第9話 ①
「だけどある日」佳乃は言った。「単なる一人の人間によって、わたしはあの祠の下に封印されてしまった。神の血を受け継いだものなのに、妖怪としてあしらわれたわけよ。そんな屈辱に耐えながら、永劫の月日を闇の中で過ごしてきた。そしてやっと自由になれたの。やっと自由になれたんだもの、もちろん、わたしの営みはこれからも続けるわ」
「よくわかりません」
おれは首を横に振った。しかし話は繋ぐしかない。でなければ真実は見えないままだ。
「いくら自分が両親からの愛情をそそがれなかったからって、平気で自分の子供を食ってしまうんですか?」
「次の子が生まれたら、前の子たちは必要なくなる。兄や姉は、あとに生まれた弟や妹に食べられてしまうの」
「なんですかそれ」おれの全身が震えた。「それじゃ、子供たちはなんのために生まれてくるのか、わからないじゃないですか。命を繫いでいく、という自然の法則に反します」
「人間とは違うの。ほかの生き物とも違う。わたしは孤高を守るわ。わたしの子たちは、わたしを存在させるためだけに生まれてくるの。もちろん、わたしの周りにいる人間だって、わたしが存在するために生かしておくだけよ」
「孤高だなんて、それじゃ孤独と変わらない」
おれは反駁したが、佳乃は表情を変えなかった。
「いつも誰かがわたしの周りにいるわ。道具にすぎない人間でも、いれば寂しくはない」
「でも佳乃さんは、川野の人たちとうまく付き合ってきたはず。少なくとも川野の人たちは、佳乃さんを信頼しています」
祖母の様子を見ていれば、疑う余地はない。
「それだって偽りよ」
「偽り?」おれは逡巡を隠せなかった。「どういう意味ですか?」
「自分は佐久本佳乃との間に信頼関係がある……そんな偽りの記憶を、わたしは川野の人たちに植えつけたのよ」
「偽りの記憶……まさか、ばあちゃんまで?」
「そうよ」佳乃は頷いた。「川野はわたしの第二の故郷。ここなら都会よりも力が回復しやすい、と考えたわ。でも、力はなかなか回復しなかった。慣れた土地とはいえ、力がなくては川野に住んでいる人たちを操ることはできない。だから、偽りの記憶を作ったの」
「なら、一年前に越してきたというのも、偽り……」
「ちゃんと理解しているじゃない。そう、わたしがここに戻ってきたのは、今から二週間ほど前……貴也さんがここに来ることを決意した直後よ」
「おれがここに来ることを決意した……そんなことまで知っていたなんて。もしかして、父から聞いたんですか?」
「雅夫さんは自分の家族のことはあまり口にしなかった。雅夫さんの心を覗いていたら、たまたまわかったの。雅夫さんの子である貴也さんが川野に滞在する予定だ、ということがね。しかも、貴也さんはわたしの好みであるらしい、ということもわかった」
ならば、おれは二週間も前から獲物として狙われていたことになる。
「おれに近づくために、偽りの記憶をみんなに植えつけた。だから川野の人たちには、佐久本佳乃は一年前に移住してきた、と思い込ませた。そして、総合病院に勤めている、そういうことにもしておいた。……そういうことなんですか?」
「全部正解」
父の話したとおりだった。おれは総合病院に電話をしたつもりでいただけなのだ。受話器の向こうの佳乃と会話をした記憶はあるが、あの電話は総合病院に繫がっていなかったのである。受付事務のあの男も存在していなかったに違いない。
「佳乃さんと電話で話したのが偽りなら、総合病院に直接行ったって、どうにかしてだまされて、真実を知ることはできなかった。……そうなんでしょう?」
おれの問いに佳乃は頷く。
「川野は高齢者ばかりだから、総合病院にかよっている人が多いわ」
「だから、総合病院に川野の住民の誰かが行くときは、その人の記憶から一時的に佐久本佳乃という存在を消したり、佐久本佳乃の姿を総合病院で見かけたり……そんなつもりにさせたんでしょう?」
父が抱いていた疑念を、おれは代弁した。
「病院へ出かけないように操れるのなら、簡単に済むんだけれど」
