第2話 ④

 午後十一時を過ぎていた。

 布団の上で仰向けになっていたおれは何度も眠気を催してしまった。Tシャツにトランクスという姿でリラックスしていることがそもそも間違いなのだろう。

 祖母の就寝時間に合わせておれも自室の照明を落としたが、あれから三十分は経っている。よい頃合いかもしれない。

 そそくさと起き上がり、エアコンの電源を切った。布団はそのままにし、ジーンズを穿く。必要はないだろうが、念のため、財布をジーンズの右後ろポケットに入れた。そして、枕の下に隠しておいた小型懐中電灯を左後ろポケットに差し込む。

 照明をつけずに部屋を出た。そっと襖を閉じ、忍び足で祖母の部屋の前まで進む。襖越しに静かな寝息が聞こえた。安堵してきびすを返し、玄関へと向かった。

 デッキシューズを履く手間がもどかしいほど、胸が高鳴っていた。郁美と過ごした夜など青臭く感じてしまう。もう、あの過去に未練はない。

 玄関を出たおれは合い鍵で施錠し、夜道へと歩み出た。二、三十メートル間隔に立つ電柱に街灯が設置されているが、都会の夜とは比較にならないほど闇が深かい。そのためか、おれの自宅の近辺では見られない星空が、ここにはあった。天気予報が外れたからこその星空である。

 街灯の明かりだけでも道はたどれるが、大事を取り、左後ろポケットから小型懐中電灯を取り出した。全長は十五センチ弱で直径はほぼ三センチ、といった円筒形のこの懐中電灯は、今朝、梯子を片づけていたときに物置で見つけたものだ。天井裏を調べるときに使った懐中電灯は祖母の部屋に置いてあるため、持ち出すわけにはいかなかった。物置にあった小型懐中電灯を使わせてもらおう、と思い立ったのは夕食のあとだ。おれは一番風呂を済ませるなり、続いて風呂に入った祖母に気づかれぬよう、こっそり物置からこれを拝借したのだ。

 性能など期待せずに懐中電灯のスイッチを入れた。しかし、予想は裏切られた。照明をつけたままの自室で試験点灯をしたときは気づかなかったが、天井裏を調べたときに使った懐中電灯よりこちらのほうが明るいではないか。

 湿気を含んだ生ぬるい空気が素肌にねっとりとまとわりついた。この湿気を歓迎しているのか、田んぼのほうでは蛙が大合唱を響かせている。

 どの街灯にも虫が群がっていた。蚊なのか蠅なのか姿形が見分けられない小さな虫から、一目でわかる大きな蛾まで、狂ったように飛び回っている。

 不意に、何かが頬をかすめた。遠ざかっていく羽音を見上げると、やはり大きめの蛾だった。昆虫マニアを卒業して久しいおれは、この蒸し暑さの中で総毛立ってしまう。

 蛙の鳴き声だけでなく、虫の鳴き声も聞こえてきた。それらが織り成すハーモニーは幻想的であるが、おれの足音だけは妙に現実感があった。

 砂利道に入ると街灯が遠くなってしまった。この小さな懐中電灯がいっそう頼もしく感じられる。

 二股を右に折れたときには、おれの歩調は上がっていた。おれの全身全霊が佳乃を欲しているのだ。佳乃を奪えるのなら、なんでも捨てよう。佳乃さえいてくれるのなら、何もいらない。

 木立の間隙に明かりが見えた。佳乃の家から漏れる皓々とした明かりだ。

 あの家の中で佳乃が待っている。

 感極まり、おれは走り出そうとした――が。

「わっ!」と声を上げてしまった。

 両足が地面にへばりついているのだ。前のめりになるが、なんとか踏ん張って体勢を維持した。

 懐中電灯で足元を照らしたおれは、息を吞んだ。おれを中心としたおよそ三メートル四方の地面に白い何かが広がっている。

「なんだよこれ」

 形容するには規模が違いすぎるが、まるで、嚙んだあとのガムのようだ。少なくとも、おれが踏んでいる何かは粘着性を有するらしい。

 とにかく、このままでは埒が明かない。

 左足だけを上げてみることにした。しかし、白い何かが有する粘着力は強かった。左足は一センチばかり浮いたものの、それ以上はまったく上がらない。右足でも試してみるが、結果は同じだった。

