第8話 ②

 十メートルも歩くとクマザサの茂みを抜けることができた。とはいえ、鬱蒼とした雑木林であるには違いない。迷う可能性がある、と意識しつつ、ナナに手を引かれてただの踏み跡のような道を進んだ。ナナは下生えを避けるためか蛇行しており、案の定、どの方角に向かっているのか、おれはもうわからなくなっていた。

 やがて、ナナが足を止めた。

 やや開けた一角だった。周囲を木々に囲まれているものの、頭上に空が見え、日差しが降りそそいでいる。背の高い雑草が繁茂しており、青臭さが鼻についた。

 腕時計を見た。五分強は歩いた、と知る。

「ここなのかい?」

「ここだよっ」

 ナナは手を繫いだまま答えた。

「でも、誰もいないじゃん」

 そう訴えて辺りに視線を走らせたおれは、左の藪の手前に赤い鳥居を見つけた。遠くから何度も見ていたあの鳥居である。つまりここは、鳥居を介して参道の起点、と思われる場所の反対側に位置するわけだ。ナナに導かれて通ってきた道――グラウンドの端からここに至る道が、父の言っていた「あまり知られていない道」に違いない。

 おれは鳥居に目を凝らした。これまでは気づけなかったが、全体的に腐食し、黴であろう白いものがところどころに窺える。やはり、神額はなかった。

 鳥居から正面に顔を戻した。おれから一メートルも離れていない茂みの中に灰白色の物体が見える。

 おれはナナの手を離し、茂みをかき分けた。

 仰向けに倒れている石祠だった。起こしたとしても高さは一メートルもないだろう。扉がないため中は丸見えだが、何も入っていない。侵食しており、角は丸みを帯びていた。

 さらに見れば、土台らしき石の加工物があった。土と雑草とに覆われて全体は見えないが、一辺がおよそ一メートルの正方形であるらしい。中央に直径三十センチほどの丸い穴が穿たれており、そこからも雑草が伸びている。

「やっと来たね」

 突然の声に驚き、おれは背筋を伸ばした。

 倒れている石祠を挟んで、カズマがおれと対峙していた。

「タカ兄ちゃんが来るのを、ずっと待っていたんだ」

 暗い表情でカズマはおれを見つめていた。

 カズマに告げなければならないことがある。それを口にしなければ話は進められない。

「約束を破ってしまった。本当にごめん」

 頭を下げて詫びた。心からの謝罪だった。

「気にしないでいいよ」

 表情を変えずにカズマは言った。

「気にしないわけにはいかないよ。あと、ほかのみんなにも謝りたいんだけど、エリやモリオやキヨシは?」

 辺りを窺おうとしたおれは、自分の右隣に立っているモリオに気づき、息を吞んだ。

「おれたちはここにいるさ」モリオは言った。「だから、心配しなくても大丈夫だよ」

 おれに正面を向けているモリオも、カズマと同じ表情だ。

「タカ兄ちゃんが遅れた理由、ぼくたちはちゃんと知っている」

 左隣でそう言ったのはキヨシだった。こちらに向けている顔には、やはり、陰りがある。

「お兄ちゃんはあの女の人に止められた」背後でエリの声がした。「あたしたちに会ってはいけない、って言われたんだもんね」

 振り向くと、エリがナナと手を繫いで立っていた。エリの顔にも、いつもの潑剌さがない。

 景色が淀んでいた。夏の日差しが降りそそいでいるのに、おれたちは闇の中に立っているかのようである。ナナの朗らかな表情だけがこの景色から浮いていた。

 おれは正面を向き、カズマに尋ねる。

「どうしてそんなことを知っているんだ?」

「おれたちはなんでも知っているよ。タカ兄ちゃんが高三土神社の裏まで行って三つ目のお宝を取ってきた、っていうこともね」

「だから、どうしてそんなことまで知っているんだよ?」

 重ねて尋ねるが、声が震えてしまった。

「お宝はね、もともとはここにあったんだよ」カズマは言う。「お宝……タカ兄ちゃんが言っていた勾玉は、全部で三つ。その三つが石の玉にくっついた姿で、妖怪を封印していたんだよ。なのに、タカ兄ちゃんの父ちゃんが石の玉を割っちゃったんだ。それにタカ兄ちゃんの父ちゃんは、三つの勾玉をあちこちに隠したりもした」

