第3話 ②
どうしても祖母の家に戻れなかった。塞ぎ込んでいるこんな自分を見られたくなかったのだ。
二股まで戻ったおれは、小さなコンクリート橋のほうへと進んだ。散歩に出かける、と祖母に告げたが、そのとおりにするしかないだろう。
橋を渡りかけたときだった。
子供たちの甲高い声と犬の吠え声が聞こえてきた。
おれは橋の中央で足を止め、辺りを見渡す。
橋よりも上流の方向、川沿いの道を、例の子供たちがこちらへと走ってくるところだった。オレンジ色のポーチを袈裟懸けにしているナナという少女もいる。そして、その五人の子供たちを一匹の犬が追いかけているではないか。
犬は雑種で、柴犬ほどの大きさだった。何か気に入らないことでもあったのか、盛んに吠え立てている。
どうやら子供たちは、その犬から本気で逃げているらしい。
だが、エリという少女が転倒してしまった。サイドテールの少女だ。
ほかの子供たちは一瞬遅れて立ち止まり、振り向いてエリを見た。
犬もエリの手前で足を止めるが、吠えるのをやめるどころか、今にも飛びかからんとしている。
恐怖で固まっているのか、エリは半身を起こしつつも、なかなか立ち上がらない。
スポーツ刈りの少年が小枝を拾い、犬の正面に立ちはだかった。
「あっちへ行け!」
叫びながら、スポーツ刈りの少年は小枝を振り回した。長さが三十センチ程度の細い小枝なのだ。それを振り回したところでどうにもならないだろう。
おれは走り出していた。自分の痛みを癒やそうとするだけで精いっぱいであり、他人に構っている余裕などない。まして、いたずらを繰り返している子供たちなのだ。それなのに、ほうってはおけなかった。
たった三十メートルの距離が数百メートルにも感じられた。案の定、おれが到着するよりわずかに早く、スポーツ刈りの少年が振り回していた小枝に犬が嚙みついた。
低い唸りを立てつつ、犬がぐいぐいと小枝を引っ張る。
「その枝から手を離すんだ!」
おれは少年に向かって叫ぶとともに、犬の下顎を蹴り上げた。
小枝が宙を舞い、川に落ちる。
悲鳴のような鳴き声を上げて転がった犬が、すぐに起き上がった。そして、弱々しい鼻声を漏らしながら上流のほうへと逃げていく。野犬なのか、首輪はつけていなかった。
犬が家並みの陰に姿を消すと、おれは振り向き、立てないでいるエリの傍らにしゃがんだ。
「怪我はないか?」
おれが尋ねるとエリは頷いた。
「うん。どこも痛くない」
エリの答えどおり、膝にも手のひらにも傷はなかった。道ばたの草むらに倒れたのが幸いしたらしい。
「エリ、立てるか?」
スポーツ刈りの少年がエリに声をかけた。
「立てる」
答えたエリは、おもむろに立ち上がった。
不安げにエリを見ていた子供たちが、安堵の表情を浮かべた。
おれも立ち上がるが、素直には喜べず、子供たち一人一人の顔を見た。
「おまえらさ」そして最後に、スポーツ刈りの少年を睨む。「あの犬に何かしたんじゃないのか?」
「おれたち、なんにもしていないよ」
スポーツ刈りの少年はおずおずと答えた。
「うん、本当だよ。なあ」
太りぎみの少年が、やせぎすの少年を見た。
「そうだよ。何もしていないよ」
やせぎすの少年が頷いた。
「あっちに大きな橋があって」エリが川野の中心を指差した。「あたしたちはそこで遊んでいたの」
民家の密集している辺りには、確かに、大きめのコンクリート橋があったはずだ。
エリは手を下ろしておれを見た。
「カズくんとモリくんとキヨくんは、田んぼで鬼ごっこをしていたんだけど、あたしとナナちゃんは橋を渡って、その橋の近くにある花壇を見ていたの。きれいな花が咲いていたから、二人で……」
懸命に説明しているエリの隣に、ナナが並んだ。そしてナナは、エリの手を握った。
