と私は違う。彼は全てを許す。全てを認め、尊重できる。

 私とは違う人間なんだ。

「撃たれたのはあんただからね、そうしたいならそうすればいい。もし私が撃たれていたら、ただじゃおかないけど」

 思わず鼻で笑っていた。何を笑ったんだろう。

 黙ったまま、動かずにいるオリフの横に、私も思い切って横になった。草の匂いが私を包む。太陽の日差しが暖かい。風が心地よかった。雲はのんびりと動き、時間の流れが緩慢なものに錯覚される。

「恨みや憎しみに囚われてはいけない。その言葉を覚えている?」

 すぐ横でオリフが言った。もちろん、と答えた。

 それはアルカラッドに拾われて、すぐの頃だった。アルカラッドは文字を教えるよりも前、最初の最初に、いくつかのことを私たちに教えた。

 人から奪ってはいけない。人を傷つけてはいけない。

 奪われ、傷つけられても、それを憎み、恨んではいけない。

 自分のことは自分で行い、他人とは助け合う。

 怒りには冷静に対処し、喜びにもまた冷静に対処する。

 常に水面のような心であれ。

 そんなようなことだ。繰り返し聞かされ、繰り返し唱えたものだ。もう口にしなくなって久しい。

「もしアンナが撃たれていたら、僕はどうしたか、さっきまで考えていたよ」

「仇を討ってくれた?」

 反射的に、即座に質問していた。どうかな、とオリフが呟く。

 しばらくどちらもしゃべらず、ただ雲を見ていた。

「アンナが死んだら、困るよ」

 脈絡もなくそんなことを言うオリフが可笑しくて、私は笑っていた。笑うと、それもまた可笑しくて、久しぶりに笑いが止まらなくなった。そんなに笑わないでよ、とオリフが拗ねたように言う。

 私は体をひねって、オリフを見た。彼もこちらを見た。

「本気で言っているの? オリフ。私たち、いつまでも一緒にいるわけじゃないでしょ」

「え? そうなの?」

「私はそう考えているけどね。あんたも考えておいたほうがいいよ」

「うーん、難しいなぁ。のんびり考えるとするよ」

 ここらで話は終わりだ。私は起き上がり、立ち上がった。投げ出していた魚を取り上げる。

「この島で初めての食事だけど、質素で悪いわね」

「いや、そうか、木も生えてないしね」

 まだオリフは横になっている。

「私は建物の様子を見てくるわよ。アルカラッドがここを選んだんだから、まともな場所なんでしょうけど、やっぱりそこは確認しないとね。水浴びもしたいし。塩水でベトベトなの」

「僕はもう少し、ここにいるよ。自分が体験したことを、もう少し整理したいんだ」

「はいはい、気が済むまで考えていなさい。魚は焼いておくからね」

「頼んだよ」

 寝転がったまま真上を見上げているオリフを一瞥して、私はその場を離れた。

 石造りの建物は半分は崩壊していて、でも無事な部分が多い。何より、井戸があるのが見つかった。桶は朽ちかけて、しかし滑車が設置されている。錆まみれだけど、手を入れれば使えそうだ。

 建物の中でも調理場は保存されていて、水を溜めておける甕が三つ、壊れもせずに置かれていた。ただ、薪か何かを集める必要はあるかな。当面は魔術で調理するとしよう。

 腰の剣で魚をさばいて、魔術の火炎で焼いた。うまく焼けなかったので、乾燥して干物のようになったけど、まぁ、構わないだろう。

 ここまで進めて、皿がないことに気づいた。仕方ないのでこのまま魚の一切れはオリフに届けると決めた。自分のための一切れを噛みながら外へ出る。風がやっぱり気持ちいい。

 斜面の途中まで行くと、さっきと同じ場所にオリフが横になっている。歩いていっても反応はない。すぐそばになると、彼が眠っているのがわかった。

 起こすのも申し訳ない気がして、少し離れて、私は立ち尽くした。

 立ったまま、頭上を見上げる。

 雲が流れていく。

 平和な世界だった。争いもない、血飛沫もない、怒声もない、そんな世界。

 こんな世界が許されるのか、と考えていた。

 過去にも現在にも、きっと未来にもありとあらゆることで争いが起こったし、起こるだろう。それなのに今は、まるでそんな全てがないように感じる。

 奇跡の一つだ。

 風が吹いて、オリフが目覚めたようだった。

 草の中から、彼が起き上がった。



(続く)

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る