第2話 ①
今日は日曜日だ。就職していたなら、今頃は自宅でゆっくりと寝ているのだろう。
しかし――。
午前六時ちょうどに起床したおれは、ジーンズを穿き、Tシャツを外出用のものに替えた。そして洗顔や歯磨き、ひげ剃りを済ませて、台所へと入る。
祖母はおれより先に起きており、朝食の支度をしていた。すぐに天井裏を調べる、という旨をその背中に伝えると、「居間の天井の隅が開くから、外の物置にしまってある梯子を使って覗いてね。懐中電灯はテレビの前に用意してあるよ」と振り向きもせずに指示してきた。
朝食の支度で忙しいのはわかるが、人ごとのようなその態度が解せない。夜中に起こされたことで機嫌が悪いならまだしも、体調が思わしくないのではないか、と勘ぐってしまう。
とにかく朝食前に調べ終えなくてはならない。早速、行動に移る。
外の物置から運び込んだ梯子を居間の隅の壁に立てかけたおれは、テレビの前に置いてあった取っ手つきの大型懐中電灯を片手に携え、細い段をそろそろとよじ登った。そして天井の点検口を開け、上半身を入れる。
懐中電灯の明かりが照らし出した空間は、屈まなければ歩けないような高さしかなかった。両足を梯子の上に置いたまま目を配るが、見える範囲に異常は確認できない。
「どうだい?」
いつの間に来ていたのか、祖母が下から声をかけてきた。
「何もないよ。ていうか、結構きれいじゃん。埃なんてほとんどないし」
天井裏に懐中電灯の光を走らせながら、見えている状態を伝えた。
「そこでは柱や梁が邪魔で隅々まで見えないだろう。天井裏に上がって、もっと奥まで行って調べてみなよ」
祖母は容赦なく要求してきた。
「天井板が抜けちゃったらどうするんだよ。それより、押し入れの天井とかにも点検口があるんじゃないの? あちこちの押し入れの点検口から覗けば、天井裏に上がらなくたって、結構な範囲をカバーできるはずだよ」
案じたのは、天井板より自分の身、である。
「ああ、そうか。貴也の部屋の押し入れとあたしの部屋の押し入れには、天井裏の出入り口があったかも――」
祖母の声が途切れた。
「ばあちゃん?」
おれは懐中電灯のスイッチを切り、梯子を三段下って上半身を点検口から出した。
梯子のそばに立つ祖母が、惚けた顔で、開け放たれている襖の外――庭のほうを見ている。
「あのさ、ばあちゃん」
「え?」
我に返った表情がおれを見上げた。
「どうしたんだよ?」
おれが問うと、祖母は目を逸らした。
「どうもしないよ。……じゃあ、天井裏はもういいね」
「もういいの?」
この態度の変わりようには啞然とさせられた。とはいえ、これ以上の時間を費やさなくて済むのなら、願ったりかなったりである。
「それじゃあ、朝ご飯にしようか」
告げるなり、祖母は台所へと歩いていった。
懐疑を抱きつつ、おれは点検口を閉じて梯子を下り、懐中電灯をテレビの前に戻した。
ふと、掃き出し窓の開け放たれている廊下越しに、庭を見た。生け垣のツゲの葉が朝日を反射している。祖母は何に気を取られていたのだろうか。
「貴也」
不意に声をかけられ、おれはすくみ上がった。
振り向くと、すぐ目の前に祖母が立っていた。
「なんだよ。びっくりするじゃないか」
おれのその苦情を気にする様子のない祖母が、右手に持つ白いレジ袋を掲げた。
「これをね、持っていってほしいんだよ」
祖母の言葉には肝心の行き先が入っていなかった。
時間が惜しいときに使いに行かされるのは厄介だ。というより、佳乃以外の川野の住民に会いたくないのだが、とりあえず、欠落した部分を尋ねてみる。
「どこへ持っていくの?」
「佳乃ちゃんのところだよ。貴也、今日も遊びに行くんだろう?」
「え……あ、いや……」