「ナナちゃんね」ナナもおれを見た。「エリちゃんとお花を見ていたんだよっ。そうしたらね、あのわんちゃんがね、わんわん、って吠えながら追いかけてきたの。きっとね、エリちゃんとナナちゃんにお花を持っていかれると思ったんだよっ」
うそや偽りはない、と感じた。これ以上の詮索は必要ないだろう。
「わかった。疑って悪かった」
おれが詫びると、スポーツ刈りの少年が、蔑視するような目をおれに向けた。
「女の子の言うことは信じるのかあ」
「だから、悪かった、って言っているじゃん」
またしても、子供相手にむきになってしまった。
しかしスポーツ刈りの少年は、満面に笑みをたたえる。
「とにかく、兄ちゃんのおかげで助かったんだよな。兄ちゃん、ありがとう。それから、おれたちも悪かったよ、石なんか投げてさ」
思わぬ言葉を耳にし、おれは目を丸くした。
「ああ……まあ、いいさ」
「あたしも助けてもらっちゃった。ありがとう、お兄ちゃん。かっこよかったね」
エリがはにかみながら言った。
気温が上がってきているのは事実だが、それ以上に暑く感じてしまう。
「あー」スポーツ刈りの少年が横目でエリを睨んだ。「おれだって、かなり頑張ったんだけどなあ」
「カズくんもかっこよかったよ。ありがとう」
エリの一言で満足したらしく、スポーツ刈りの少年はすぐに笑顔を取り戻した。
太りぎみの少年とやせぎすの少年も満足そうだ。
ナナもにこにこと笑っていた。
スポーツ刈りの少年はカズマ、太りぎみの少年はモリオ、やせぎすの少年はキヨシ、というらしい。少女たちの名前はエリとナナで間違いないようだ。もっとも、五人の名前をそれぞれどう表記するのかは、聞いていない。
名前以外でわかったのは、ナナ以外の四人が小学四年生ということだけだった。
簡単な自己紹介を済ませたところでおれたちは別れた。
北の雑木林へと入っていく子供たちを見送ったおれは、小さなコンクリート橋を渡って祖母の家に向かった。散歩を続行してもよかったのだが、子供たちとの交流によって多少は気が紛れたせいか、空腹を覚えたのだ。祖母は朝食を済ませているかもしれないが、残り物でもあれば口にしたかった。
祖母の家に戻ると、開け放たれている玄関の前に、祖母と五十がらみの男が立っていた。
男は灰色の夏用作業服を着ているが、足元を見れば長靴だった。電気工事士、というよりは近所の農家の人だろう。
おれは目を合わせないようにして男に会釈した。
「貴也」
玄関に入ろうとしたおれに、祖母の険のある声がかけられた。
「何?」
立ち止まって祖母を見る。
「何、じゃないよ。あんた、小杉さんちのマルを蹴ったでしょう?」
「マル?」
小杉という姓は、祖母が親しくしている近所の世帯として聞いているが、マルというのは何を意味するのか、わからなかった。蹴ったとすれば先ほどの野犬だけだ。まさか、と思いつつ、おれは男に顔を向ける。
「貴也ちゃん、おれはちゃんと見ていたんだからね」
忌々しげな目つきでおれを見る男は、どうやら怒りを押し殺しているらしい。男は禿頭であり、背は低くて小太りだ。
「この人が小杉さんだよ」
憤懣やるかたないといった表情で祖母は男を紹介した。
小杉はおれを「貴也ちゃん」となれなれしく呼んだが、面識があるのか否か、記憶にない。
「マル……って、犬ですよね?」
小杉という男におれは問うた。
「認めるんだね、貴也ちゃん」
小杉は呆れ顔だった。
「ですが、あの犬……マルは、子供たちを襲おうとしたんですよ。だから、子供たちを守るために蹴ったんです」
事実を伝えた。こちらが畏縮する必要はない。
小杉が顔を赤くした。
「そうかそうか、なるほどね。貴也ちゃんは、あんないたずら小僧どもを助けるために、うちのマルを殺したわけだ」
「殺した? マルは死んだんですか?」
さすがに怯んでしまった。
小杉は頷く。
