第2話 ③
昼食を取っている間も、祖母は様子が変だった。うつろなようであり、機嫌が悪いようにも見えた。せっかくの幸福感が台なしである。
食後の洗い物を済ませたおれは、外に逃げ出すことを決意した。そして、テレビを再び見始めた祖母に「散歩してくる」と声をかけ、返事も聞かずにそそくさと玄関を出た。
佳乃の家を今から訪問するわけにはいかない。とはいえ、人目を避けようとするあまり、東へと延びる砂利道を進んでしまう。
二股に差しかかった。ここで選択を間違えれば佳乃との縁ははかなく消えてしまうかもしれない。左の道を選び、小さなコンクリート橋を渡った。
橋を渡ってすぐの辻で、足を止めた。広々とした田んぼを見渡すが、子供たちの姿はない。静かに散歩を楽しむには絶好の状況だろう。
鬱蒼とした雑木林は田んぼの北から東を経て南東まで回り込んでおり、佳乃の家を覆い隠していた。
どこへ行こうか、と思案する。
川沿いの道を西へ行けば川野の中心に至るため、住民と顔を合わせる可能性があるだろう。東の道は雑木林を抜けて新興住宅地に至るらしいが、あの子供たちと遭遇するかもしれない。佳乃以外の誰にも会いたくないおれは、進路を北に取り、北の雑木林を目指す。
田んぼの間を貫くこの道は乗用車一台ぶんほどの幅があるが、雑草が多く、車の往来はほとんどないようだ。凹凸のある乾いた土を踏み締め、歩を進める。
田んぼの間を歩き通すと、道は雑木林の中に突入していた。もっとも、この道は雑木林の手前でもう一本の道と交差しているため、左右のどちらかに折れて雑木林の外縁伝いに歩くことも可能だ。
日差しを避けるためにも木陰に入りたかった。それより、浮き立つ気持ちが余裕を生んだことが大きいだろう。
もう何も怖くない。
自信を取り戻しつつある。
ならば、おれにとっての未知の土地――禁忌とされていた雑木林に足を踏み入れてみるのも悪くないだろう。猪や野犬の脅威が気にならないではないが、猪はとりあえず駆除されたらしいし、野犬の出没に至っては単なる噂であると思うことにした。いずれにせよ、冒険をしてみたい、という気持ちが抑えられなかった。
おれは雑木林の中の道を進んだ。道幅はわずかに狭まったが、歩行に支障はない。思ったほど暗くないのは木漏れ日があるからだろう。無論、強い日差しは皆無であり、日向とは比較にならないほど過ごしやすい。
左右を見ると道の外には下生えが繁茂していた。灌木や背の高い雑草が侵入者を拒むバリケードのごとく立ち塞がっている。迂闊に立ち入れば枝や葉で切り傷を負うかもしれない。
雑木林の中の道を二分は歩いただろうか。目の端に何かが映った気がした。おれは足を止めて左の藪の奥を覗く。
背の高い雑草をかき分けて目を凝らすと、林の中――ここから十メートルほど先に赤い鳥居が立っていた。少なくともおれには鳥居にしか見えない。高さは三メートル弱であり、鳥居としてはそれほど大きくないだろう。そこに至るまでは一面が藪であり、道らしきものは見当たらない。
祖母の話にあった「鎮守の杜」を思い出す。
謎の神社があるかもしれない。冒険心が煽られる。とはいえ、この藪を突破するのは容易ではないはずだ。
行けるところまで行ってみようか、と思ったおれは、深い藪に足を踏み入れかけた。
音がした。何かがおれの背後に落ちたらしい。
振り向くと、道の先のほうへと転がっていくごつごつした塊があった。すぐに止まったそれは、握りこぶし大の石だった。
「外しちまった」
子供の声だ。
歩いてきた道を二十メートルばかり戻った場所に、あのスポーツ刈りの少年が立っていた。その背後に仲間の三人が控えている。
「外しちまった? おまえ、おれに石を当てるつもりだったのか!」
怒鳴らずにいられなかった。
「キャッチボールの距離だぜ。本気だったら当たっているじゃん。のろまのばーか」
憎まれ口を叩いたスポーツ刈りの少年は、高く上げた両手をひらひらと振るや、「逃げろ!」と叫んだ。それを合図に子供たち全員が田んぼのほうへと走り出す。
「こらあ!」
こんないたずらを許すつもりはない。おれは子供たちを追った。
運動らしい運動をしたことが少ないおれは、足にはまったく自信がない。それでも、子供たちとの距離はぐんぐんと縮んでいった。日向に出たときには、子供たちの最後尾である左サイドテールの少女まであと二メートルもなかった。
「だめだよっ」
近くで子供の声がした。
思わず足を止めてしまう。
周囲を見回したおれは、真後ろに立っている小さな姿に気づき、のけ反った。
「大人が子供をいじめちゃいけないんだよっ」
おれを見上げながら言ったのは、三、四歳の幼い少女だった。淡いピンクのTシャツと赤いミニスカートという服装で、髪はうなじで切り揃えてある。あの四人と比較すれば肌は白いほうだろう。右肩から袈裟懸けにしているオレンジ色の小さなポシェットが、なんとも愛らしい。
「いじめじゃないよ。ていうか……」
こんな幼い少女に説明している場合ではない。おれは南に顔を向ける。
四人の子供は川沿いの道を東へと驀進しているところだった。そして間もなく、雑木林の陰に入ってしまう。
追いかける気力が失せたおれは、再度、少女を見下ろした。
「あの子たちは人に向かって石を投げたんだよ。だから、叱ってやろうとしたんだ」