当然のような顔をされても、おれは返答に窮してしまう。
躊躇しているおれに、祖母はレジ袋を押しつけた。受け取って中を覗くと、焼き肉のたれのびんが二本、入っていた。
「ゆうべの焼き肉で使っただろう。佳乃ちゃんのために、別に買っておいたんだよ」
祖母は説明するが、おれは訝しんだ。
「なんで焼き肉のたれなの?」
「だって、これ、おいしかったでしょう?」
質問の答えになっていないような気がするが、それをとがめるのもはばかれた。
「ああ、おいしかったよ」
「おいしくなかったら、あげても可愛そうだし。だからゆうべは、試食を兼ねて使ってみたんだよ。これなら佳乃ちゃんも喜ぶよね」
「おいしければ嬉しいだろうけどさ、佳乃さんは焼き肉のたれをほしがっているの?」
「当たり前じゃない」祖母は断言した。「佳乃ちゃん、お肉が大好きなんだから。今どきの若い人にしては珍しく、魚だって大好きなんだよ。貴也も見習いなさい」
肉や魚をうまそうに食べている佳乃、というビジュアルが浮かばない。どことなく現実離れしているような気がした。狼狽するあまり、「おれだって魚は食べるよ」と言い返せなかった。
「とにかく頼んだよ。ささ、ご飯にしよう。食べたら行っておいで」
一方的に話を締めくくった祖母は、再び台所へと向かった。
おれは首を傾げてしまう。
得体の知れない何かが川野を侵している――そんな妄想が湧き上がった。夜中の物音といい、先ほどの祖母の惚けた表情といい、どうにも釈然としない。
「貴也」祖母が台所から顔を覗かせた。「佳乃ちゃんのことを、佳乃さん、と呼んだよね。今どきの若い人って、知り合ってすぐでも、そこまで進展しちゃうものなんだねえ」
「進展とかじゃなくてさ、そう呼んでくれ、って本人に言われたから……」
慌てて否定したが、祖母は笑みを浮かべ、台所の奥へと引っ込んでしまった。
祖母が何を期待しているのか、想像できないわけではない。だが、立ち入ってほしくないのだ。
ため息をついたおれはレジ袋を部屋の隅に置き、梯子を物置へと運んだ。
「昼までに帰る」と告げて玄関を出たおれは、二本のびんが入っているレジ袋を片手に提げ、佳乃の家に向かった。
今日も日差しが強い。テレビの天気予報によれば夕立があるらしいが、見上げれば雲一つない晴天である。
二股に差しかかると子供たちのはしゃぎ声が聞こえた。歩きながらコンクリート橋のほうを一瞥する。
橋の向こう――田んぼのあぜ道で、四人の子供が走り回っていた。間違いなく昨日の子供たちだ。もっとも、彼らの姿はすぐに藪の陰に隠されてしまう。
今朝のおれは迷う必要がない。祖母の使いも兼ねている。堂々と佳乃の家を目指してよいのだ。あの子供たちにかかわらなくて済む。
おれに気づいたのか、子供たちの声が、一瞬、聞こえなくなった。しかし、すぐに元のはしゃぎ声が復活する。
おれは子供たちの声を無視して二股の右を進んだ。
玄関の中で焼き肉のたれを受け取った佳乃は、大いに喜んでくれた。今日の彼女は、ぴっちりしたTシャツに七分丈のジーンズ、という服装である。胸の膨らみや脚線美が強調された彼女を前にして、おれは目のやり場に困ってしまう。
「今、おばあ様からお電話があったんですよ。貴也さんがここにいらっしゃることを、伝えてくださいました」
佳乃はそう告げると、冷房の効いたリビングキッチンにおれを通した。
リビングはこざっぱりとしていた。調度はテレビや戸棚、テーブル、ソファー、それくらいだ。バーカウンターを据えたキッチンも整理が行き届いている。見える範囲に余計なものは一切ない。
「かけてください」
佳乃に勧められ、おれはソファーに腰を下ろした。
「涼しい部屋で熱い紅茶、なんていかがですか?」
