第1話 ④

 東向きのウッドデッキのテラスで、おれは木製の椅子に腰を下ろした。屋根はスモークのポリカーボネートであり、日差しがほどよく遮られている。

 色とりどりの花々が花壇やプランターに咲きこぼれていた。柔らかな風に揺れるいくつもの花びらを眺めながら、おれは佳乃を待った。

 平屋ではあるが洋風の白亜の家だった。こんな片田舎には似つかわしくないかもしれない。敷地はざっと見て三十坪はあるだろう。南向きの広々とした庭は砂利道に面しており、塀や生け垣はなく、裏には雑木林が迫っていた。

 庭の東の端に一台の軽自動車が停まっていた。淡いパステルピンクが佳乃の可憐さを象徴しているかのようだ。おれは高校を卒業する前に普通自動車の免許を取得したが、車はまだ所有していない。たとえ軽自動車でも自分の車に乗っている佳乃が、高みの存在に思えてしまう。

 テラスに面した掃き出し窓が開き、トレーを両手で持つ佳乃が現れた。

「吹きさらしの席になってしまって、ごめんなさい。家の中が散らかっているんです」

 佳乃は言うと、トレーをテーブルに置いた。

「いいえ、快適なテラスですよ」と返しつつ、本当に家の中が散らかっているのか、気になった。開け放たれている窓から中の様子を一顧するが、思いのほかに暗く、確認できない。窓が閉じられる瞬間、天井の辺りに蜘蛛の巣のようなものが見えたが、おそらく気のせいだろう。

 トレーで運んできた皿とグラス、それぞれ二人ぶんをテーブルに置いた佳乃は、おれの向かいの椅子に腰を下ろした。

「どうぞ、召し上がってください」

 佳乃に勧められ、おれは頷く。

「はい、いただきます」

 だが、作法など知る由もなく、とりあえずグラスを持ってみた。氷を浮かべる琥珀色の液体が爽快な香りを放っている。ストローで一口だけ飲んでみると、清涼感のある甘みが口の中に広がった。

「ペパーミントのアイスハーブティーです。自分で作ってみたんですけれど」

 その顔に不安など微塵もなく、むしろ自信さえ表れていた。

「とてもおいしいです。すーっとして、暑さなんか吹き飛んでしまいますよ」

 決して誇張はしていない。率直な感想を伝えたのだ。

「よかった」

 佳乃の笑みがおれの心に喜びを与えてくれた。

 昂揚したおれはケーキ用のフォークにも手を伸ばす。皿に載っているのはチーズケーキだ。フォークで一口ぶんを口に運ぶと、チーズの甘い香りが鼻から抜けた。

「これも佐久本さんが作ったんですよね。すごいなあ、本当においしいです」

「喜んでもらえて、わたしも嬉しいです」とほほえんだ顔が、不意に曇った。

 おれはフォークをテーブルに置き、佳乃の顔を覗く。もしかすると、おれの正直な感想がお世辞に聞こえたのかもしれない。

「佐久本さん?」

「佐久本……だなんて、なんだかよそよそしいです。佳乃、と呼んでもらったほうが嬉しいんですけれど」

 控えめな声で訴えた佳乃が、顔を赤らめた。

 おそらく、おれの顔も赤くなっているはずだ。平静を装いたいが、手がわずかに震えている。

「わかりました。佳乃さん、でいいんですね?」

「はい。わたしも、貴也さん、と呼んでいいですか?」

「それはもう……」

 言葉がうまく続けられず、大きく頷いて気持ちを表現した。

「あの、貴也さん」

「はい?」

「なんでもありません。呼んでみたかったんです」

 佳乃の顔に笑みが蘇った。

「参ったな。あははは……」

 天にも昇る気持ちとはこういうものなのだろうか。

 おれの手の震えはまだ続いていた。


 帰り際に連絡先の交換を申し出ようとしたが、すぐに思いとどまった。スマートフォンが故障しているのではそれもままならない。

 また会えるのだ。だからこそ、楽観的な気分で佳乃の家をあとにできた。

 ごちそうになったことを祖母に伝えるべきかためらわれたが、それを知らずに礼を言えなかったのでは祖母の立場がないだろう。子供たちとの遭遇から佳乃の家でくつろぐまでの顛末を、夕食を取りながら祖母に伝えた。もっとも、祖母には佳乃のことを「佐久本さん」と呼んでおいた。さすがに「下の名前で呼び合っている」とは言い出せなかった。

