第2話 ②

 その後は、紅茶とクッキーを味わいながら、佳乃との会話を楽しんだ。話の内容は昨日と大差ない。だが、おれにとっては十分すぎるほど心の癒やしとなった。

 ふと掛け時計を見ると、午前十一時を二十分ほど過ぎていた。

「今日はそろそろ帰ります。こんなに長居しちゃって、すみません」

 おれがソファーから立ち上がると同時に、はす向かいに座っていた佳乃も立ち上がった。

「せっかくですから、お昼も食べていってください。遠慮なさらないで」

 佳乃は本気らしい。とはいえ、これ以上の甘えは迂闊に思える。それに祖母には、昼までに帰ると言い残してきたのだ。

「いえ、祖母が待っているので」

 そう伝えると、佳乃は残念そうに頷いた。

「そうですね。おばあ様が待っているのでは、仕方ありませんね」

「誘ってもらっているのに、本当にすみません」

 とどまりたい気持ちをぐっとこらえ、おれは玄関へと向かった。

「また来てくださいね」

 玄関でスリッパからデッキシューズに履き替えようとしたおれに、佳乃は声をかけてくれた。

 次はいつ来ればよいのか――尋ねようとしたおれは、デッキシューズを履いて立ち上がり、振り向いた。

 おれの目の前に佳乃の顔があった。

 佳乃がおれを見つめている。

 近すぎた。佳乃の胸の膨らみがおれの胸にふれている。上がり框の高さが二人の身長差をカバーしてくれたらしい。

 シトラス系の香りが漂っていた。

 佳乃は「はっ」と声を漏らして後ろへ下がろうとした。

 とっさに彼女の両腕をがっしりとつかんでしまう。

「貴也さん?」

 佳乃の瞳が怯えていた。

「佳乃さん、おれ……」

 言葉にならず、おれは佳乃を引き寄せた。

「貴也さん」

 佳乃は抗わないばかりか、そっと両目を閉じた。

 おれの気持ちを受け入れてくれたのだ――そう信じ、佳乃の唇に自分の唇を近づけた。

 玄関の外で砂利を踏む音がした。

 息を吞んだおれは、口づけを交わす寸前で佳乃の両腕を離した。

 すぐに行動を起こしたのは、佳乃だった。

「何かしら?」

 佳乃はサンダルを履くと、玄関のドアを開け、外の様子を窺った。

 佳乃の肩越しにおれも外を見るが、変わった様子はない。

「誰か、来たんですか?」

 おれが尋ねると、佳乃はドアを開けたまま振り向いた。その顔に焦燥が浮かんでいる。

「いいえ、誰もいません。犬か猫だと思います」

 答えた佳乃を前にして、おれは後ろめたさを感じていた。

「ふしだらなまねをして、すみませんでし――」

「貴也さん」佳乃はおれの言葉を待たずに言った。「今夜、おばあ様がお休みになったら、うちに来てください」

 そう告げられたが、すぐには理解できなかった。

「今夜……って、今夜、ここにですか?」

「はい」

「おれが来ても、いいんですか?」

「わたし、待っています」

 迷いのない瞳で佳乃は答えた。

「はい、来ます。今夜、ここに……」

 声が裏返りそうだった。

 夕立という予報が当たらないことを祈った。


 狐につままれているのだろうか。知り合ってまだ二日目なのに、こんな展開になるとは思いも寄らなかった。

 相も変わらぬ猛暑の中、ふらつく足取りで祖母の家へと向かった。キリギリスの鳴き声が祝福の歌に聞こえる。

 途中、川向こうの田んぼへと目をやるが、子供たちの姿はなかった。それでよい。この甘い余韻に子供のはしゃぎ声はふさわしくない。

 浮き立つ気分で祖母の家の玄関をくぐった。

 冷房の効いた居間に入ると、座卓を前にして座っている祖母が、緑茶をすすりながらテレビを見ていた。

「あれ、早かったね」

 意表を突かれた顔が、おれを見上げた。

「何を言っているんだよ。昼までに帰る、って言っておいたじゃないか」

 呆気に取られたおれは、座卓を介して祖母の向かいにあぐらをかいた。

「そうだった?」

 祖母は眉を寄せるとテレビに向き直った。

 どうにも嚙み合わない。

「そうだよ。間違いなく言ったよ」

「なら、貴也の言うとおりなんだろう」

 ほっといてくれと言わんばかりに、祖母の横顔がテレビの光を反射していた。これ以上の追及は意味がないだろう。

 テレビには日曜日の昼のレギュラーであるバラエティー番組が映されていた。女性アイドルグループの解散についてスタジオの芸能人たちが熱弁を振るっている。

「ばあちゃんもこんな番組を見るんだね」

「いけないのかい?」

 祖母は横目でおれを睨んだ。

「いけなくはないけど」

「ばかにするんじゃないよ。あたしだって芸能界の話題に興味があるさ」

 などと訴えるが、その目はすでにテレビの画面に釘づけになっていた。どうやら、昼食の支度など頭にないらしい。

 一方のおれは、芸能界にそれほど興味がなかった。何より今は舞い上がっている。昼食の支度をするくらいはなんの負担にもならない。

「そろそろ十二時だし、お昼はおれが作るよ」

「ああ、もうお昼だね」

 祖母はテレビの画面に向かって口を開いた。

「何を作ろうか?」

「てっきり、貴也は佳乃ちゃんの家で食べてくる、と思っていたからねえ。おかずは今朝の残り物だけだよ」

 おれを見ようともせずに祖母は答えた。

「それなら、おれがご飯と味噌汁だけ作るから、ばあちゃんはテレビを見ていなよ」

「大丈夫なの?」

 そう尋ねてはくれるが、祖母の横顔には心配している様子など微塵もなかった。

 やはり、しっくりとしない。

「うん、大丈夫」

 座ったばかりだが、おれは立ち上がった。

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