二本のびんが入っているレジ袋を胸に抱きながら、佳乃はキッチンに移動した。
「はい。いただきます」
この期に及んで遠慮するなど、もってのほかだろう。
「すぐに用意しますね」
佳乃は言うとレジ袋を調理台の上に置いた。そして、IHクッキングヒーターにやかんを載せ、食器類を準備し始める。
改めて、おれはリビングキッチン内を見回した。クロスのすべてが外壁と同様に白で統一されている。さらに、テレビや戸棚、冷蔵庫、バーカウンター、テーブル、おれが座っているソファーなども白系でまとめられ、明るさを醸し出していた。とはいえ、佳乃の年齢にしては落ち着きすぎている気がした。生活感が稀薄なことも要因となっているのかもしれない。
出窓の近くに電話台があった。台も電話機本体も白であるが、それよりもおれの目を引いたのは、電話機の横にある写真立てだ。どこかの公園で撮られたらしい写真の被写体は、一人の年輩の女である。
おれはソファーから身を乗り出し、写真を見つめた。
夕暮れに撮影したらしく、女も背景もオレンジがかっていた。女は五十がらみで、髪は後ろで結ってある。カーディガンにスカートという出で立ちだ。
「この写真の人は、佳乃さんのお母さんですか?」
おれはキッチンの佳乃に尋ねた。
「そうですよ」
こちらに顔を向け、佳乃は答えた。
「亡くなられたんですよね。あ……余計なことでした。すみません」
差し出がましかったかもしれない。自分の軽率さを悔い、謝罪した。
「貴也さん、気にしないでください」
笑顔の佳乃は、プラスチックの容器いっぱいに詰めてある小さなクッキーを、トングを使って皿に移し始めた。
「他界して一年が経ちました」佳乃はクッキーを皿に移しながら話し続ける。「母と二人で田舎暮らしがしたい……そう思って、競売に出されていたこの家を、どうにか落札したんです。落札後にリフォームしました。けれども母は、引っ越しの一週間前に持病が悪化して……あっけない最後でした」
祖母の話と符合するが、おれには立ち入ることのできない領域なのだ。
見ると、佳乃の表情が沈みかけていた。
何か言わなければ、と焦慮する。
「本当に、無神経でした」
苦し紛れに出した台詞がこの程度だ。
しかし佳乃は無理をしているのか、笑顔を取り戻してくれた。
「目の前に曰くありげな写真があれば、誰だって気になりますよ」
そんな言葉をかけてもらっているおれのほうが、慰められているのかもしれない。
せっかくの笑顔だ。このままでいてほしい。だが、畏縮しきっているおれは、気の利いた言葉を見つけられなかった。
手を休めた佳乃が壁の一点を見つめる。
「緑の多い環境なら、母の体によいかと思いました。わたし自身は、車で三十分弱の距離にある総合病院に採用されることになって……あのときは親子で喜んでいたんですよ。確かに、ここでの生活を楽しみにしていた母は逝ってしまいました。けれど、わたしは一人でもつらくありません。看護師の仕事は充実しているし、ご近所の皆さんはとても親切にしてくださいます。毎日が楽しいんですよ」
「強い人なんですね」
悲しみを乗り越えられる精神力――佳乃はそれを有している。少なくとも、今のおれにこんな強さはない。
「やだ……わたし、生意気なことを言っちゃった」
はにかんだ佳乃は、プラスチックの容器を戸棚に入れた。
おれはかぶりを振る。
「何を言っているんですか。生意気なんかじゃありませんよ」
「そう言ってもらえると、嬉しいです」
笑顔が美しかった。いや、美しすぎるのだ。
そんな彼女の視線をまともに受け止められず、おれは目を逸らした。
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