なんというあざとさなのか。いや、むしろこの程度の手回しのよさがなければ川野の全住民をだますなど不可能である。
その佳乃でさえ、おれの父の来訪には狼狽していたのだ。今の彼女に力が足りないのは事実だろう。ならば、これ以上の罪過を思いとどまらせることができるかもしれない。佳乃への未練は断ち切ったが平和的解決の道はあるはずだ。
「佳乃さんは人の考えや行動を感知できるようですが、力が足りなくて、おれの父が川野に来る、とは気づけなかったんですよね?」
おれが問うと佳乃は苦笑した。
「力が足りないばかりか、貴也さんを虜にしようと夢中になりすぎた。おかげで、雅夫さんが来たことに気づくのが遅れたわ。貴也さんと交わるまでは……いえ、貴也さんとの子が無事に卵から孵るまでは、川野にいるつもり。だから、雅夫さんは早々に処分しないといけない」
「もうやめましょうよ、こんなこと」
「え?」
佳乃は首を傾げた。
「佳乃さんなら、血生臭いことをしなくたって、人として生きていけるはずです。人を食べることなんてやめて……人として川野のみんなと生きていくんですよ」
「何もわかっていないのね。わたしの話、ちゃんと聞いていたんでしょう?」
呆れ顔で佳乃は言った。
「聞きましたけど」
「なら、そういうことよ」
言葉そのものより、冷たすぎる視線に射すくめられてしまった。
「ここは田舎だから、みんな鷹揚なのね」佳乃は言う。「それでも、喜怒哀楽を同調させるだけで大変だった。わたしに好意を持つように仕掛けられたから、よかったけれど」
「でも、偽りの記憶を植えつけたり、喜怒哀楽を同調させたり……それって、相手を操っていることになるんじゃないですか?」
「そういう小手先の措置では、わたしに都合のいいように動いてくれるとは限らないの。相手の意識を完全に乗っ取って、その人の言動のすべてを司る……それが、操るということよ」
誇らしげな佳乃を見て、おれは言う。
「想像したくもない」
「想像するまでもないわ」
佳乃がそう告げた次の瞬間――。
周囲の様子が一変した。
おれが立っているのは畳の上だった。デッキシューズを履いたままである。
祖母の家の居間だ、と気づいた。
廊下のほうを見ると襖も掃き出し窓も開け放たれていた。夏の日差しがそそぐ庭に大勢の人々が立っている。高齢者が過半数を占めるこの男女の群れは、どうやら川野の住民らしい。皆、淀んだ目をおれに向けていた。
見覚えのある二人が人々の前に歩み出た。祖母と小杉だった。この二人も、覇気のない表情でおれを見ている。
「佳乃ちゃんにとって目障りとなるやつは、みんなこうなるんだよ」
そう言った祖母は片手に何かを提げていた。
目を凝らすまでもない。やせぎすの色白の顔は、おれの母――いや、その頭部だ。ショートヘアを鷲づかみにされている母の頭部は、首の切り口から血を滴らせ、目を見開いており、半開きの口から舌を出している。
「貴也ちゃん、佳乃ちゃんに逆らってはだめだよ」
右手に出刃包丁を掲げる小杉は、あの夏用作業服を身に着けていた。見れば、彼の出刃包丁が血で染まっている。
「なんてことをしたんだ」
おれは震え上がった。最近の母を煩わしく感じていたのは事実だが、これではあまりにむごすぎる。惨殺されなけばならない罪など、母は何も犯していないはずだ。
掲げた出刃包丁を揺らしつつ、小杉が長靴のまま廊下から家に上がり込んできた。ほかの人々も土足で小杉に続く。母の頭部を提げた祖母の姿も集団の間に見えた。
「来るなよ」
後ずさろうとしたが、またたく間に取り囲まれてしまった。
「だから」目の前に迫った小杉がおれの喉元に出刃包丁を突きつけながら言った。「わたしが人を操れば、こういうことができる、ということよ」
佳乃の声だった。
おれは震えながら立ち続けていた。佳乃の家のリビングキッチンである。先ほどと変わらぬ埃まみれの部屋だ。
壁に背中をつけたままの佳乃を、おれは睨む。
「おれに幻覚を見せたんですか?」
「ふふふ……」
悪びれない笑顔で佳乃は首肯した。
やはり、おれは獲物として弄ばれていたのだ。ふつふつと怒りが込み上げてくる。
