第3話 ③
癒やしのために祖母の家に来たのだ。理不尽な目に遭うなど筋違いである。嫌なことがあれば逃げてよいではないか。
洗顔や歯磨き、ひげ剃りを済ませたおれは、居間でテレビを見ている祖母には声をかけず、玄関を出て東へと足を向けた。猛暑とクマゼミの鳴き声がおれの歩みを阻もうとしている。しかし、おれは逃げなくてはならない。
佳乃の家のほうを意識しつつ、砂利道の二股を左へと折れた。コンクリート橋を渡って田んぼの中の道を北へと進む。
バッタらしき虫が一匹、道の中央から右の田んぼの中へと大きく跳ねた。左の田んぼでは二羽のシラサギが何やら餌をついばんでいる。
そんな田んぼを見渡すが、子供たちの姿はなかった。とはいえ、おれと別れてすぐに北の雑木林へと入っていったのは、確かだ。
道なりに雑木林へと足を踏み入れた。遠くでクマゼミが鳴いているが、雑木林の中は静寂に包まれている。ここにも子供たちの気配はない。
歩いているうちに、あの子供たちを逃げ場所にしようとしている自分が滑稽に思えてきた。しかし今は、どんな大人よりもあの子供たちの無邪気さに頼りがいを感じてしまう。
ほどなくして、鳥居の見える場所に差しかかった。
足を止め、左の藪の奥を覗く。
昨日と変わらず、鳥居はそこに立っていた。その赤い色が木々の間で異様なほど浮いて見える。目を凝らすが神額は確認できない。
鳥居は正面、もしくは背面をこちらに向けていた。おれの立っている位置と鳥居との間に、手前と奥という向きはどうであれ、参道が存在していた可能性はあるだろう。鳥居のこちら側の一帯が境内である、という可能性も否めないが、藪の中には社殿も祠も窺えなかった。おれの周辺にもそれらしきものは見当たらず、過去に存在していた痕跡さえない。
ならば、おれが立っているこの位置は、参道の起点か、もしくは参道の途中なのかもしれない。つまり、鎮守を祀っている施設が、あの鳥居の先にある――と仮定できるわけだ。
魅せられてしまったのだろうか。なぜか、あの鳥居が気になってしまう。いや、鳥居そのものより、鳥居の先に何があるのか、それが知りたいのだ。
今度こそはこの藪に入ってみよう――と心を動かされるが、落ち込んでいるこのタイミングで怪我をするのはあまりにも惨めである。それこそ立ち直れなくなるだろう。
躊躇していると、右横に気配を感じた。
目を向けたおれは、飛び上がりそうになった。ナナがおれに寄り添うように立っているではないか。
「ナナちゃん」
「えへへへ」
ナナは笑っていた。ポーチのオレンジ色が鳥居の色よりも目を引く。
「ナナちゃん、一人なの?」
ほかの子供たちが見当たらず、おれは不審に思った。
「お兄ちゃん、一人で遊んでいたの?」
おれの問いは無視された。
平静を装う必要はなかった。ナナにはおれの驚愕が伝わっていないらしい。
「遊んでいたというか、お散歩だよ」
「一人でお散歩なの?」
ナナの問いが続いた。
「一緒にお散歩してくれる友達がいないから、一人でお散歩しているんだよ」
答えてから、言葉の選択を間違えたと気づいた。ほぼ事実のようなものだが、自分自身を貶める必要はなかったはずだ。
「お兄ちゃんにはお友達がいないの? 独りぼっちなの?」
ナナに悪気はないはずである。無邪気なのだ。それだけに、おれの心はずたずたに引き裂かれた。
「友達がいないわけじゃないけど、まあ……独りぼっちだね」
屈辱をこらえた。なんとか笑みを作ろうとするが、頬が引きつってしまう。
「じゃあ、ナナちゃんが一緒に遊んであげる」
ナナはそう言うと、右手をおれに差し出した。
「え?」
「手を繫ぐのっ」
ナナの右手がぐいと突き出された。
「ああ……そうか」
おれはナナの右手を握った。その手がやけに温かい。幼い子は皆、こうなのだろうか。
「それにしても」おれは周囲を見回した。「ナナちゃんはこんなところに一人でいて、怖くないのかい?」
小杉家のマルの事件があったばかりなのだ。もしナナが猪や野犬に襲われでもしたら、と考えただけで背筋が寒くなる。
