第8話 ③
ものの十秒足らずが、やけに長く感じられた。
気づくと、おれたちは参道の起点らしき場所に出ていた。
結果的に参道を通ってしまったわけだ。
「こっち」
ナナは立ち止まらず、川野の集落のほうへと方向を変えた。
「わかったから、ゆっくり歩こうよ」
ようやくおれの腕に力が戻り、なんとかナナの足を遅らせることができた。
この機会に確認しておかなければならない。
「ナナちゃん」
雑木林から出る直前でナナを立ち止まらせた。
「なあに?」
きょとんとした顔を覗き込むが、傷などはないようだ。小さな手足も無事である。
「よかった」
安堵したおれは、ついでに自分の額を左手でさすってみた。出血はしていない。両腕にも傷などはなかった。
「早く早く」
再びナナのエンジンがかかった。
手を引かれるが、なんとか自分のペースを保つ。
雑木林を抜け、目の前に田んぼが現れた。
日差しを浴びながら、まっすぐ南へと歩く。
それにしても、このまま佳乃の家に行ってどうするのだろう。子供たちがただ者でないのはわかったが、ナナと佳乃のことは、まだ信じている。いや―――信じたいのだ。なんとかしてナナを止めたかった。
「ナナちゃん、もう帰らないか?」
手を引かれながら訊いてみた。
「まーだ、帰らないよっ」
予想どおりの答えだった。
「今日はお兄ちゃんが送っていくからさ。おうちは新興住宅地……ていうか、あの川の下流だよね?」
祖母を巻き込みたくないため、おれ一人でナナを送っていくつもりだ。
「あそこ」
歩きながらナナが前を指差した。
「え?」
「ナナちゃんのおうち」
小さな人差し指が示すのは、川向こうに見える瓦屋根の平屋だった。
「あれはね、お兄ちゃんのばあちゃんのおうちだよ」
「ばあちゃんって、おばあちゃん?」
「そう、おばあちゃんが住んでいるんだよ」
「おばあちゃん、死んじゃったよ」
縁起でもないことを平然と言ってくれた。
「あのね、ナナちゃん……」
「ナナちゃんのおばあちゃん、ずーっとずーっと前に、死んじゃったもん」
「だからね、あのおうちは、お兄ちゃんのばあちゃんが住んでいるんだよ」
「ばあちゃんとおばあちゃんは違うの?」
「違うっていうか……」
「おんなじ?」
「えーと」
こんな問答を続けながらも、ナナは足を止めてくれない。ならば、ナナを引き止めるより、佳乃の家に着いたときの言い訳を考えておいたほうがよいかもしれない。
不意に、ナナが足を止めた。
小さなコンクリート橋まであと五メートル、という位置だった。
手を繫いだままナナがその橋を見つめる。
「うーん」
考え込むようにナナは唸った。
「どうした?」
おれはナナの顔を覗き込もうとしたが、人の気配を感じ、橋に目を向けた。
三、四歳の一人の少女が橋の上に立っていた。下流側の流れを見下ろしている。どう見ても、その少女はナナだった。
おれは、自分と手を繫いでいる少女を見た。こちらもナナである。同じ顔、同じ髪型、同じ服、同じポシェット――まったく同じナナが、おれの隣と橋の上との二カ所にいるのだ。
ナナの手の感触はおれに伝わっている。こちらのナナはおれの知っているこれまでのナナに違いない。そう信じたかった。ならば、橋の上にいるもう一人のナナは誰なのか。
声を出せなかった。首から下の自由が利かず、身動きが取れない。自由なのは両目の動きと呼吸だけだ。先ほどと同じく、力の入らない状態がおれの全身を支配していた。
ふと、もう一人のナナが顔を上げた。橋の向こうを見たり、上流を見たり、こちらを見たり――。
しかしそのナナは、こちらに気づかなかったようだ。目の前であるにもかかわらず、まったく見えていないかのごとくおれたちを無視したのである。そして彼女は、もう一度、橋の向こうを見た。