 父の話と符合していた。

 カズマの目に力が入る。

「このままだと、タカ兄ちゃんは妖怪に食われてしまうよ」

 それも父の話と一緒である。だが、おれは認めたくなかった。

「ばかげた話だ。信じられないな」

「ばかげていないさ」

 モリオが反論した。

「そうだよ。ばかげてなんかいない」

 同調したのはキヨシだ。

「お兄ちゃんは見たはずだよ」

 エリが言った。

「なんの話だか……おれにはさっぱり……」

 おれはかぶりを振った。佳乃の顔が脳裏に浮かぶ。

「小屋から飛び出してきたやつも」カズマは言った。「滝壺でタカ兄ちゃんを襲ったやつも、高三土神社の裏でタカ兄ちゃんを襲おうとしたやつも……」

「妖怪、っていうやつかよ」おれはやけになってそう繫げた。「でもおまえらは、気のせいだ、って言っていたじゃないか」

「まだ、あのときは早すぎたんだ」

 平然とした顔でカズマはそう返した。

「早すぎた?」

「タカ兄ちゃんが本当のことを知るには、まだ早かったんだよ。何も知らないでいるタカ兄ちゃんだったから、宝探しに連れていきやすかったんだ。本当のことは、勾玉が全部揃ってから言おうと思っていたんだよ」

 淡々と答えるカズマを、おれは睨む。

「本当のこともへったくれもない。妖怪なんているわけがないじゃないか。おいカズマ、本気で言っているのかよ?」

「本気さ。本気じゃなきゃ言えないよ。だって、タカ兄ちゃんを食おうとしている妖怪は、あの女なんだから」

 カズマの言う「あの女」が誰を指しているのか、予想はついた。

「あの女だ? わかるように言ってみろよ」

「佐久本佳乃だよ」

 カズマは佳乃のフルネームを口にした。

「いい加減にしろ」つい、恫喝的な態度になってしまった。「どこで仕入れた情報か知らないが、子供の遊びにもほどがあるぞ」

「子供の遊びなんかじゃないよ」カズマはおれから目を離さない。「だって、その情報って、ほかから仕入れたんじゃなくて、おれたちが最初から知っていたことなんだし」

「意味がわからないぞ」

「おれとエリとモリオとキヨシ……四人とも、伊吹佳乃の子供なんだよ。おれたち四人は、兄弟なんだ」

 四人の子供たちは皆、同じ学年であるはずだ。四人とも兄弟ならば、四つ子、とでもいうのだろうか。しかし、佳乃の子供ならば、佳乃は中学生の頃に四つ子を産んでいたことになる。

「そんなわけ、ないだろう」

 吐き捨てたおれは、三島さゆりが中学生のときに娘の由佳を産んでいた、ということを思い出した。ばらばらだったパズルのピースが、おれの中で不気味な形を成していく。

「カズマ」おれは口を開いた。「訊いていいか?」

「答えるよ」

「絡新婦、って知っているか?」

 インターネットで得た情報だが、絡新婦は人間の美女に化け、人間の男を誘惑し、食い殺す。そのために、子蜘蛛を使って人間の男を罠にかけることもあるしい。

 つまり子蜘蛛というのが、この子供たち――。

「昔の人は、あの女をそう呼んでいたみたいだね」

 カズマは答えるが、おれはなおさら否定したくなる。

「だったら、川に石を投げ入れておれをずぶ濡れにしたのは……佳乃さんとおれとを近づけさせるためだったのか?」

「違うよ」モリオが答えた。「あの女がタカ兄ちゃんに近づいてきたから、邪魔してやったんだ」

「そして」キヨシが言った。「タカ兄ちゃんのそばにはぼくたちがついているんだ、ってあの女の人に教えてやったんだよ。それでも、タカ兄ちゃんはあの女の人に連れていかれちゃった」

