第7話 ①
父は祖母に「貴也の買い物に付き合ってくる」と告げた。祖母はおれと父がともに出かけることが気に入らない様子だったが、居間でワイドショー番組を見ながら渋々と頷いてくれた。
帰ってから祖母に詮索される、という懸念はあった。「ほしかったものはなかったことにしておけばいい」などと父はこともなげに言ったが、とりあえず、詮索好きの母の来訪に備えて口裏は合わせておいた。市街地の書店に行って男性用ファッション誌を物色していた、という無難な出任せである。
「唐突に訊くが」ワンボックス車を発進させるなり、父は口を開いた。「あの人……佐久本さんとは、どういう関係なんだ?」
「会えば話をする、その程度だよ」
当たらずといえども遠からず、であろう。互いに惹かれ合っている、という自覚はあるが、おれと佳乃との関係が実際にはどの段階にあるのか、自分でもよくわからない。少なくともおれは、出会った瞬間に佳乃に魅了されていた。そして二日目には、「夜に来てほしい」と誘われている。この進展の早さは尋常でない。惹かれ合っているとは思いたいが、今のおれには自信がなかった。
「そうか」
返ってきた言葉はそれだけだった。
父に断りもなく、最弱だった冷房の設定を最強にする。送風口のフィンを調整し、冷風を顔面に浴びた。
ゆっくりと遠ざかっていく祖母の家を、助手席側のドアミラー越しに見た。走るというよりは徐行であるため、祖母の家は視界からなかなか消えない。
おれは視線をダッシュボードに移した。
「互いに惹かれ合っている、そんな気がしていたんだけど」
言ってしまった。どのみち、祖母でさえ承知しているのだ。この程度では佳乃を裏切ったことにはならないだろう。
「惹かれ合っている気がしていた……まるでおれと同じじゃないか」
父のその言葉を耳にしたおれは、わずかに憤りを覚えた。
「父さんは佳乃さんを見てからずっと言っているじゃん。同じとか似ているとかってさ。それって、なんなの? まさか、父さんとおれが互いに女性に弄ばれている、なんて言いたいわけじゃないよね?」
「佐久本さんとさゆり……二人の声がとても似ているんだよ」
正面を見据えながら父は答えた。
「声が似ているなんて、よくあることだろう」
「声だけじゃない。なんと説明したらいいのか難しいが、雰囲気も同じなんだ。話し方や仕草が、俗っぽくない……というか。佐久本さんにもそういう雰囲気はあったな」
「でも、凜々しい女性なら、誰だってそうじゃん」
「そうかもな」
父は頷いたが、その横顔には物憂げな表情が浮かんでいた。
「言ってみなよ」
たまりかねて促した。
「佐久本さんと同じかどうかは知らんが、さゆりの場合、彼女が近くにいるだけで、けだるくなったり、力が入らなかったり、といったことがあったんだ。もっとも、おれがさゆりを前にしてけだるさを感じたのは、最初のうちだったが。佐久本さんと初めて会ったとき、貴也はけだるくなったりしなかったか?」
「あっ」
思わず声を上げてしまった。
佳乃と初めて会ったときのおれは確かに呆然としていた。しかし、それは暑さによるものだった。もしくは――。
「きれいな女の人を前にして腑抜けになることは、あるんじゃないの?」
「一理あるだろうな」父は言った。「だがな、さゆりの場合だが、周りにいる人のみんなが放心状態に陥っている……そんな感じに見えることが何度もあったんだ。単に惚けているだけではない。買い物で店に入ると、店員が必要以上にさゆりを気遣ったりとか、レストランでもウェイターがさゆりに対してやけに腰が低かったりしてな。しかも、男も女も関係なく、そういう状態に陥ってしまうみたいなんだ。ゾンビのような表情で応対されたこともあったよ。もっとも、おれはそこまでさゆりにへつらうことはなかったがな」
父が言い終えた直後、佳乃と初めて会った場所――砂利道との丁字路が視界に入った。
おれとの時間を拒んだ佳乃は、今頃、何をしているのだろうか――などと考えつつ、会話を繫ぐ。
「三島さんはそれらの店の常連だったんじゃないの?」
「いや」父は首を捻った。「そうは思えなかったな」
「すごいセレブとか……じゃないよね。三島さんは、仕事は何をしているの?」
「ごく普通のOLだよ。おれが営業で担当している商社に勤めている……はずなんだが」
「はず?」おれは訝しんだ。「連絡が取れない、って言っていたけど、仕事で行ったついでに会えなかったの? それとも、父さんがそこを担当外にされた、とか?」
