第9話

     ◆


「やめろ!」

 僕は思わず叫んでいた。そして崖に踏み出し、落下の直後、魔力を使って宙に浮いた。

 青い龍は少しも躊躇わず、息吹を吹き付けてくる。その前に身を滑り込ませ、魔力の場で息吹をそらす。足元で、生き残っていた老婆と少女が身をすくませている。

「早く逃げろ! 早く!」

 息吹の勢いが増す、僕の魔力が削られ、押し包まれてくる。

 魔力同士がぶつかる、空間が軋むような音の向こうで、澄んだ音がした。

「人間が何をする?」

 青い龍が低い声を発した。僕を今にも解体しそうだった息吹は、消えている。

 今、僕のすぐ横に並ぶアンナが、無力化したのだ。彼女は剣をすでに抜いていた。

 宙に浮かぶ一体と二人が、向かい合う。

「人間が何をする?」

 龍が再度の問いかけ。時間を稼ぐべきだろう。老婆と子供は走り出したが、まだ近い。

「無用な殺しは必要ない」

 そう応じる僕の前で、龍がうなるような声を出し、それが笑っているのだと遅れて気づいた。

「今、何人が死んだかな、人間よ」

「なんだって?」

「だから何人かと聞いている。我は何人を殺した? 言ってみよ」

 意味不明な問いかけだった。だから答える言葉を探し、探しているうちに龍が答えた。

「おおよそ百人というものだろう? それがどれほどの大きさか、説明できるか?」

「大きさ……?」

「そう、大きさだ」

 やっぱり意味不明だった。龍は平然としている。

「人間の総数からして、百人はいかほどだ? 何割になる」

 馬鹿げたことを、とアンナが吐き捨てた。

「命に数など関係ない! 存在だろう!」

「ほう、面白いことを言う娘だ。では、例えばお前という存在は、百人分の存在の百分の一か?」

 グッとアンナが言葉に詰まった。

「命を奪うことは、許されない。数でも存在でもなく、可能性として」

 僕が冷静さを意識して答えると、青い龍は黙ってこちらを見ている。

「あなたが奪ったのは、可能性だ。人間にできることは限られている。しかし人間は常に努力し、全てを費やして、何かを成そうとする。形にならないものもいる、怠けるものもいる、無駄に命を散らすものもいる。その一方で、偉大なことを成すものがいる」

 龍は黙っている。すでに老婆と子供は逃げた。無事に生き残れるだろう。

「人間自身は可能性を意識できないようだが、お前自身はどうか」

 問いかけられ、僕は答えた。誠実に、正直に答えようと思った。この龍が僕の話に耳を傾け始めているからだ。

「僕には僕の可能性はわからない。人間には人間の可能性がわからない。だから自分を評価するとなれば、希望に基づいた願望になる」

「答えとして不足だ」

「人間の可能性とは、未来です。そして人間は時間を遡ったり、飛び越える力はない。龍には理解できないその一方通行が、人間を時に必死にさせ、時に愚かにさせると思います」

「答えとして不足。その融通の利かない命で、お前は何を成すのだ?」

 わからない、と答えても、それ自体が龍には理解できないだろう。無知、そうでなければ、幻想と思われるかもしれない。人間はそもそも無知だし、幻想に頼って生きていることを、この龍にどう説明できるだろう。

