第11話
◆
私はほとんど絶叫していた。
「オリフ! しっかりしなさい!」
くそ! 意識が消えている。
後になってみればわかる。銃だ。どこに射手がいたのか、撃たれるまでわからなかった。木立の中に隠れていたのだ。魔術による索敵を無力化する、ちょっとした魔術が宿った護符でも身につけているんだろう。
そこは龍たちから魔術を習った私なんだ、看破することも出来た。
それが、油断した。くそ! 本当に、バカみたい!
「起きて! オリフ!」
横たえられているオリフは反応しない。右胸が血に染まり、すでに心臓の鼓動は消えた。熱さえも失われていく。
アルカラッドの、龍の力が必要だ。
「愚かだったな、アンナ」
急に声がした。顔を上げた先に、アルカラッドが立っている。
いつになく無表情で、冷淡とも言える視線が私に向けられている。
「お願いします、アルカラッド」声が自然と出た。「オリフを救ってください」
「なぜ危険を選んだ? 答えろ、アンナ」
議論している暇はない。今もオリフは死の世界に突き進んでいる。
でも私にはそれを止める力はない。それができる龍を見上げ、自然と涙がこぼれた。
「自分を、過信しました。相手を甘く見て、自分を過大に評価しました。私が、愚かでした」
「口ではどうとでも言える」
「では、どうしたらいいのですか?」
どうやって償えばいい? もう全てを差し出してでも、オリフを助けたかった。
「お前の腕をもらう」
「腕?」
「左腕をもらおう。しかし今ではなくていい。やがて、もらうとしよう」
今までの冷ややかさが嘘のように、アルカラッドの気配が和らいで、彼が跪いた。アルカラッドの手がすでに土気色になっているオリフの額に置かれる。
急にアルカラッドの皮膚が泡立った。
人間の形を失っていく。鱗が生まれ、節くれ立ち、爪が伸び、色が変わる。
真っ黒い人ならざるものの手が、オリフの額に触れたまま、強力な魔力が迸った。
その瞬間、何かが私の精神に届いた。
鳴き声。甲高い、悲哀に満ちた声。
何の声だろう?
ぶるっとオリフの肩が震えた。その時には私の心の中の音は消えた。
「オリフ? 大丈夫?」
まだアルカラッドはオリフの額に触れ、そしてオリフは動かない。
「死龍に半ば捕まっている」
目を閉じたまま、龍が告げる。その首筋は皮膚が鱗に取って代わり、それが右頬にまで進行していく。
ざわざわと何かが動き始め、それが神殿の通路、その壁から発せられているかすかな音だとわかった。通路が崩壊する? でも、なぜ?
何かが視界のそばを走る。そちらを見ると、別のところを何かが這い進んだ。
そして何かが滴ってきて、私の左肩に触れる。振り払うと、ぬるりとした感触。
手が真っ黒く染まっている。
「アンナ、魔術の障壁を張れ。死龍の影だぞ」
そう、その時には通路は全てが真っ黒く染まり、細かな粒子に埋め尽くされている。
いや、粒子じゃない。あれは、虫だ。細かな虫の集合体が、私たちを取り囲んでいる。
言われた通りに魔術で結界を展開すると、虫たちがその表面を走り、火花をあげながら障壁を削り始める。魔力を集中し、障壁を多重構造にしていくが、いつまでも保ちそうにない。
それに、虫を払った左腕に激痛が走り、治癒魔術が効果を発揮しないことも、集中を妨げていた。通路は暗闇に閉ざされ、かすかにアルカラッドの周囲だけ明るいのが、不思議だ。
左腕を気にするのはやめた。やれることをやるしかない。
「来たぞ。オリフ、こちらへ来い」
ぶつぶつとアルカラッドがつぶやき、かっと両目が見開かれた。
まるで爆発だった。周囲を埋め尽くしていた虫が一斉に消え、明かりが取り戻される。元の世界に戻ったのか?
アルカラッドの体が普通の人間のそれに戻る。そしてオリフは、静かに呼吸をしていた。
「これで良いだろう。アンナ、腕を見せなさい」
やっと私は自分の左腕を見た。手首から肘にかけて、黒い筋が入り、血が滲んでいるが、その血さえもがどす黒い。
そこをアルカラッドの手がなぞると、一層の激痛の後、黒い筋は消えていた。そしてアルカラッドが手を払うと、壁に黒いシミができ、霧が払われるように消えた。
「さて、場所を変えるとしよう」
立ち上がり、周囲を見回してから、アルカラッドが足を一度、地面に強く当てた。
ズシンと全てが震え、神殿の壁が今度こそ崩壊し、天井が崩壊し、粉々になり、私たちを押し潰す前に消えた。
古代文明の神殿が全て消えて、潮の香りが吹き荒れ、周囲を緑が包み、重低音の唸りは巨大な水が起こすものに変わった。
新しい石造りの建物が出来上がり、全ての変化が終わった。
目の前の半ば朽ちた石造りの建物は、さっきまでの神殿とは比べ物にならないほど粗末だ。
どうやら島の一番高い場所にあるらしく、周囲をぐるりと海に囲まれている光景がよく見えた。木はほとんどなく、丈の短い草が周囲を覆っていた。
そのやわらかい草の中で、オリフが横になり、安らかな顔をしている。頬には赤みがさし、死んでいないことを主張している。
「アンナ、釣りの経験はあるよね」アルカラッドがそう言って微笑む。「ここでは魚を食べるしかないな」
この龍なら食べ物なんていくらでも自由にできるのに、こういう変なことを言うのは、嫌がらせだろうか。
「道具を作るところから始めるのですか?」
「そうなるな。できないなら、手伝おう」
「いえ、やってみます。オリフを任せていいですか?」
「いいだろう、試しておいで」
本当はもう少しオリフのそばにいたかったけど、私は迷いを振り払うように素早く立ち上がり、斜面を下りていく。
島には小さな木立はある。道具は作れそうだ。しかし、釣り竿となると、どうにかして釣り針を作らないといけない。都合よく材料が見つかるだろうか。
狭い浜辺にたどり着き、考えた。仕方ない、剣で魚を突くしかないか。
服を脱いで、下着で海に飛び込む。剣は鞘から抜いて、右手にある。
海の波に翻弄されながら、長い時間を使ってどうにか二匹の魚を手に入れた。
魔術で全身を乾かして服を着て、斜面を登っていくと、オリフが見えた。
草原の真ん中に座って、海の方を見ている横顔が、光を受けている。ついさっきまで死にかけていた、というか、死んでいたとは思えない。
急にアルカラッドがやったことが、まさしく奇跡、神の御技だと、はっきり認識できた。
あの龍は、何もかもを自由にできる。ではなぜ、私たちを育てる?
考えても仕方ないことを考えながら、私は歩みを再開した。斜面を上がりきった私に、オリフも気づく。彼は嬉しそうに笑い、それから笑みの性質を情けなさそうなものに変えた。
「迷惑をかけたね、アンナ」
「まったくよ」
そう言って、彼のすぐ横に私は腰を下ろした。
「本当に、迷惑をかけた。ごめん」
もう一度、謝罪する少年に、私は無言を向けた。風が吹いて、二人の髪の毛を揺らす。海は眩しいくらいに鮮やかな青で、鳥が自由に飛んでいる。どこから来て、どこへ行くのか。
それは私たちも同じだ。
驚いた、とオリフが言った。
(続く)
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