第3話 ①

 蒸し暑さで目を覚ました。

 遠くに聞こえるのはクマゼミの鳴き声だ。

 朝なのだろう。北側の窓が明るかった。

 廊下側の欄間も光を通している。ということは、雨戸はすでに開け放たれているのだ。

 とっさに半身を起こした。

 祖母の家だった。おれの部屋である。

 おれはTシャツにトランクスという姿で、何もかけずに布団の上にいた。

 目覚まし時計を見ると午前七時十七分だった。

 まさかと思い、左右の手のひらを見るが、べたついてはおらず、汚れてもいない。部屋の隅まで両手両膝で這い進み、たたまれてあるジーンズも調べてみるが、やはり異常は見当たらなかった。リュックの外ポケットには財布が差し込んである。すべてがゆうべの消灯前の状態だった。

 いても立ってもいられなかった。ジーンズを穿いたおれは財布を右後ろポケットに入れると、布団をたたみもせず、すぐに部屋を出た。

 まな板を叩く音が聞こえる。

 台所へ行くと、祖母が朝食の支度をしていた。その背中におれは声をかける。

「ばあちゃん、おはよう」

「あら、おはよう。今朝は遅かったねえ」

 まな板の上の大根を切りながら、振り向きもせずに祖母は返した。

「あのさ……ゆうべ、何か変わったこととか、なかった?」

 おれは尋ねた。

「変わったこと? 特に何もなかったけど、天気予報が外れたことくらいかな」

 手を休めずに、祖母は背中で答えた。

「そうだったね」

 相槌を打つしかなかった。雨が降らなかったのは事実らしい。

「どうしたんだい?」

 祖母は問い返した。

 包丁のリズムは変わらない。

「別に」と答えたが、内心では落ち着いていられなかった。「ばあちゃん、おれ、ちょっと散歩に行ってくる」

「もうすぐ朝ご飯なんだよ」

「なんだかね、食欲がないんだ。おれ、朝飯はキャンセルするよ」

 食欲などあるわけがなかった。ゆうべの事件が現実でも夢でも、佳乃との約束を反故にしたことには違いない。

「夏ばてかい? しょうがないねえ」

 包丁のリズムと同様、祖母の口調も淡々としていた。

「じゃあ、ちょっと行ってくる」

 祖母の態度が腑に落ちないものの、おれはすぐに玄関へと向かった。

 デッキシューズは下駄箱の中段にあった。定位置である。左右とも取り出したが、下駄箱にへばりつくことはなく、靴底を見ても特に変わった様子はない。

 やはり、あれは夢だったのだ。ならば佳乃に言い訳などできない。ひたすら謝罪する以外にないだろう。

 おれはデッキシューズを履いて玄関を飛び出した。


 朝日を正面に浴びて、おれは走った。今日の佳乃は日勤のはずである。急がなければ間に合わない。

 トウモロコシ畑の手前から左の砂利道へと進み、二股を右に折れると、すぐに例の場所へと差しかかった。夢の中で散々な目に遭わされた現場である。無論、粘着性を有する白い何かなど、どこにも見当たらない。

 止まることなくその場を走り抜け、佳乃の家の前に辿り着く。

 庭の駐車スペースに停まっていたパステルピンクの軽自動車が、動き出したところだった。

「佳乃さん!」

 おれは軽自動車の前に立ちはだかった。

 軽自動車が動きを止め、運転席のドアガラスが下がる。

「わたし、今から仕事なんです」

 困惑の表情で佳乃が言った。

 おれは運転席のドアの横に移動し、腰を屈めて車内を覗いた。佳乃はブラウスにスキニージーンズという出で立ちだった。髪がひっつめてあるのは仕事の備えなのだろう。

「佳乃さん、ゆうべはすみませんでした。おれ、寝込んでしまったみたいで。あの……本当にごめんなさい」

「貴也さん」佳乃はおれを見た。「わたしたち、しばらく会わないでいましょう」

「え――」

 絶句した。それほどまでに彼女を失望させてしまったのだろうか。

「おばあ様から聞いています。貴也さんは一カ月は滞在する、って。なら、まだ時間はあります。あと一週間は会わないでいましょう」

 一週間も会えないとは、手厳しい宣告である。

「わざと寝ていたわけじゃないんです。佳乃さんの家に来たかったんです。それなのに、気づいたら朝になっていて……信じてください」

 言い訳などするつもりはなかったのに、気づけば必死に訴えていた。

「わかっています。貴也さんを信じている」

 毅然とした物言いだった。

 しかし、おれは佳乃の心が読めない。

「じゃあ、どうして……」

「貴也さんを信じているから、一週間だけ時間をください」

 そうまで押し通されると異議は唱えられなかった。

「一週間、ですね」

 おれは頷き、軽自動車から一歩、下がった。

「貴也さん、ごめんなさい」

 ドアガラスが上がり、二人の間の空気が遮断された。

 軽自動車がゆっくりと動き出す。

「行ってらっしゃい」

 見送りの言葉に力が入らなかった。あまりにも小さなその声は佳乃に届かなかったに違いない。

 軽自動車は祖母の家の反対方向へと出ていった。そちら側も砂利道であるが、幅はいくぶん広くなっている。おれの記憶どおりなら、三百メートルほど行けば県道に出られるはずだ。

 パステルピンクの車体が雑木林の陰に入ると、おれはため息をついた。

「情けない」

 自分を謗り、立ち尽くした。

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