「へえ、貴也も隅に置けないもんだね」

 ご飯茶碗を手にしたまま、祖母は感心したように目を丸くした。

 さらに突っ込まれるかもしれない――そう予想したおれは、祖母の注意を佳乃から逸らそうと思った。

「ところでさ。例の子供たちなんだけど、この川野に住んでいるの?」

「川野に住んでいるのは、佳乃ちゃん以外には、年寄りか……若くたってせいぜい五十前後の、おじちゃんやおばちゃんばかりなの。三十代以下の人たちはこぞって出ていっちゃったから、小学生くらいの子供なんて一人もいやしないよ」

 都会以上に高齢化の進む現状、というものを理解できた。ここ川野はもはや限界集落なのだ。

「あたしもあのいたずらっ子たちを見かけたことはあるけど」祖母は続けた。「たぶん、新興住宅地から来るんだよ」

「新興住宅地なんて、この近くにあったっけ?」

 尋ねたおれは大皿に箸を伸ばし、豚焼き肉をつまんだ。

「二年くらい前に、裏を流れている川の下流……仙人坂せんにんざかにできたんだよ」

「じゃあ、子供の足で行き来できる距離なんだね」

「県道を使うと三キロも離れているけど、川沿いの道なら一キロくらいなんだって。だからなんだろうけど、あの子供たちは川伝いにやってくるよ。急な坂道ばかりなのにね」

 答えた祖母は、空にしたご飯茶碗を座卓に置いた。そのご飯茶碗にポットのお湯をそそぎ、用意してあった包装シートから錠剤を取り出す。なんの薬かは知らないが、五種類もあった。これが、老いるという現実なのだろう。

 すべての錠剤を手のひらに載せ、祖母は苦笑する。

「わざわざ坂ばかりの道を一キロも歩いてきて、いたずらするんだからねえ」

 確かにいたずらは困るが、おかげで、おれは佳乃とのひとときを楽しめたのだ。あの四人の子供を腹立たしく思う気持ちは、今はない。

「まあ、子供だし」

 適当に相槌を打ったおれは、たれに浸した焼き肉を口に運んだ。

「そういえば」手のひらの錠剤を一粒ずつ確認しながら、祖母は言った。「最近は近所でも、あの子供たちのいたずらに困っている、なんていう話題が出ているね」

 そしてすべての錠剤を口にほうり込み、ご飯茶碗のお湯をすする。

 どうやら、佳乃から注意を逸らす作戦は功を奏したらしい。

「それ、食べちゃいなさい」

 大皿に残った一切れの焼き肉を見ながら、祖母が言った。

 厚意に甘え、最後の一枚を堪能する。そして――。

「ごちそうさまでした。これ、洗ってくる」

 自分のぶんの食器と空になった大皿とを重ねて持ち、おれは立ち上がった。話がぶり返さないうちに、食器を持って台所へと逃げ込む。

「流しに置いておきなさい。あとであたしが洗うから」

 居間から祖母の声が追ってきた。

「いいよ。自分のぶんは自分でやる」

 ここにいる間はそうする、と自分で決めたのだ。昼食後もそうした。台所へと逃げる手段にしただけではない。

「じゃあ、洗い終わったら、先にお風呂に入っちゃいなさい」

 まるで母に言われているかのようだった。こんな言葉は二度と母にかけてもらえないのだろう。いや、自立しなければならないのだ。父にも母にも頼るわけにはいかない。当然、祖母にもである。

 おれは食器を洗いながら唇を嚙み締めた。


 闇の中で目を覚ました。夢を見ていた気がする。よい夢ではなかった、と思う。

 枕元の目覚まし時計に顔を向けた。持参したデジタル目覚まし時計だ。寝ぼけまなこを見開いて確認すると、午前三時を過ぎたばかりだった。

 エアコンは、寝る前に切っておいた。何もかけずにTシャツとトランクスだけで寝ていたが、全身がわずかに汗ばんでいる。タオルケットは足元でぐちゃぐちゃになっていた。

 尿意があることに気づき、布団から立ち上がった。部屋の照明をつけずに、静かに襖を開けて廊下へと出る。

 廊下には三つの部屋が面していた。東から順に、南入り玄関に隣接している居間、おれにあてがわれた部屋、祖母の部屋――となる。トイレは祖母の部屋の先だ。

 祖母の眠りを妨げないために、襖を閉じずにおいた。こうすれば一度の開閉で済み、音を立てる回数を減らすことができる。トイレに行くには祖母の部屋の前を通るため、足の運びにも気が抜けない。