橋の向こうから、一人の女が歩いてきた。ウェーブのかかったセミロングヘアと、白いブラウスに紺色のスカート。決して派手ではなく、清楚な出で立ちだ。
おれは瞠目した。髪型こそ違うが、その顔は間違いなく佳乃だった。体型も三島さゆりより細めであり、佳乃としか思えない。
やはり同じようにおれたちを無視した佳乃が、橋の上で足を止めた。そしてもう一人のナナを見下ろし、口を動かす。話しているのだろうが、声は聞こえない。
「何をしているの……って、あの女の人はナナちゃんに訊いたんだよ」
こちらのナナが言った。
しかし、おれは一言も返せない。
もう一人のナナが、佳乃に何かを伝えていた。
「ナナちゃんはこう言ったんだよ」おれの隣で解説が続く。「お兄ちゃんが帰ってくるから、待っているんだよ……って。そうしたら、女の人はこう言ったんだよ。じゃあ、お姉ちゃんと一緒にお魚でも見ていようか……って」
佳乃がもう一人のナナの肩に左手を回し、下流側の流れを指差した。誘われるまま、もう一人のナナは橋の下を覗き込む。
いけない――そう思ったが、おれの口は開かなかった。
佳乃がもう一人のナナを川に突き落とした。
水しぶきが上がった。
音は、ない。
水面から突き出た二本の小さな手が、激しくもがいた。
この川は最も深いところで大人の胸ほどはある、と思い出したおれは、助けに行こうとした。しかし、体がまったく動かない。
もがく両手が下流へと流されていった。音もなく、ゆっくりと――。
やがて両手が水中に沈み、小さな後頭部が水面に浮き上がった。短い黒髪を水面に広げたその後頭部が、静かに流れていく。
佳乃は橋の上で笑っていた。声は聞こえないが、へらへらとした笑い方だった。笑いながら、流れていくナナを見送っているのだ。
ふと、佳乃がこちらに顔を向けた。笑顔がみるみるうちに怒りの表情に変わる。閉ざされた口はへの字に歪み、眉間にしわを寄せ、大きく目が見開かれた。
おれは卒倒しそうになるが、硬直した体がそれを許してくれない。
「あーあ、ナナちゃん、死んじゃったねえ」
おれの隣でナナが言った。
佳乃の姿が消え失せていた。目だけを動かして下流を見るが、もう一人のナナの姿もない。
認めたくないことはいくらでもあった。しかし、ナナのあんな最後など、これほど認めたくない光景はない。
幻覚なのだ。幻覚に違いない。
現におれの右手を握るナナの手は温かい。この温かさは事実だ。ナナは死んではいない、という証しである。
「なんで?」
ナナが訊いた。
「え――」
おれの口から声が漏れた。首から下の感覚が戻っている。
「なんでお兄ちゃんはナナちゃんが生きていると思うの?」
問われたが、答えられなかった。やっと声が出せたのに、言葉を見つけられない。そればかりか、感覚が戻ったにもかかわらず、ナナを見下ろすことさえ躊躇してしまう。
「あのね、お兄ちゃん。ナナちゃんは、お洋服も靴も、いつもおんなじなんだよっ」
彼女の言葉がおれの心臓を貫いた。確かにナナの出で立ちは、初めて会ったときから何も変わっていない。
「ナナちゃんはね」背後でエリの声がした。「あのときに時間が止まっちゃったの」
しかしナナばかりではない。四人の子供たちの服も、いつも同じだった。
「おれたちは」カズマの声が、やはり背後から聞こえた。「あの女がやっているような、服とか身の回りのものとかの幻を作り出す、なんていうことができないんだよ」
ならば四人の着ている服は実物ということなのだろうか。だからどうしたというのだろう。意味がわからない。それを考えようとする気持ちさえ、まったく湧いてこない。
「お兄ちゃん、行こう」
ナナがおれの手を引いた。
おれはナナとともに歩き出した。
振り向くが、誰もいなかった。
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