不倫を認めるわけではないがとても要領が悪く思え、つい、口走ってしまった。
父は苦笑している。
ワンボックス車がトウモロコシ畑に差しかかった。目に映るのは、図太い茎と緑の葉だけである。
「昨日も仕事で行ったよ」父は口を開いた。「だがな、連絡が取れなくなってからは、その商社の中でさえ、さゆりの姿を見かけなくなってしまったんだ。だから昨日、その商社でいつも世話になっている男に、探りを入れてみたよ。最近は三島さんの姿が見られないね、とな。だがその男は、眉を寄せておれを見返すんだ」
「見返す?」
「ああ。だからおれは、さゆりのフルネームを告げたんだが、そんなOLは見たことも聞いたこともない、と言われてしまった」
「うそだろう」
背筋に冷たいものが走った。
「もしかすると」重々しい声で父は続ける。「その男はおれとさゆりとの関係を知っていて、偽りを告げたのかもしれない」
「三島さんがその商社に勤めていたのは事実だった、っていうこと?」
「さゆりがおれを避けていたとして、そのために職場ぐるみで彼女を匿っているとかな。あるいは、おれとの関係が原因で職場にいづらくなったとか。それで、そこを辞めてしまったのかもしれない」
「その職場では二人の関係はばればれだった、なんていう可能性があるわけか」
「そこまで隠蔽するのも、不自然な気はするがな」
父はため息をついた。
しかし、最初から社内に存在していなかった、という話と比較すれば、こちらのほうが現実的だろう。
「連絡が取れなくなってから、三島さんの住んでいるところへ行ってみたの?」
おれは問うた。
「行ったんだが、変なんだよ」
「変っていうと?」
「何度も尋ねたことがあるアパートなんだが、いつの間にか、廃墟になっていた。近隣の住民に尋ねてみたら、十年以上も前から誰も住んでいないらしい」
父の脳は病んでいるのではないか。おれは「はい?」と首を傾げた。
突然、ブレーキがかかった。徐行だったとはいえ急停止である。二人揃って上半身が前のめりになってしまった。
もしかすると、父はおれの態度が気に入らなかったのかもしれない。
「いったい、どうしたんだよ?」
尋ねながら前方を確認するが、トウモロコシ畑を貫く道に走行の障害となるものは何もなかった。
やはり、と思ったおれは父を睨んだ。
「気に入らないことがあるんなら、言葉にすればいいじゃん」
「勘違いするな」ワンボックス車を発進させることなく、父はおれに顔を向けた。「もしかして、佐久本さんもそうなんじゃないのか?」
「佳乃さんが?」
「佐久本さんの仕事は?」
間髪を入れず、父は切り返した。
ならば――と、おれは答える。
「看護師だよ。市街地の総合病院で働いている」
「間違いないのか?」
「佳乃さんの働いている時間に電話をしたら、ちゃんといたよ」
「彼女のケータイとかスマホにかけたんじゃ、意味がないぞ」
「おれのスマホの調子が悪いから、佳乃さんとの番号交換なんてできなかったんだ。だから、ばあちゃんの家の固定電話から病院にかけたんだよ。そして、病院の受付事務から佳乃さんの職場に繫いでもらったんだ。これ以上確かなことってないじゃん」
「貴也が電話をしたつもりでいるだけ、じゃないのか?」
どうしてそうまで疑うのだろうか。
おれは反論する。
「考えすぎだよ。ありえないじゃん」
「だったら貴也は、ばあちゃんの様子がいつもとは違う、と感じないのか? おれは感じたがな。それにもしかすると、ばあちゃん以外の川野の人たちも、様子がおかしいんじゃないのか?」
「それは……」
即答できなかった。
「まだまだあるぞ」父はおれの答えを待たずにたたみかけた。「佐久本さんは肉が好きなんじゃないか?」
「あ――」と言葉に詰まった。
「さゆりも肉が好物だった。魚も好きだったな。娘の由佳も、食べ物の好みは母親と同じだった。親子揃って、動物性蛋白質に飢えている、そういう感じだった」
「偶然だよ。肉好きなんて、どこにでもいる」
おれは主張したが、父は表情を変えない。
「やっぱり肉好きだったか。なら、魚はどうなんだ? 佐久本さんは魚も好きじゃないのか?」
「知らないよ、そんなこと」
言葉を濁し、おれはうつむいた。
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