第36話

     ◆


 どうして、彼がここへ?

「未来のきみに会うのは、一つの必然だ」

 訳がわからなかったが、気づいたことはある。

 この場所へ転移した時、幼い僕とアンナを見た。てっきり形だけの作り物の世界だと思っていたが、違うんだ。

 ここは本当の過去。僕とアンナが生きていた時代。

 そこでならまだ、アルカラッドは死んでいない。

 そのアルカラッドが全く動じた様子も見せず、穏やかな笑みでこちらへやってきて、しかし興味深げにまじまじと僕を見た。

「きみはそんな風に成長するんだね。実際に目にするのが楽しみだよ」

「いや、えっと」

 僕の方こそ動転していた、全身傷だらけで、血まみれで、えっと、どうしたらいいのか。

 何かが僕の体に作用して、暖かいその力はアルカラッドの魔術による治癒だとわかった。僕なんかとは比べ物にならない、精密で、強力な治癒が僕の全身を癒した。

「腕を再生するのは、難しいな。誰にも限界はある」

 そうアルカラッドが言った時には僕は万全の体調で、左腕の痛みも消えている。見れば、醜い形状ながら、断面もふさがっていた。

「そこで死んでいるのはアンナだね。彼女も立派になった」

 そう。それだ。

「アルカラッド、いきなりで悪いけど、アンナを蘇らせて欲しい」

「なんで私が人を蘇らせることができるって、知っているのかな」

「あなたが僕を蘇らせたからです」

 そう口にしてから、僕は急に目の前にいる龍に腹が立った。

 この龍の不手際が全ての原因じゃないか。もっとスマートに僕を蘇らせれば、何も起こらなかった。アンナに死龍が取り付くこともなかったわけだし。もっと言えば、人を生き返らせるなんて不可能だって、嘘でも方便でも使って、アンナの要求を突っぱねればいいのに。

 まあ、良いだろう。とにかく今、僕はこの龍の力を知っていて、それにすがるしかない。

 僕が見ている前で、龍は顎に手を当て、何かを考えている。こうしている間にもアンナの体からは熱が逃げている。早く決めて欲しい。

「未来で何かがあったようだけど、私一人の力では、不可能だろう」

「え? どういうこと?」

 だって、僕を蘇らせた時は一人だったじゃないか。

 そう言おうとする僕に、アルカラッドが真剣な眼差しを向けた。

「人を一人救うには、それに見合った魔力が必要だ。アンナを助けるためには、誰かが犠牲になる」

 そんな理由か。拍子抜けした。

 答えなんてはっきりしている。

「僕がその犠牲になるよ。これでもあなたに守護者として見出されて、変な力も使える」

「守護者? 私はそんなことをするのか」

 ちょっと不快げな顔になったけど、アルカラッドは何度か頷いた。

「今のきみに宿っている力なら、十分すぎるほどだ。二人は生き返らせるかもしれない」

 急に何かが繋がって、びっくりした。

 今、アルカラッドはアンナを救うのに一人の犠牲が必要と言ったのに、僕を救う時は誰も犠牲にしなかった。アンナの片腕を要求しただけだ。

 なら僕の命分の代償はどこにあったか。

 それは、未来の僕が支払ったんだ。自分自身で自分を助けるのだから、奇妙な話だが、間違い無いだろう。

「アルカラッドは知っているかもしれないけど」

 僕は冷静に言葉にした。

「今、僕の命でも体でも、自由にしていいから、アンナを蘇らせて欲しい。その後で残っている僕の支払ったもので、僕自身を救って欲しい」

「僕自身、とは?」

「十六歳かそこらの時だったかな。この神殿が襲われて、猟師に取り囲まれる事態になる。そこでちょっとした手違いで、僕が猟師の銃に撃たれて、死んでしまう。だからその時、今の僕が払った何かで、僕を蘇生させて欲しいんだ」

 理由がわからないな、とアルカラッドが呟くがすぐに気づいたようだ。

「その時に代償として、アンナが何かを支払ったのか?」

「そういうこと。そこで全てが始まるんだよ。だから、僕が今、あなたに求めるのは奇妙な内容になる。このままアンナを殺せば、僕は生き延びるけど、別の世界では僕は死んでいる。ここでアンナを助ければ、その、間接的に僕も助かる」

「人間は一つの可能性、一つの人生、一つの世界しか、知らないよ」

 苦笑するアルカラッドに、わかっている、と僕は頷き返した。

「僕の願いとして、アンナを救って、そして別の世界に生きる僕とアンナを、救って欲しいってことになる。それができるのが僕じゃなくて、あなたなのが申し訳ないけど」

 考えている暇はないね、とアルカラッドがアンナのすぐそばに膝をついた。

「守護者の本質は、その意識が宿っている肉体を離れていることを知っているね? 未来の私が教えていれば、だけど」

「ええ、それは、聞いています。時間や世界から、切り離されていると」

「きみはこれから、本当の意味でどこにも繋がりを持たない、曖昧な存在になる。それは想像を絶する苦痛だと思う。それでも代償を支払うか?」

 僕は強く頷いて、まっすぐにアルカラッドの瞳を見た。

「アンナを救うためだけに、僕は今まで生きてきたんだと思いたいんです。それでどこかの世界が平穏になるのなら、それも嬉しい」

「やり直せないことを知っているか?」

 はい、とはっきり答える僕に、アルカラッドが破顔した。

「立派になったな、オリフ。きみとまた会えるのが楽しみだよ」

 やろう、とアルカラッドが小さな声で言って、アンナの死体の額に手を置いた。彼が目を瞑ると、それだけで何かが僕を拘束するのがわかった。

 体の自由がなくなるけど、脱力はしない。まるで体が石像になったようだ。

 視界の端に見えていた僕の靴が砂のにようになり、崩れ始める。その奥にあったはずの足もなくなっている。痛みがないし、感覚もない。

「さらば、オリフ。私の子よ」

 アルカラッドは目を閉じたままでそう言った。

 体が崩れていくのを見ながら、僕は視界の中で、最後にはアンナだけを意識した

 彼女は僕のことを一番知っている人間だ。その彼女が生きていれば、僕ももう少しは、生きていけるだろう。記憶の中という限定された、極端に狭い、アンナ以外には理解できない世界でも、僕の痕跡が少しだけ残る。

 彼女の口調の隅っこにでも、僕の癖が残ればいい。

 そうして僕は体を失い、何も認識できなくなった。

 見えてきたのは、巨大な渦だ。守護者になる時、六大龍の思念と対話した場所。

 違うのは、僕は漂うのではなく、今も巨大な渦、果ての見えない滝壺へ落ちて行こうとしていることだ。

 きらめく粒子は、何だろう。命か、それとも時間か、大地だろうか。

 何もかもが飲み込まれる、真なる虚無の中に僕は落ちていった。

 二度と戻れない世界の記憶も、いつか失うだろうか。

 アンナのことも、アルカラッドのことも、誰も彼も、僕の中から消えるのか?

 どこか遠くで、龍の遠吠えがする。

 葬送を見送るような、そんな声。

 ついに僕は奈落へ落ち、全てと渾然一体となり、何もかもを失った。



(続く)

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