「私は龍を殺す」

 いきなりアンナが発言して、僕はそちらを見た。彼女は勢いよく、龍に剣の切っ先を向けた。

「あんたみたいな、無礼で、傲慢な龍を殺すのが、私の使命よ」

「使命? 生き方、ということか」

「気概、と言ってもいいわね。さあ、逃げる? 逃げない? 戦う? 戦わない?」

 龍は黙り込み、また唸るように笑い出した。

「アルカラッドの子どもは面白いな」

 急にそう言われて、そうか、アルカラッドが意図的にここに連れてきた、ということに気づいた。龍は嬉しそうに笑う。

「龍を倒した剣士は大勢いる。その道を進むものは、未来でもいるらしい。そうかな、アルカラッド」

 龍が首を向けた先、崖の上の淵に立っている男は、何も言わない。

「龍殺しなど、進んでやらせるべきではないぞ、アルカラッド」

 やっぱり僕たちの育ての親は、何も言わなかった。

 答えを待つのをやめた龍が勢いよく翼で空気を打ち、わずかに舞い上がる。その瞳が僕を、そしてアンナを見た。

「幼き子ら、龍に導かれし子らに、幸福があることを願うとしよう。まだ未熟ながら、どちらも良き戦士となろう」

 良き戦士? 何のことだろう。誰と戦うんだ?

 龍が翼を折りたたむと、魔力が渦巻き、その体が弾かれるように天へ向かう。風に翻弄されないように空中で踏ん張る僕たちの前で、青い龍はそのまま空の彼方へ消えてしまった。

「まったく」アンナが呟く。「不愉快な奴だった」

 地上へ降りて、息吹からかろうじて生き残った人間の痕跡を確認した。実際には生存者を探したいのだけど、息吹がそれほど生温いわけがない。地面には厚く塵が積もり、人間だったもの、その所有物はことごとくその塵になっていた。

「無駄よ、オリフ。もう何も残っていない」

「うん、そうだね……」

 二人でほとんど同時に崖の上に飛び、アルカラッドの前に立った。

「ここはいつの時代ですか?」

 そう問いかける僕に、人龍大戦の最中だよ、と超然とした龍は答えた。

「今のような光景が無数に繰り広げられた。龍は人を消し去っては、世界の浄化を企図した。一方で、人間と龍はそれに対抗し、龍を討伐した」

「私があの青いのを切れば良かった?」

 アンナの言葉に、アルカラッドは苦笑いした。

「できなくはなかっただろう。ただ、無事で済んだとも思えない」

「低く見積もられたものだわ、私も」

「常に悲観する必要があるな、きみは」

「自信がないのも考えものでしょうよ」

 笑うアルカラッドに対し、アンナはやはり不満げだった。

 実際に彼女が本気で挑んで、どうなっただろう。僕にはできなかった息吹の相殺を、彼女は難なくやってのけた。しかしあれがあの青い龍の本気だったとも思えない。

 戦いは激しくなり、アルカラッドの言う通り、何かしらの犠牲が生まれた可能性が高いと、僕は考えていた。もちろん、全てが終わった今になって、ということになる。

 実際に龍を前にしては、そこまで冷静に考えられなかった。自分が敗れることを計算して、それでもあの二人を助けたかったし、アンナがもし龍と対決すれば、自分の身の安全を度外視して、アンナに加勢しただろう。

 そう、僕自身が死ぬことになっても、アンナと一緒に戦ったはずだ。

「面白い問答だったが、どうだった?」

 そう訊ねるアルカラッドの視線には、柔らかい光がある。

「龍のことを理解するのは、難しいと感じました。あなたほど、好意的ではない龍は特に」

 それは僕の、皮肉でもなく本音だったけど、アルカラッドは特に気にした様子もなかった。

「人間同士なら理解できるかな。例えば、きみたち二人はどれくらい理解しあっている?」

 思わず僕とアンナは視線をぶつけ、しばらく見つめあったけど、人間には視線で意思疎通する機能はない。アンナの方から視線を外した。

「私はこいつのことをおおよそわかってますよ」

 そんなことを言うアンナに、同じ感じです、と僕は無難な回答を重ねていた。それが可笑しかったのだろう、アルカラッドは口元を押さえてクスクスと笑っている。アンナが不機嫌になるのがわかったけど、彼女は無言だ。

 帰るとするか、とアルカラッドが言うと、周囲を風が渦巻き、時間が急速に流れ始める。

 人間だった塵が巻き上がり、どこかへ飛ばされていった。



(続く)

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