「偽りの記憶は、こうやって植えつけるんですか?」
「貴也さんの記憶はすり替えていないわ」佳乃は首を横に振った。「たくさんの幻を見せてきたけれど、記憶は全部、そのままよ。わたしと一緒に過ごした思い出は、真実でなければならない。でなきゃ、わたし自身が悲しいもの」
「幻を見せるのだって、だましたことには違いないでしょう!」
おれは声を荒らげた。
「それがわたしの生き方だもの」冷たい笑みだった。「わたしの力が回復したらどんなことができるのか、わかったでしょう?」
つまり、父が三島さゆりとのデートの最中に目の当たりにした光景が、再度、展開されるということだ。いや、それだけではない。
「川野の住民の全員を操って、近辺の集落を襲わせるとか……あるいは、銀行強盗をさせることだって可能、というわけですか?」
「貴也さんったら、恐ろしいことを考えるのね」
そう告げ、佳乃は失笑した。
「どんなに笑ってみても、今の佳乃さんは、人を操ることはできない」
「でもね」佳乃は言った。「住民たちとのコミュニケーションは円滑だし、この家や、洋服や、車や、香水のにおいに至るまで、すべての幻が上手に作れた」
いや――そうでないときもあったはずだ。
「おれが初めてこの家に来たときは、家の中をきれいに仕立てるのが間に合わなかったんじゃないんですか? おれが二度目に来たときは……あのときの家の中はきれいでしたが、それでも本当はこの状況だったんでしょう?」
皮肉を込めてやったが、佳乃は笑顔を崩さない。
この家を中心とした川野の一帯は、佳乃にとっては「巣」なのだろう。考えるまでもなく、おれはその巣にかかった獲物である。
「おれを罠にかけ、子供を……いや、卵を産む。そのために、環境を整えた?」
「ええ。貴也さんはここに来る前に、夏風邪で二週間も寝込んだわね。おかげで準備期間に余裕ができたけれど、心配したのよ。ちゃんと元気になってくれるかどうか、って」
「そんなことを言われたって、もうだまされない。佳乃さんは、奥の滝でおれを溺死させようとしたじゃないですか」
「まだ貴也さんの卵を宿していないのよ」佳乃の笑顔に柔らかさが加わった。「勾玉を入手させるわけにはいかなかったから、阻止しようとしただけ。怪我なんてしなかったでしょう?」
確かに、跡さえ残らなかった。
「だからって……」と声を吞んだおれは一つの事実に行き当たる。「そうか。人の考えが読めるから、勾玉が隠されていたことを知らないはずがない」
「そう、最初から知っていたわ。けれど、勾玉がそれぞれ離れたところにあれば……集められることがなければ、それでよかったの。でもわたしのその怠慢が、愛する貴也さんをあんな目に遭わせてしまったのね」
佳乃の言う「愛」とは何か、それが知りたかった。彼女はおれの父をも愛したのである。
「伊吹雅夫を諦めるしかなかったから、手っ取り早く、息子のおれを選んだんですか?」
「確かに、貴也さんが雅夫さんの子だったから、わたしはその存在に気づくことができたわ。でも、貴也さんを選んだ理由は、わたしが愛するにふさわしい男だったからよ」
「ふさわしい?」
「挫折に悩み、喘ぎ、悲しみ、そのあげく世の中をねたむ。そういう劣等感の塊のような男だもの。わたしにとって、貴也さんは理想の男なの」
恥辱と憤慨が一挙におれを襲った。何か言葉を紡がなければ、自分を維持できそうにない。
「でも、父を選んだ理由は違うんですよね?」
「何度も言うけれど、わたしを解放してくれたからよ」恍惚としたまなざしだった。「わたしは自分を救ってくれた雅夫さんをどうしても手に入れたかった。そのときが来るのを、雅夫さんが大人になるのを、わたしは何年も何年も待ったの。でも、地面の下に閉じ込められていた歳月を思えば、それくらいの時間、なんともなかったわ」
「父は別格なんですね。そして、おれは間に合わせですか?」
佳乃への思慕はなくなっていた。父への対抗意識もない。だが、おれを侮蔑するような言葉が、ただただ許せないのだ。