 部屋の畳もひんやりとしていたが、廊下の床はそれ以上に素足のほてりを冷ましてくれた。スリッパを履かないこの家の習慣が、おれには嬉しい。

 南向きの掃き出し窓は雨戸が閉めきってあり、暗鬱とした空間を作り上げていた。足元用の簡易LED照明が一つ、廊下の半ばで光を放っている。脆弱な光ではあるが視野を確保するには十分な光量だ。反面、この程度の明かりでは、光の届いていない部分がよりいっそう暗く感じられる。襖を開けっぱなしにしているのだから、部屋の照明をつければ、影の占める領域はさらに減るに違いない。もっとも、部屋に戻ってまで照明をつける、という必要性は感じなかった。

 祖母の部屋の前を忍び足で通り過ぎるとき、寝息がかすかに聞こえた。安らかな寝顔を想像すれば、なおさら物音など立てられない。

 突き当たりの角を右に曲がると、正面がトイレだ。ドアの手前は影の領域だが、反射して届くわずかな光によってトイレの照明のスイッチはすぐに見つかった。

 祖母の家のトイレは洋式の水洗である。汲み取り式トイレを二年前に修繕したのだ。どうせなら照明のスイッチもランプつきにすればよかったのに――と思ってしまう。

 おれが祖母の誘いに乗った理由の一つに、このトイレがあった。以前は、汲み取り式が嫌で泊まるのも苦痛だったのだ。仏壇に掲げられている祖父の遺影は、汲み取り式トイレより苦手なのだが。

 照明のスイッチを入れた、そのときだった。

 背後で物音がした。たたたたた、と板を連打するような軽い音が、二秒ほど続いたのである。

 おれは息を吞み、振り向いた。

 わずかに届いている光の中に、動くものはない。耳を澄ますが、音も完全に消えている。

「ばあちゃん?」

 意図せず声を出していた。

 返事はない。

 思いきって角の先を覗くが、ぼんやりとした光をLED照明が放っているだけだった。

 気を取り直し、トイレに入って用を足す。

 水の流れる音がやたらと大きく感じられた。祖母を起こしたのではないか、と危惧するが、部屋に戻る途中でも祖母の寝息は確認できた。

 部屋に戻ったおれは、静かに襖を閉じ、布団に寝そべってため息をついた。これまでの不遇や将来の展望がないことで、おれの精神はかなり疲弊しているのだろう。夜中のトイレに起きるだけでなく、幻聴まで聞こえてしまうほどなのだ。

 ならば、楽しいことを考えればよい。

 佳乃の顔が浮かんだ。

 佳乃の家のテラスで、おれたち二人は二時間ほど話し込んだ。しかしおれは、家庭の危機や郁美との別離、就活の失敗などは、終始、口に出せなかった。というより、佳乃がおれの事情を詮索しなかったのだ。もっぱら、テレビのニュースやネットの話題、川野の状況など、世間話をしたわけである。

 そういった会話でも佳乃の身辺が垣間見えた。

 佳乃は看護師であり、市街地の総合病院に勤めているのだという。昨日は夜勤明けであり、おれと初めて会ったのは帰宅して間もなくのことだったそうだ。川野の反対側まで回覧板を届けに行き、その帰り道に、祖母の家に向かっているおれに気づいたらしい。佳乃は直言しなかったが、ふらふらと歩いていたあのときのおれを不審に思ったに違いない。

 また、佳乃の年齢がおれより二つ上の二十四歳であることもわかった。とある恋愛小説が映画化された、という話題にふれたのだが、その映画が上映されたとき、佳乃は中学三年生だったそうだ。一方、当時のおれは中学一年生だった。

「都合がよければ、明日も遊びに来てくださいね。今日が夜勤明けだから、明日は休みなんです。日曜日に休めるなんて、久しぶりなんですよ」

 佳乃はそう言ってほほえんでいた。

 誘いを鵜呑みにするのは厚かましいかもしれない。だが、遠慮するほうが佳乃を落胆させてしまう――そんな気がしてならなかった。厚かましいだけでなく、うぬぼれてもいるのだろう。それは百も承知で、おれは彼女に会いに行くつもりである。

