第9話 ②

 薄闇の中で静寂のときが流れた。しかし、おれの決意を揺るがすほどの時間ではなかった。

「もう諦めたんでしょう? さあ貴也さん、わたしに子種をくださいな」

 佳乃は妖艶な目つきだった。

「嫌だ」おれは佳乃を睨んだ。「佳乃さんが人を食べる存在なら、人として生きることを拒むなら、おれは人として抗うまでだ」

 そう断言し、左手の石球を突き出した。

 佳乃が顔を背けた。効力があるのだ――と胸が高鳴ったのも束の間、顔を正面に戻した佳乃は、再度、なまめかしい笑みを浮かべた。

「貴也さん、無駄よ」

 佳乃が石球を睨んだ。

 刹那、石球がぼろぼろに砕けてしまう。

「まさか」

 おれの左手から大小の破片がこぼれ落ちた。三つの勾玉は元の形のままだが、それらも石球の破片とともに足元に落ちる。

 頼みの綱が切れてしまった。

 おれはその場に両膝を突く。

「佳乃さんはこの玉に手出しができないはずじゃ……」

「それって、砕けていたものを繋ぎ合わせただけじゃない。強度なんてないも同然でしょう。それに、あの子たちの糸を剝がすくらいは造作ないわ。石材用の接着剤を使っていたなら、剝がせなかったかもしれないけれど。……一応、付け加えておくわ。その玉は、ただの石なの」

 壁に背中をつけたまま、佳乃は静かに笑った。

 石球の復元に糸が使われていたことは驚異だが、それ以上に、石球がただの石だったという事実に、おれは衝撃を受けた。

「さあ、貴也さん。何もかも捨てて、わたしを抱きなさい」

 佳乃の甘い誘いが耳朶に染み入った。

 歯を食い縛って首を横に振る。誘いに乗っても、その先にあるのは「死」なのだ。

「せっかく直したのになあ」カズマの声だった。おれの右に彼が立っている。「それに、ただの石なんかじゃないじゃん。お宝の力を通しやすい材質のはずだよ」

「何度も何度も貼り直してさ。そのたび、みんなで糸を出さなきゃならなかった」

 そう言ったのは、おれの左に立っているモリオだ。

「いっそ、街のホームセンターへ行って、石材用の接着剤を盗んでくればよかったのかもしれないね」

 佳乃が背にする壁、そのおれから向かって左端の辺りにキヨシが立っていた。

「泥棒なんてだめだよ」

 きっぱりと言いきったエリは、佳乃を挟んでキヨシとは対称の位置に立っていた。

「服やリュックを盗みに行ったとき、エリだって張りきっていたじゃん」

 モリオが言った。

「しょうがないでしょっ。あたしだって服が必要だったんだし。それに、あんたたち三人だけじゃ、必ずどこか抜けるんだもん」

 ふてくされたようにエリが反駁した。

 いつもの四人だった。先ほどのような陰気な声音ではない。

 だが、子供たちの顔を見たおれは、顎が外れんばかりに口を大きく開けてしまう。

 子供たちは四人とも、左右の眼球がドーム状に突き出ていた。半割りにしたピンポン球に瞳を描き、両目の上にかぶせた――かのようである。さらにそれぞれの両手を見れば、すべての爪が鋭く伸びているではないか。

「あなたたちはいつも喧嘩ばかりしているのね」呆れ顔の佳乃が、子供たちに視線を走らせた。「その程度の結束力なのに、わたしをこんな目に遭わせて。無鉄砲もいいところ」

「タカ兄ちゃんに何かあったら、おれたちだって困るし」

 カズマが皮肉っぽく返した。笑みをたたえた半開きのその口に、まるで鮫のごとく鋸歯がずらりと並んでいる。

 見れば、エリやモリオ、キヨシも、カズマと同様の鋸歯を口に覗かせていた。

「でもね、母親に対してこんな仕打ちはないと思うの」

 佳乃の言葉を聞き、おれは目を凝らした。佳乃の背中や手足、それらと壁とが接している部分から白い何かがはみ出している。そしてようやく気づいた。彼女は粘着物によって壁に貼りつけられていたのだ。

「母親というより、女王様でしょっ!」

 エリは怒鳴ると、突き出ている左右の眼球をぐりぐりと動かした。

「女王様……いい響きね」佳乃がエリに笑顔を向けた。「自分の子たちをしもべとして使うわたしに、ぴったりだわ」

「おれたちはただのしもべかよ」

 吐き捨てたモリオが、両手の鋭い爪をわなわなと震わせた。

「蟻とか蜂みたいじゃん」

 キヨシも両手の爪を震わせた。

 それは怒りの表現ではなかったらしい。四人の子供たちは声を上げて笑った。しかし四人とも、眉とまぶたが存在しておらず、突き出た眼球は表情を作れない。異形と化した子供たちが、表情のない目を動かしながら、飽きることなくげらげらと笑い続ける。