「わたしは地上に解放されてからも、多くの男と関係を持った。その中でも雅夫さんは別格よ。けれど、真菜さんの邪魔が入ったとはいえ、雅夫さんへの思いを捨ててまで夢中になってしまったの……貴也さんにね。間に合わせなんかじゃないわ。わたしは、今までのどの男より、貴也さんを愛してしまったのよ」
「佳乃さんの言う愛って、おれたち人間のとは違う」
「そうね」佳乃は目を細めた。「わたしの愛は、わたしのためだけにある」
そう、佳乃は「孤高を守る」と言っていた。佳乃が人を愛するということは自分自身を守るための習性なのだ。それに――。
「いくら愛したって、最終的には食べる」
「当然よ」
佳乃の瞳に狂気が宿った。次の瞬間には元の笑みを浮かべるが、佳乃の本能を垣間見た気がした。
「貴也さんがどう抗おうとも、わたしは貴也さんとの子……貴也さんとの卵を身ごもるわ。そして、貴也さんを食べて卵を産み、卵から孵った新しい子たちを使って、わたしに反旗を翻したあの四人の子を……雅夫さんとの子たちを一掃するわ」
「ちょっと待って」おれは声を上げた。「つまり、伊吹雅夫との子って、カズマやエリ、モリオ、キヨシ……」
「そうよ」
佳乃は首肯した。
「じゃあ、やっぱりあいつらは……」
宝探しの一コマ一コマが、走馬燈のように脳裏に浮かんだ。
「貴也さんの異母兄弟よ」
どうりであの四人とナナは仲がいいわけだ。あの四人にとっても、ナナは血の繫がった叔母なのだから。
「でも、佳乃さんが……三島さんが父の前から姿を消したのは、二週間前だったはず。この期間中にお腹が大きくなって、出産をし、生まれた子供が見た目十歳まで成長するなんて、どう考えても早すぎる」
「言ったでしょう。あなたたち人間とは違うの。人間と比較すれば、わたしの妊娠期間は短いわ。そして、生まれた卵もすぐに孵化する。子供たちの成長だって早ければ、彼らは自らの成長を止めることだってできる」
つまり、佳乃も、おれの異母兄弟であるあの子供たちも、その生態は人間どころか蜘蛛の生態とも異なる、ということなのだ。
「でも、そうやって生まれたあの子供たちは、佳乃さんを裏切りました」
おれが言うと佳乃は苦笑した。
「川野の環境作りで力を使い果たしたところに、真菜さんがまたしても現れたの。そして彼女は、卵から孵化したばかりの子たちを手なずけてしまった。真菜さんとあの子たちは、互いが血縁関係にある、と知ったわけ。だから、貴也さんとの子たちが真菜さんに言いくるめられないよう、今度こそは気をつけなければならないのよ」
「ナナちゃんは、そうやって積極的に佳乃さんを妨害していたのか」
おれが独りごちると、辟易した表情の佳乃がかぶりを振った。
「わたしは真菜さんを侮っていた。真菜さんは精強さを増しているわ。東京にいたときより、今のほうがずっと怖い。
わかるでしょう? 勾玉が隠されていた三カ所のいずれでも、わたしは真菜さんに太刀打ちできなかった。それにあの子は、見つけやすいように、錆だらけの缶をきれいに見せた。それだけの力があるのよ」
一見すると愛らしい少女にすぎないナナだが、佳乃にとっては猛威を振るう禍々しい亡霊であるに違いない。そのナナが、自分の甥や姪、すなわちおれやカズマたちを、ずっと守ってくれていたのだ。
「もういいかしら? 知りたいこと、わかったでしょう?」
しびれを切らしたように、佳乃はため息をついた。
この女を説得するのは不可能である。おれはそう悟った。
「佳乃さんは、人としては生きていけないんですね」
「わかってくれたようね」
喜色満面で佳乃は言った。
交渉は決裂してしまった。ならば、おれは子供たちの志を受け継がなければならない。
とはいえ、具体的に何をすればよいのか、まったくわからなかった。このままでは佳乃の望みどおりになってしまう。
左手に持つ石球を見下ろした。佳乃のような異形を封印したり、まやかしを解いたりするのは確からしい。だが、それ以外にどのような効力を発揮するのか、依然として不明である。もしくは、それ以外の役目は果たさないのかもしれない。
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