「怖くないよっ。ナナちゃん、強いもん」
そんな元気な答えがおれの不安を煽った。
「でもねナナちゃん、とっても怖い動物が、この林の中にいるかもしれないんだよ」
「とっても怖い動物、見てみたいなっ」
ナナは道の先に顔を向けた。
警告したつもりだったが、かえって好奇心に火をつけてしまったらしい。
「まずいな」と漏らすそばから、おれはナナに手を引かれた。
「お兄ちゃん、あっちへ行ってみようよっ」
「わかったけど、ちょっとだけだよ」
抗えず、おれはナナとともに雑木林の中の道をさらに先へと向かう。
絶対に危険なシチュエーションだ。不審者が幼女を誘拐する図――いや、不審者が幼女に連れ回されている図である。
「ねえねえ何して遊ぶ?」歩きながら、ナナはおれを見上げた。「かくれんぼ? おままごと? あっちみーてふい?」
「あっちみーてふい……じゃなくて、あっち向いてホイだよ」
「じゃあ、かくれんぼにしようか?」
「あのね」
歩きながら脱力した。ナナに合わせるのは困難である。
「あれえ……お兄ちゃんは、かくれんぼって知らないの?」
「知っているけど――」
「じゃあ」ナナはおれの言葉を遮って続けた。「ナナちゃんがお姉さんで、お兄ちゃんが弟ね」
「おれが弟? お兄ちゃんなのに……ていうか、ままごとかよ」
目眩を感じた。
「お兄ちゃん、おままごと大好き?」
「大好き……だったかもしれないし……」話を逸らしても罪にはならないだろう。「ねえ、ナナちゃん。カズマやエリ……みんなと一緒に遊ぼうよ。みんなで遊んだほうが楽しいと思うよ」
最初からそう提案すればよかったのだ。
しかし、ナナの顔がにわかに曇る。
「お兄ちゃんはナナちゃんと二人だけじゃ嫌なの?」
突然のしょげ込みに焦慮した。
「そんなことはないよ。みんなで遊んだほうが、ナナちゃんがもっと楽しくなるかな、って思ったんだよ」
へたな言い繕いだったが、ナナの顔は一瞬で明るくなった。
「ねえ、お兄ちゃん。ナナちゃんね、とってもいいことを考えたよ。とってもいいことってね、みんなで遊ぶことだよ」
「だよね。ナナちゃんの考えに賛成」
うんざりとしたが、ナナの手の温かさは依然として心地よかった。真夏であるにもかかわらず、伝わってくる体温が気にならない。というより、凍てついていた心を温めてくれるような気がした。ふと、バス停での体験を想起するが、あの白い何かの生温かさとは違うはずだ。もっとも、あの体験は幻覚である。関連づけるのはナンセンスだろう。
「けどさ、カズマたちはどこにいるんだい? この林の中にいるんだよね?」
再度、周囲に目を走らせるが、子供たちの姿は確認できなかった。おれを驚かせようとして近くに潜んでいるのではないか、などと勘ぐってしまう。
「みんなね、学校にいるのっ」とナナは声を弾ませた。
「学校? 学校は休みだよ。……ああ、登校日か。でも、夏休みに入って一週間も経っていないのに、登校日なんてあるのかなあ? あってもおかしくないけど」
自問自答しているおれを、ナナは見上げている。
「あのね、学校は夏休みなんだよ」
「そうだね」
笑って頷いた。こうなったら捨て鉢である。
「学校がお休みだから」ナナは言った。「学校にいるけど、お勉強なんてやらないで、みんなで遊んでいるの」
「へえ。それって、先生やほかの子供たちも一緒なのかい?」
「エリちゃんとカズくんとモリくんとキヨくんとエリちゃんと……あれえ、今、何人言ったかなあ?」
「ちゃんと四人、言ったよ」
「じゃあ、四人だけ。先生はいないんだよっ」
「そうなんだ」
要するに、学校の敷地内に入り込んで遊んでいるのだろう。
「学校ってこの近くなの?」
「あっち」
道の先を左手で指差したナナが、歩調を早めた。
「ナナちゃん、急がなくていいよ」
手を引かれながら訴えた。
「早く、早く、早く、早く、早くったら早く」
ナナはリズムを取って口ずさんだ。
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