「本当に下品」佳乃は言った。「でもおかげで、わたしが手を下すまでもなく、この子たちの悪印象を川野の人たちに植えつけることができた」

 凄烈な言いようだが、そのせいか、子供たちの笑いがやんだ。

 八個の突き出た眼球がぐりぐりと動き続ける。

 不安を増長させる静けさだった。

 佳乃が子供たちの顔を見回す。

「昔の人たちはわたしを絡新婦と呼んでいたけれど、女王蜘蛛のほうが合っているかもしれないわ。わたしは高貴な存在ですもの」

 そして「ほら」とつぶやいた。

 佳乃の背中と腕、足が、無数の白い糸を引きながらゆっくりと壁から離れた。

「かかったふりをしていたな!」

 声を荒らげたカズマが、突き出た左右の眼球をぐりぐりと動かした。

「子供って、本当に単純ね。あなたたちの糸を剝がすくらいは造作ない、というわたしの言葉、近くで聞いていたんでしょう?」

 壁から一歩だけ前に出た佳乃が、高慢な笑みを浮かべた。

 さらに佳乃は、「ねっ」と上半身をよじった。背中や肘についていたはずの粘着物が消え失せている。彼女の背後の壁にも、白いねばねばしたものはすでになかった。

「足が……」とわめいたモリオが、二本の足を床にぴたりとつけた状態で上半身を揺すっていた。見れば彼の足元から膝までが、白い粘着物に覆われているではないか。

「ぼくもやられた」

 キヨシもその場でもがいていた。やはり両足を粘着物にとらえられている。

 同様に、カズマとエリも両足を固定されていた。

「いいことを教えてあげる」佳乃は言った。「わたしの砦でもあるこの家の中では、真菜さんは姿を現すことができないの。ここで幻影を作れるのは、わたしだけ。それだけじゃないわ。実体を持たない魂だけの状態でも、ここに入ってくることはできない。真菜おば様の助けはないのよ」

 満足そうに語った佳乃は、おれに視線を移した。

 膝を突いたままのおれは、自分の足はまだ自由である、と悟った。しかし、蛇に睨まれた蛙のごとくまったく動けない。

 石球の破片の一つをつまみ上げた佳乃が、子供たち一人一人に笑みを送る。

「この子たちの体は、次に生まれる子たちのために、この部屋に保存しておきましょう」

「兄弟が兄弟を食べるなんてだめだよ」エリが鋸歯を剝き出して訴えた。「あたしたちには兄弟を食べる機会がなかったけど、それでよかったんだ。本当は兄弟を食べちゃいけないの。ナナちゃんが、そう教えてくれたんだから」

「今までの兄弟たちも、わかっていたはずなんだ……」

 そう漏らすカズマが悔しがっているのは、理解できた。もっとも、その面貌から喜怒哀楽を読み取るのは不可能である。

「子供たちの処置はあとにして、まずは貴也さんと……ね」

 カズマとエリを無視した佳乃が、舌なめずりした。それが無意識の仕草なのか演出なのか、おれにはわからない。

「子供たちにそういう光景を見せるのはよくないかもしれないけれど、それだけに、お互い、興奮するんじゃないかしら」

 手にしていた石球の破片を部屋の隅にほうった佳乃が、ゆっくりとおれに近づいてきた。

 四人の子供たちが、がちがちと鋸歯を鳴らす。

「子供たちが悔しがっているわ。いい雰囲気でしょう?」

 佳乃の声が、体が、おれを誘惑する。いつの間にかシトラス系の香りまで漂っているではないか。だが、断固として抗わなければならない。

 あと二歩、というところで、佳乃の足が止まった。

 彼女のつま先付近に三つの勾玉が落ちている。

 見上げると、端整な顔がわずかに引きつっていた。

 砕けてしまった石球はお宝の力を通過させる材質でできていたらしい。力を有する物質を固定し、その力をどの方向にも発散させるための器だった――ということだ。

 おれはとっさに右手で三つの勾玉を拾い、立ち上がった。

 勾玉にふれることのできない子供たちは、勾玉の収集と佳乃の撃退という二つの難題をクリアするためにおれを頼ったのだ。そして、おれが勾玉に興味を抱くように――それだけの理由で石球を復元したに違いない。