「二度目に石を投げたのはね」エリの声だ。「お兄ちゃんがここに来ようとしていたからだよ。あのときも、お兄ちゃんはここに来ては、まだだめだったの」

「タカ兄ちゃんがあの女の家に行こうとした夜」カズマが言った。「タカ兄ちゃんをあの女のところへ行かせないために、おれたちは糸で罠を仕掛けたんだ」

「カズマ、ふざけるのもいい加減にしろよ。じゃあ、おれに飛び乗ったのは、あれもおまえらのうちの誰かなのか?」

 絡新婦の説話とは趣が異なるが、いずれにしても否定してほしかった。

 しかし、カズマは頷く。

「あれはおれさ。眠っていてほしかったから、気絶させようとして、タカ兄ちゃんに飛び乗ったんだよ。そして気絶したタカ兄ちゃんをエリとモリオとキヨシの四人で罠から外して、タカ兄ちゃんのばあちゃんの家まで四人で運んだんだ」

「じゃあ、持ち物をきれいにして元通りに片づけたのも、おまえらだってか?」

「そうだよ」カズマは答えた。「タカ兄ちゃんは夢だと思っていたんだろうけどさ」

「あれが夢じゃなかったなんて、どうかしている。おまえらだって普通じゃない、っていうことじゃないか」

 おれは抗議した。認めたくないのと同時に、理解できないのだ。

「普通じゃないから……あの女の子供だから、タカ兄ちゃんを守ってこられたんだよ」カズマは嚙み締めるように言った。「タカ兄ちゃんが川野に着いたときから、おれたちはタカ兄ちゃんをずっと守ってきたんだよ。天井裏とかこの林の中とかに身を潜めて、タカ兄ちゃんのそばにいたんだ」

「天井裏の物音」や「雑木林の中を走っていった何か」を想起した。しかし――。

「わからない。何がなんだか、わからない」

「すぐにわかるよ」

 カズマは言った。

「どうすればわかるっていうんだよ!」と怒鳴りつけた直後、カズマの姿がないことに気づいた。モリオとキヨシもいない。振り向くとエリの姿もなく、ナナだけが立っている。

「みんなは?」

「近くにいるよっ」

 答えたナナが先ほどのようにおれの右手を握った。

 思わずナナの手を振り払おうとしたが、力が入らない。

「お兄ちゃんもみんなと一緒に行くんだよっ」

 ナナは笑顔だった。

「行く、って……」体の震えをこらえつつ問う。「どこへ?」

「エリちゃんやカズくんやモリくんやキヨくんやエリちゃんや……えーと、みんなのお母さんが住んでいるおうちだよっ」

「どうして……どうしてそこへ行くの?」

「行けばわかるよっ」

「え……」おれは質問を切り替える。「なら、ナナちゃんはどうなの?」

「ん?」とナナは小首を傾げた。

「カズマやエリのお母さんは、ナナちゃんのお母さんでもあるの?」

「違うよ」

「カズマやエリは、ナナちゃんのお兄ちゃんやお姉ちゃんではないんだったよね?」

「うん。ナナちゃんは、別のお兄ちゃんの妹だもん」

 まさかとは思ったが、おれは自分の顔を指差した。

 ナナは首を横に振って笑う。

「ううん。このお兄ちゃんじゃないよっ」

 だがおれは、とても笑う気持ちにはなれない。

「そうか、ナナちゃんには本物のお兄ちゃんが――」

「お兄ちゃん」ナナはおれの言葉にかぶせた。「あっちへ行くよっ」

 ナナはおれの手を引き、鳥居のほうへと歩き出した。

「ナナちゃん、そっちには行けないよ」

 おれはナナを立ち止まらせようとしたが、やはり力が入らない。こんな小さな少女に引かれるまま、歩いていく。

「行けるんだもん」

 立ち止まるどころか、ナナの歩みは速度を増していき、ついには小走りになった。

 鳥居をくぐるときに黴臭さにつられ、つい、目を向けてしまう。朱塗りの柱の表面を何匹ものナメクジが這っていた。

 たまらず正面に視線を戻すと、灌木や雑草からなる藪に突入する寸前だった。

 おれの額に小枝が次々と当たる。

「いたたた……ほら、ナナちゃん、危ないって」

 ただでさえ立ち入ることを躊躇した藪なのに、小走りで進むには無理があった。

 しかしナナは、小枝やおれの背丈ほどもある雑草をすいすいと躱していた。無論、おれは小枝も雑草も正面から体当たりするしかない。それでも顔だけは守ろうと、左腕を掲げて防御した。

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