 朝になるのを楽しみにしつつ、おれは目を閉じた。

 しかし――。

 また音が聞こえた。

 何かが壁か床を叩いている、そう感じた。もしくは、何かが家の中を走り回っているのかもしれない。

 おれは布団の上で半身を起こし、耳を澄ました。

 たたたたた――。

 大人の足音にしては軽い。しかも、音の一つごとのスパンが短すぎる。熟練者がパソコンのキーボードを打つかのごとく、速いリズムを奏でているのだ。

 音は小さくなったり大きくなったりを繰り返していた。離れたり近づいたりしているようでもある。

 さらに耳を澄ますと、頭上で鳴っていることがわかった。

 二階――。

 そんなわけがない。この家は一階建てなのだ。

 いずれにせよ、この音ははっきりと聞こえている。幻聴とは思えない。おそらく、先ほどの音はこれと同一だろう。

 気づくと音が増えていた。音質の異なる似たような音が、いくつか重なっているのである。まるで二重奏――いや、三重奏かそれ以上の規模だろう。とはいえ、心地よい音であるはずがなく、単にうるさいだけだ。

「天井裏……猫か?」

 おれは枕を両手で持ち、そっと立ち上がった。

「うるせーぞ!」

 怒鳴りながら、すくい上げるように枕を真上にほうった。鈍い音を立て、枕は天井に当たる。落ちてきた枕は両手で受け取った。

 同時に、頭上の複数の音は急速に遠ざかり、やがて聞こえなくなった。

 やはり猫などの動物だったのだろう、と納得する。

 しばらく呆然とたたずんだのち、布団に戻ろうとした。

 廊下で足音がした。今度の音は、間違いなく人の足音である。

 身をすくめた次の瞬間、廊下に面した襖が開いた。

 LEDの淡い光を背に受けて、誰かが立っている。

「貴也、何をしているんだい?」

 祖母だった。

「なんだ、ばあちゃんか」

 安堵したおれは、枕を左手に提げたままため息をついた。

「なんだじゃないよ。夜中に怒鳴ったりして」

 逆光ではあるが、パジャマ姿の祖母が眉を寄せているのは、見て取れた。

「ごめん。でも、天井裏に猫がいたみたいでさ」

 口にしてから、言い訳じみていると思った。

「猫? 貴也が寝ぼけていたんじゃないの?」

 訝りの口調だった。

「さっき、トイレに行ったんだけど、そのときから物音がしていたんだ。たたたたた、ってね。今なんて、複数の音だったよ。そこまで聞き分けられたんだから、寝ぼけてはいなかった……と思う」

 語尾が曖昧になってしまった。寝ぼけていなかったはずだが、今さらながら、猫ではないような気がするのだ。あの物音の正体が得体の知れない何かなら、むしろ錯覚であってほしい。それが本音だった。

「そうなの?」祖母は肩をすくめた。「猫だったら嫌だねえ。貴也、朝になったら天井裏を調べておくれよ。一匹じゃないんだとしたら、雌猫が子猫を産み落としているかもしれないしね」

 どうやら墓穴を掘ったらしい。ならば、佳乃に会うためにも早起きは必須だろう。

「起きたついでだし、あたしもトイレに行ってから寝るよ」

 そう告げた祖母が襖に手をかけた。

「うん。気をつけて」

 得体の知れない何かが頭から離れず、つい、余計な一言を口にしてしまった。

「え?」と祖母の動きが止まった。

 取り繕うとし、おれは笑みを浮かべる。

「いや、猫がいるかもしれないじゃん」

「猫がいたら、貴也を起こすよ」

 冗談とも本気ともつかない言葉を残し、祖母は襖を閉じた。

 整え直した布団に横になり、先ほどの物音の正体について考えてみる。

 そもそも、柔らかい肉球を備える猫があんな足音を立てるだろうか。足先が固い動物といえば、祖母との話にも登場した猪がいるが、それは問題外だ。現実的に考えれば、天井裏に這い上がれる生き物、ということになる。猿やハクビシンなどの可能性も考えたが、やはり、どちらもあのような足音は立てないだろう。

 とりとめのない妄想が脳裏を駆け巡る。

 やがておれの意識は、底知れぬ深淵へと落ちていった。

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