「ああ、そうさ。おれはうちの裏でずっと見ていたんだからな。貴也ちゃんに蹴られたマルは、うちの庭に駆け込んでくるなり、ばったりと倒れてしまったんだよ。見たら、血を吐いていて、すぐに死んじまったじゃないか」
「それは、申し訳ありませんでした」頭を下げたが、主張を曲げたのではない。「マルには可愛そうなことをしましたが、小杉さんのせいでもあるんですよ」
「貴也、なんてことを言うの!」
焦燥の色を浮かべる祖母を無視して、おれは小杉に詰め寄った。
「マルは首輪をつけていませんでした。あんなんでは野犬と見なされても仕方がありません。それに、放し飼いにされていた飼い犬が人を襲った……そう警察に通報されたらどうなるか、想像できますよね? 飼い犬が人を嚙んだりしたら、相手がいたずら小僧だろうがなんだろうが、言い訳なんてできませんよ」
これほど強く自分の意見を主張したのは久しぶりだ。高ぶる気持ちを抑えつつ、おれは小杉から目を離さなかった。
一方の小杉はおれから目を逸らし、気まずそうに口元を歪める。
「貴也ったら」祖母が割って入った。「警察に通報だなんて、滅多なことを言うもんじゃないよ。あんただって、よそのうちの飼い犬を殺してしまったんだからね」
だが、おれが聞きたいのは小杉の答えだ。
「ま、犬の飼い方にも問題があったわけだ」小杉は言った。「というか、貴也ちゃんは佳乃ちゃんと仲がいいみたいだし、今回は穏便に済ませよう。そんじゃ、お互い様ということでな、おばちゃん」
何も佳乃の名前を出す必要はないだろう。それに、納得のいく弁ではなかった。謝罪が一言も入っていない。
おれがこらえて黙っていると、小杉は祖母の肩を軽く叩いて背中を向けた。
「本当にすまなかったねえ」
道を西へと歩いていく小杉に向かって、祖母は深々と頭を下げた。
「こっちが謝るなんて変だよ」
小杉の背中が見えなくなったのを確認してから、おれは言った。
祖母がおれを睨む。
「いい加減にしなさい。小杉さんのお宅にはいつもお世話になっているんだよ。なのに貴也は、その小杉さんちのマルを蹴り殺したりして。どんな理由があったって、謝らなくちゃいけないんだよ」
祖母の言葉にも一理あるのかもしれない。いや、むしろ、祖母の主張のほうが正しいのだろう。とはいえ、素直になれなかった。
おれは黙し、祖母に背中を向けて玄関に入った。
自室に直行するなり、思いきり襖を閉めた。そしてエアコンの電源を入れ、設定温度を十八度まで下げた。押し入れに布団を片づけたところで、ようやく気分が落ち着く。ため息をつき、畳の上で仰向けになった。
こんなときにスマートフォンが使えないのは痛かった。友人たちとのLINEは頻繁ではないし、ゲームに熱中しているわけでもない。だが、動画サイトの閲覧だけはしたかった。気晴らしにテレビ、とも思ったが、祖母と二人きりで過ごすなど今は無理である。
「貴也、ご飯は食べないのかい?」
廊下で祖母の声がした。あんな悶着があったにもかかわらず、おれを気遣ってくれているのだろう。
とはいえ、食卓につく気分ではない。
「いらない」
意固地になって答えたが、腹の虫は鳴りそうだった。
「そうかい」
祖母は諦めたらしい。
祖母に対する申し訳なさと、自分自身の情けなさとが、頭の中で渦巻いていた。マルを蹴り殺してしまったこと、就活の失敗、両親の不和、郁美との別離――その渦の中心に佳乃の悲しそうな顔があった。
「どうして、こうなるんだよ」
側臥位になり、両腕で頭を抱えた。強く目を閉じ、ネガティブな感情のすべてを払拭しようとする。だが、意識すればするほど、つらい影はしつこくまとわりついた。
どれほど目を閉じていただろうか。
ふと、あの子供たちの笑顔が浮かんだ。
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