第32話
◆
光が闇に飲み込まれ、闇が光に引き裂かれる。
どちらが正しい? 何が正しい?
本来あるべき形とは、何なのか。
(龍を信じる者よ)
闇の奥から僕に声が届く。音ではない。魔力の波長を使った、思念。時間を遡り、空間を渡り、別の次元から届く声。まるで僕自身が僕自身に語りかけているような錯覚がある。
(何故、目の前にいる龍を信じる? 人ではないものを、何故、慕うのだ?)
彼は僕の父親だ。そう答える声は僕の中に留まる。思考が頭の中で響き、その響きが別の言葉に、誰かの言葉に変わる。
(人であることを捨て、何をなす?)
(なすべきことを)
返事がないと思ったが、静かな笑い声がした。
(おかしな人間もいたものだ。人に何ができるのか、知らないのか? 弱く、儚く、無力な人が、何をなせる?)
そうだ。人間は龍や、かつての覇者たちと比べれば、はるかに非力だ。ただ数が多く、頭が回るだけの、不足ばかりの存在。
でもそれが僕自身であり、克服したい存在であり、同時に大切なものでもある。
色々な人が僕の周りにいた。彼らはみんな、人間だ。僕と同じ人間であり、同じ時と世界を生きる、刹那の存在だ。
不足でもいい。力がなくてもいい。
(やはりおかしな奴だ)
誰かがそう言った時、僕の中の光と闇の戦いは終わりへと向かっていた。
ついに光が全ての闇を克服し、世界が照らされる。その光の下に何が見えるのか、僕はじっと目を凝らした。心の目を。
そしてそこに見えたのは、無だった。
何もない。
のっぺりとした、白い世界。
(ようこそ、最後の時間へ、龍の子よ)
光が一瞬で、反転する。全ては、闇へ。
瞼を開いた。石造りの部屋。
アルカラッドが立ち尽くしている。アンナの腕は見えない。
今の光景は、いったい。
「やられた……」
急に、ボソッとアルカラッドが言葉を口にする。
彼を見た時、思わず一歩、下がっていた。
顔の半分が鱗に覆われ、口は裂け、牙が覗いている。皮膚は真っ黒い、闇の結晶のような色をしている。そこを押さえる片手もまた、黒い鱗に覆われている。
「オリフ、私はここまでだ」
いきなり力が抜けたようにアルカラッドが片膝をつく。顔を上げ、こちらを見ていた。
「私の魔力を全て破壊しろ。それ以外に道はない」
「何が、何が起こっている?」
「死龍は私を触媒にしようとしている。アンナの腕を代償として引き受けること自体が、奴の計画だ。アンナの腕を通じて、私とアンナのつながりを逆流して、私を狙ったのだよ。急げ、オリフ。早く、私の首を落とせ」
首を落とせなんて……。
「で、できない。他にやり方があるはずだ!」
「私を」
アルカラッドが無事な方の口角をわずかにあげる。いつも通りの、柔らかい笑みがそこにあった。
「私を龍として、正しい存在として、殺してくれ」
そんな……。ありえない……。
だってついさっきまで、いつも通りに……。
「早く!」
僕の手に力が渦巻き、手刀に乗ったそれは不可視の刃になる。
手を振り上げた。アルカラッドが目を閉じる。
僕は、動けなかった。
「すまなかった、オリフ、アンナ」
そうアルカラッドが呟いた瞬間、彼は力を失い、その体が床に落ちる寸前に膨張する。僕は反射的に魔力の障壁で自分を守って、衝撃ごと吹き飛ばされた。
後になってみれば、龍の形を取り戻したアルカラッドの体が、物理的に遺跡の狭い部屋を吹き飛ばし、さらに遺跡の建物自体を崩壊させたのだった。
気づくと目をつむっていて、周囲の物音が消えてから自分がまだ瓦礫に埋まっているとわかった。恐る恐る障壁で瓦礫を押しのけ、立ち上がった。
目の前に龍の巨体がある。
「アルカラッド……」
黒い龍がこちらを見下ろす。瞳が笑ったような気がした。禍々しい、嗤い。
「終わりだな、龍の子」
アルカラッドは似ても似つかない姿に、似ても似つかない声だった。
僕は自分の失敗を悟るのと同時に、強力な怒りに支配され、力を爆発させた。
魔力の結界が島を完全に封鎖する。その内側の魔力が全て、守護者としての力に食い尽くされていく。
黒い龍が咆哮を上げ、息吹を吐き散らす。その息吹さえも、僕に届く前に消えていく。
叫んでいた。誰の声だ?
これは、僕の声だ。
ついに黒龍の鱗が光を発して崩壊し始める。息吹はさらに強くなるが、放射される直後に無力化され、かすかな燐光に変わる。
龍が分解されていく。
アルカラッドが、この世界から本当に消えるんだ。
二十年ほどを、僕やアンナと生きた龍が、最後には僕の手で消えていく。
別れの言葉も何もなく、滅ぼされるしかない存在になり、そして消えるのか。
全てが突然だった。
でもいつも、どんな時でも、何だって、突然だ。
人間には未来はわからない。
僕の力は一層強く、龍を蝕み、しかしその遅々とした速度は、残酷なほどゆっくりしていた。
涙が溢れた。
こんな時、何を言えばいいのか、わからなかった。
黒龍が吠える。翼を羽ばたかせ、物理的な風が吹いた。それは僕を嬲ったが、弱い風に過ぎなかった。あれだけ強かった龍が最後に起こした風としては、あっけないほど。
空に浮くことに失敗し、巨体が墜落し、島が揺れる。遠くで崖が崩落する音もする。
僕はまっすぐに彼を見た。
「詰めが甘い」
そう言った気がした。
今までがなんだったのか、雪崩を打つように黒龍の体が塵に帰っていく。
いや、違う、これは……!
認識が追いつく前に黒龍の中枢、その精神が力の波となって肉体を捨て、飛翔する。
僕の魔力による結界に衝突、一瞬の押し合いの後、結界がその一点から完全崩壊。バランスを失った魔力が吹き荒れ、今度こそ僕は片膝をついていた。
見上げた先、夜の空へと波動が走っていく。
どこへ向かった?
黒龍が死龍なら、この世界には宿るものを持たない。それはついさっきアルカラッドが言っていたじゃないか。死龍は本来、この世界には顕現しない。
しかし今、この世界には死龍に近い存在が少なくとも、一人、いる。
アンナだ。
彼女の肉体には、死龍の呪いがまだ残っていると、アルカラッドは言っていた。
アンナを守らなくては。アンナの元へ行かなくてはならない。
一度、塵の山を見た。それがアルカラッドだったものが残したものの全てで、すでに風に吹き散らされ、消えかかっていた。
目元を拭ってから、僕は目を閉じた。
認識力だ。より広くを、意識しなくてはいけない。
人間の限界を超え、空間を超えて。
世界中に大勢の人間が、ありとあらゆる生命が生活している。
超広大な、感覚の及ばない圧倒的な世界。
その中から死龍の痕跡、先ほどの黒龍の痕跡をあぶり出す。
首筋に痺れるような感覚。
いた!
目を開くと、自分の頭の中に大きすぎる何かが無理やりに詰め込まれたような感覚。鋭い頭痛にこめかみを押さえてから、深呼吸した。とにかく今は、時間がない。
何もない空間に、僕は魔力で切れ目を作り、強引に魔術通路を開いた。
アルカラッドがいた場所を振り向きたかった。
でも今は、その時じゃない。
前を見なくては。
僕は魔術通路を抜けた。
(続く)
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