 つまり――。

「これか!」

 三つの勾玉を載せた右手のひらを、佳乃の胸にふれんばかりに突き出した。

 佳乃が顔を背けた。同時に、佳乃の胸元を中心として――そう、あの軽自動車と同じく、まるで虫に食われたかのように、ブラウスにいくつもの穴が穿たれていく。

 やはり力を有するのは勾玉本体――三つをまとめた状態の勾玉だったのだ。しかも対象に近づければ近づけるほど効果が増すらしい。

「貴也さん、やめて」

 佳乃は胸元を両手で隠すが、いくつもの虫食いはどんどん大きくなっていった。虫食いから垣間見える白いブラジャーにさえ、その効果が生じている。左脇腹の傷があらわになった。

「この勾玉の前では、佳乃さんの作った紛い物は消えてしまうんだ!」

 そういった効果だけではないはずだ。子供たちが絶対にふれなかった勾玉である。これを押しつければ佳乃は退散するに違いない。

 佳乃は身をよじるが、彼女の下半身にも勾玉の力が及んでいた。ジーンズの至るところに大小の穴が見える。

「なーんて恥ずかしがったら、雰囲気はさらに盛り上がるでしょう?」

 佳乃はにやりと笑った。

「あっ」と声を上げたときには、おれの両足は動かなくなっていた。子供たちと同じく、左右とも膝から下に白い粘着物がまとわりついている。まるで生き物のように細かく蠢くそれは、デッキシューズの中やジーンズの内側にまで入り込んでおり、嫌らしいほどの生温かさを伝えてきた。

 思わず、右手をさらに突き出した。しかし佳乃は、一歩、素早く後ずさる。勾玉はもう届かない。

 いや、勾玉は効力を発揮しているようだ。ブラウスとジーンズ、おのおのに穿たれたいくつもの虫食いがさらに大きくなっていく。

 ふと、佳乃は胸元を隠す両手を下ろした。かろうじて裸ではないが、へそが丸見えというあられもない姿だった。

「この傷」佳乃が自分の左脇腹を見下ろした。「あの夜にわたしを抱いていたら、見ていたでしょうね……なんて言ったけれど、あれもうそよ」

 佳乃は顔を上げ、そして笑った。

「あれも、うそ?」

「ええ、うそよ。あなたたちは奥の滝の手前で休んでいた。そのときにカズマくんに嚙みつかれたのよ」

「あの叫び声は、やっぱり……」

 おれは佳乃を睨んだ。

「そう、わたしよ」首肯した佳乃は、続ける。「一週間は会わないでいましょう、と貴也さんに言ったわよね? この子たちをどうにかするための策を時間をかけて練りたかったのは、事実よ。けれど、わたしの力を回復させるためでもあった」

「しばらく休んで、ナナちゃんに太刀打ちできるまでにしたかったとか?」

 おれは問うた。

「そのとおりよ。それなのに、あなたたちは勾玉を集め始めた。焦って阻止しようとしたら、こんな傷を負ってしまったわ」

「ざまあみろ」とカズマが吐き捨てるなり、佳乃は肩をすくめた。

「でも、最後に笑うのは、わたしなの。貴也さん、その勾玉を捨てなさい。そして、わたしと一つになるのよ」

 佳乃の誘惑が続いた。

 右手を突き出したまま、おれは首を横に振る。

「おれは佳乃さんに見切りをつけたんだ。それに、今の佳乃さんには人を操る力はない。だから佳乃さんは、おれを思いどおりにはできない」

「確かに今のわたしには、人を自在に操る力がない。それに、記憶を操作して強制的にわたしのものにしても、わたし自身の矜恃が許さない。いつだって本当に愛されたいの。だから、交わる相手に対しては、記憶のすり替えをしないわ。……さあ、せっかくこんな恥ずかしい格好にしたのだから、中途半端じゃなく、最後まで満足させて」

 そう言った佳乃が、おれをじっと見つめた。

「嫌だ。おれは、あんたなんかに……」

「貴也さんは自分を偽っているわ」

「偽ってなんかいない」

「あの日、貴也さんがバス停に立ってすぐ、わたしは糸を使って貴也さんの心を探ったの。貴也さんが何に苦しみ、何に悲しみ、何を欲しているのか……わたしがこれまでに得たそれらの情報が正しいかどうか、確認したのよ」

 佳乃が目を細めた。

「あのときの粘着物も幻覚じゃなかった?」

「そう、幻覚じゃなかったわ。離れている位置にいる人の心を読むのって、とても疲れるの。でも糸を使えば、どんなに離れていても簡単に本心が読める」

「糸を使って心を読む……」

「いつもなら糸なんて使わないで心を読むのよ。子供たちに状況をしつらえてもらって、相手の近くで心を読むの。雅夫さんのときは由佳に手伝ってもらったわ。……そうそう、貴也さんも雅夫さんも、心を探られている間は、呆然としていて、とても可愛かった」

 佳乃は噴き出した。

「ふざけるな!」

 たまらず、おれは怒鳴った。

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