わかりやすく伝えたつもりだが、つぶらな瞳でおれを見上げる少女は、きょとんとしている。
「ねえ君」おれはしゃがんで少女と目の高さを合わせた。「もしかして、あの四人を知っているのかな? あの四人の中に、君のお兄ちゃんかお姉ちゃんがいるの?」
「ナナちゃんはね、みんなのこと、知っているよっ」少女は答えた。「でもねえ、本当のお兄ちゃんとか本当のお姉ちゃんとかじゃないんだよ。みんな、ナナちゃんより大きいから、お兄ちゃんとかお姉ちゃんとかの代わりになってくれるの」
「君は、ナナちゃん、っていうのかあ。じゃあナナちゃんは、あの四人と一緒に遊んだりするんだね?」
重ねて尋ねると、幼い少女――ナナは、「うん」と頷いた。
「そうか。でも、人を困らせるいたずらは、しちゃいけないよ」
できる限り穏やかに諭した。あの子供たちと遊ぶのなら、最年少となるナナは、言いくるめられて悪質ないたずらに加わるかもしれない。
「石を投げたりすること?」
ナナは小首を傾げた。
「そうだよ。わかったかい?」
「うん、わかった」
元気な答えを聞き、高ぶっていた気持ちがわずかに落ち着いた。
「ところでさ、ナナちゃんも新興住宅地に住んでいるの?」
現在の川野に子供は住んでいないはずだ。ましてあの子供たちと一緒に遊ぶ仲なら、新興住宅地に住んでいると考えるのが当然だろう。もっとも、おれと同じく川野のどこかに一時的に滞在している――そういった可能性も否定はできない。
「しんこう?」
ナナはまたもや小首を傾げた。
「ああ……えーと、あっちのほうにある、おうちがたくさん並んでいるところだよ」
東の方角を指差して解説したが、ナナは理解しかねている様子だ。
「おうちがたくさん並んでいるの? おうちが順番を待っているの?」
「順番というか……」
「順番を待っていれば何かもらえるの? おもちゃとかもらえるのかなあ?」
つぶらな瞳が輝いていた。
「いや……」おれは質問の仕方を変えることにした。「ナナちゃんはあの子たちと一緒に帰るはずだったんだよね?」
「そうだよ」
置き去りにされていながら、ナナは平気な顔である。とにかく、新興住宅地に住んでいるのは間違いないようだ。
「ここはナナちゃんのおうちからとても離れているんだ。危ないから、一人で行ったり来たりしちゃだめだよ」
一キロもある道のりならば心配にもなる。しかも、人通りがほとんどない道なのだ。この幼い少女を一人で歩かせてはならない。機会があれば、あの四人の子供に注意を促しておこう。
「一人でも行ったり来たりできるもん」
頑是ない言い開きを受け、おれは笑いをこらえた。
「それはすごいな。でもせっかくだし、今日はお兄ちゃんがおうちまで送ってあげるよ。だから、もう帰ろう」
などと申し出たものの、こんな幼い少女を連れ歩いてよいのだろうか。おれはナナの身内でも知り合いでもないのだ。
「まーだ、帰らないよっ」ナナは訴えた。「ナナちゃんはまだ遊ぶんだもん。いっぱい遊んでから帰るんだもん」
「でもね、こんなところで一人で遊んでいたら、いけないんだよ」
「いけないの?」
「そうだよ」
ナナを説得しているうちに、祖母に同伴を頼んでみよう、と思いついた。ナナを送っていくのなら祖母も一緒のほうが体裁がよい。往復で二キロは歩くが、まさか祖母がおれのこの変局を度外視することはないだろう。
おれが立ち上がったそのとき――。
「ナナちゃーん!」
遠くで声がした。
見ると、川沿いを東へと向かう道の先にサイドテールの少女が立っていた。両手を大きく振っている。
「早くおいで! もう帰るよ!」
「エリちゃーん! 待っててー!」
ナナがサイドテールの少女に答えた。
「あの子は、エリちゃん、っていうのかい?」
おれが問うと、ナナはほほえんだ。
「うん。ナナちゃんはエリちゃんが大好きなんだよっ」
ならば、エリという少女を助け船として利用しない手はない。
「そうか。じゃあ、早くエリちゃんと一緒におうちへ帰りな」
「うん。ナナちゃん、エリちゃんと一緒に帰るねっ」
そう言うや、ナナは橋のほうへと走り出した。そして、辻を左へと折れるなり、不意に足を止めて振り向き、小さな右手を大きく振る。
「お兄ちゃん、ばいばーい!」
元気な声が一帯に響き渡った。
おれも右手を軽く振る。
「お兄ちゃん、ばいばーい!」
もう一度だけ声を上げると、ナナは東に向かって再び走り出した。
エリはおれに一瞥もくれず、走り寄ったナナを迎えた。手を繫いだ二人の少女が東へと歩き出す。
不思議なくらいに穏やかな気分だった。遠ざかっていく二つの小さな背中を見送りながら、夏の日差しに目を細める。
疑念が湧いたのは、二人の少女の姿が雑木林の陰に入ったときだった。
ナナはおれを呼び止める直前まで、いったいどこにいたのだろうか。
あんな幼い子供が全速力のおれについてくるなど、常識では考えられない。おれが立っているのは、雑木林の外の辻から南へ五十メートルほどの位置だ。ナナがおれに声をかけたのも、ほぼ同じ位置である。雑木林の中からついてきたのではなく辻の辺りで待ち伏せしていた、と推し量れるが、それにしてもあの幼さにしては足が速すぎはしないか。
判然とせず、おれはその場に立ち尽くした。
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