 もがきながら、さらなる不可解な事実に気づいた。これが単なる巨大なガムならば地面の砂利ごと浮くはずだ。白い何かの下にあるのはコンクリートやアスファルトではないのだから。

 ふと、既視感を覚えた。この白い何かは、バス停での幻覚に現れた何かにそっくりではないか。

 もう一度、懐中電灯の照明を足元に下ろした。白い何かは、鈍いつやをてかてかと放っている。厚みは一センチもないだろう。よく見ると、無数の白い繊維が縦横無尽に絡み合っていた。

 どういった物質なのかますますわからなくなってしまったが、それを詮索するより、現状から脱出する手立てを考えなくてはならない。

 妙案はすぐに浮かんだ。デッキシューズから引き抜いた両足をそれぞれのデッキシューズの上に載せ、立ち幅跳びで白い何かの外側に出るのだ。

 意を決し、照明がついている懐中電灯を口にくわえた。まずは身を屈めてジーンズの左右の裾を膝の下までまくり上げる。そして、右手で右のデッキシューズの甲を押さえながら、おもむろに右足を引き抜く。デッキシューズから抜いた右足はそのデッキシューズの上に置いた。続いて左側も同様に施す。靴下を穿いていないため、これで左右とも裸足の状態となったわけだ。着地の瞬間が痛いだろうという懸念は、この際、頭の隅に押しやっておく。

 見れば、粘着物が双方のデッキシューズの上に回り込みそうだった。所作には慎重さが要求される。そろそろと腰を上げ、懐中電灯を右手に持った。

 準備は整った。たかだか一メートル半の跳躍である。自信はあった。

「むんっ」と気合いを入れて前に跳ねようとしたが、デッキシューズは、踏み切り地点としては思いのほか不安定だった。ほんの一瞬、及び腰になる。そして直後に、派手に尻餅を突いてしまった。

 地面に突いた両手のひらがまったく上がらなかった。しかも、生温かさを感じる。

 見れば、両手のひらと尻とが、白い何かにへばりついていた。両足は宙に浮いているものの、これではなんの役にも立たない。

 デッキシューズの近くに落ちている懐中電灯も、白い何かにめり込んでいた。まばゆい光が、情けない姿のおれに向けられている。

 単独では切り抜けられない窮地だが、大声を上げれば佳乃に気づいてもらえるかもしれない。もっとも、そのやり方では佳乃以外の誰かを呼び寄せてしまう可能性もある。佳乃の立場を考えれば、おれと佳乃が逢瀬を企てていたことは、祖母ならまだしも、ほかの住民たちに知られるわけにはいかない。

 助けを求めるか否か、考えあぐんでいたとき。

 両手のひらと尻とが異変を察知した。粘着性を有する白い何かが、まるで生きているかのごとく波打っているのだ。

 間違いなくこの粘着物は、バス停での幻覚に現れたものと同じだ。

 ならば今のこの状況も、幻覚か、もしくは夢ではないのか。嚙んだあとのガムのようでありながら無数の繊維で構成されているこの白い何かは、おれの妄想の産物なのだ。だいたい、こんなものが勝手に動くはずがない。

 突然、右の茂みが揺れた。

 風は吹いていない。

 幻覚か夢なのだ、と自分自身に言い聞かせておきながら、おれはすくみ上がってしまう。

 草を揺らす音を耳にし、右の茂みを注視した。何かが背の高い雑草を小刻みに揺らしながら、ゆっくりと近づいてくる。

 両足を宙にほうり出した体勢で、固唾を吞んだ。

 何かが茂みの中から夜空に飛び上がった。佳乃の家から届くわずかな明かりが、飛び上がった何かを――獣のようなその姿を、束の間、浮かばせる。

 そしてそれは、身動きの取れないおれの上に落ちた。

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