ユートピア・ユートピア・ユートピア 〜龍に育てられた少年と少女の辿り着く世界

第29話

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　激痛が走って、思わず悲鳴をあげそうになった。

　目をやった先、私自身の左腕から黒い何かが持ち上がり、今度は悲鳴をあげる余裕もない。

　真っ黒い、細かな虫の塊だ。

　右手の剣で斬り払うが、左腕から虫が湧き続ける。炎を直接に押し付けられたような激しい痛みに、ついに悲鳴をあげ、勝手に汗が噴き出す。

　考えている暇はなかった。

　右手で剣を握り直し、震えで切っ先が定まらないのも構わず、自分の左腕に突き立てる。すでに痛みは酷すぎる、そのせいもあってか嫌な手応えがあるだけだった。

　剣で深々と腕をえぐって、真っ黒い部分を切り離した。

　肉の断片が床に落ち、全部が真っ黒い虫に変わり、虫たちは四方八方へ広がっていく。

「死龍はその程度では諦めまい」

　そういったのは目の前にいる人の形をした龍だ。

「あ、あんたがけしかけてるわけ？」

　みっともないくらい声が震えていた。先ほどとは少し違う、しかし変わらない激しい痛みに耐えて、治癒を司る魔術を行使する。左腕の痛みが消えていくが、灼熱は消えない。

　龍は平然と私を見ていた。

　と、彼が腕を振ると、地面で塊を作ろうとしていた虫たちが弾けるように消えた。

「自らの不始末を自らでそそげないのか？　龍の子よ」

「私はこれでも、人の子どもよ」

　強がりだったが、それは龍に対するというより、自分に対する強がりだった。

　私は大丈夫だ、そう言い聞かせるために口にした言葉。

　でも、大丈夫って、何が大丈夫なんだ？

　剣を掴み直し、立ち上がる。失血のせいだろう、少しくらくらと視界が揺れる。明滅もする。

　こんなことでは勝てない。魔力を増幅させ、身体を整えようとする。

　だが、左腕の熱が増し、まるで実際に燃えているようだ。視線を向けると、治癒したはずの場所が再び、黒に染まっていく。

「手間を省くのも、良かろう」

　すっと龍が一歩を踏み出した。

「省けるとも思えぬが」

　その声はすぐ目と鼻の先。

　間合いが消えており、私の腹部を龍の貫手が貫いていた。全身に寒気が走り、手足が震えた。右手が一人でに剣を取り落とし、無意識に自分の体を見下ろす。

　腕が引き抜かれると、内臓が覗いた。龍の腕は真っ赤に染まっている。血だ。私の血だった。

　足に力が入らない。倒れる時も、受身も取れない。まるで体が自分のものじゃなくなったような気がした。

「眠れ、龍の子」

　意識がふっつりと途絶える。

　どこかで何かが鳴いている。これは、龍の鳴き声だろうか。

　遠吠えのように高い音で、何かを求めるような声だ。

　光が瞬き、私は意識を取り戻した。取り戻したが、全身が痛む。全ての神経が暴れまわっているような痛みは、筆舌に尽くしがたい、表現不能なほど激しく、全てに及んでいた。

「落ち着け、落ち着くんだ」

　誰かが私に多い被さっていて、その男性の言葉で、私が暴れていたことに気づいた。必死の思いで、体を抑え込む。しかし痛みのせいで、体を完全には止めておけない。

「傷は塞いだ。落ち着け、落ち着いてくれ」

　白衣の男、医者が繰り返す。答えたくても、歯をくいしばるしかないので、声が出ない。歯が砕けそうなほど噛みしめても、痛みに耐えきれない。

「左腕に、呪いがかかっている。龍の呪いだ」

　医者が慌てた様子でそう言うので、自分で左腕を見ようとした。

　医者が抑えようとしているそれは、真っ黒く染まっていた。

「このままでは、全てが呪いに飲み込まれる。腕を切断するしかない」

　切断する？　腕を？

「文句があるなら、生き残ってから言ってくれ。いいな？　痛みに耐えろ。耐えてくれよ」

　一方的にそういった医者の手には、手斧のようなものがある。

　目を背けることはできなかった。

　医者には不釣り合いな刃物は、勢い良く振り下ろされ、私の左腕は肘の少し上で、切り離された。

　絶叫したと思う。情けなくて、みっともないけど、涙と涎と鼻水を撒き散らして、叫び続け、暴れるしかなかった。

　何かが腕から流れ出し、意識が曖昧になり、ついにもう一度、意識を失った。

　夢を見ていた。

　森の中で、私もオリフも十歳になったばかりで、よくわからない理由、どうでもいい理由で口論しながら、山菜を集めていた。

　オリフがもう帰ろうよと言って足を止めるのに、私はまだ山菜を集めるつもりで、先へ行こうとする。二人の間に距離ができて、私も立ち止まった。

　さっきの場所から動いていないオリフがじっとこちらを見ている。

　私も足を止めたまま、彼を見据えた。

　この後、どうしたんだったっけ？　そんなに昔の話でもない。いや、もう十年が過ぎているんだ。それは長い時間だ。

　長い時間の中で、私たちはあまりに離れてしまった。

　私はいったい、何をしているんだろう？

　世界が白く染まっていって、結局、あの時の私たちがどうなったのかは、思い出せないままになった。

　光が顔に当たっている。目を開くと、知らない天井があり、首を捻ると、真っ白いレースのカーテンを透かして太陽の光が差し込んでいる。

　私はそれをしばらく見てから、気づいた。

　左腕が切断されている。あの医者の姿は、私の妄想でも、空想でもなかった。

　刃物は本当に私の腕を切断したのだ。

　しかしどこかすっきりとして、私の体はほとんど万全に思えた。

　どれくらいの時間が過ぎたのか、部屋のドアが開き、白衣の男性がやってきた。私が目を覚ましているのに気づいて足を止めたが、歩みを再開して近づいてくる。

「どこか具合が悪くはないですか？」

　手術の時の取り乱した様子と違って、物静かな調子だった。あの時の彼は、必死だったんだろう。もしくは怯えていたか。呪われた腕を切り落としたのだ、平静でいる方がおかしいか。

「私の腕は、どうなりましたか？」

「最初にそれを聞くのですね」

「私の腕ですから。焼き払ったのですか？」

　それが、と少し医者が顔をしかめる。

「切断した瞬間、消えました。跡形もなく」

「消えた？」

「まるで存在しなかったように」

　そんなことがあるだろうか。

　じっと医者を見据えても、彼はもう何も言おうとしない。事実を伝えた、と訴えているような面持ちだった。疑う理由はない。彼を疑う理由はないのだ。

　何かが私に作用した。龍だろうか。

「腹部の傷の具合はいかがですか？」

「え？」

　そうか、貫手で穴を開けられたんだった。左腕じゃなくて、あの一撃で死ぬ方が高い確率だったはず。

「お連れの方が、魔術で応急処置をしたので、助かったようなものですよ」

　お連れの方。ホーナーだ。彼もあの建物にいた。

　加勢してもいいようなものなのに、と思ったけど、思い返してみれば、龍と私の戦闘はほんの短い時間だった。私が圧倒されて、倒されただけだ。

　でもあの龍はどこへ行ったんだろう？

「お連れの方をお呼びします。話はできそうですか？」

「ええ」

　私は笑みを浮かべてみせた。

「具合は悪くありません」

　いいでしょう、と医者が頷いて、こちらに背を向けた。

　どこか申し訳なさそうな、何かを詫びているような背中だ。

（続く）