第9話 ③
「けれど」佳乃は笑いながら言う。「わたしはこの子たちに裏切られたでしょう。だから、糸を使って貴也さんの心を読んだの。そして、貴也さんの理想とする女になった」
「理想だって?」
「郁美さんとは違うタイプの女にね」
「そんなこと、できるわけがない」
「できるわよ。貴也さんは、郁美さんに振られて安心しているんでしょう? 時間が経てばどうにかなる……ほうっておけば郁美さんは勝手に離れてくれる……貴也さんはいつだって他力本願だもの。惨めさを極めた貴也さんって、とても素敵だわ」
「やめろ」
見抜かれていた。
「ちゃらちゃらした女は、嫌なんでしょう?」
「やめろ!」
全部、知られていた。
「就活に失敗したことをずけずけと責め立てる女は、嫌なんでしょう?」
「やめろやめろやめろ!」
おれの心奥はすべて読まれていたのだ。
「外見だって、できる限り貴也さんの好みに近づけた。おかげで、三島さゆりとは微妙に体型が変わってしまったわ。雅夫さん好みの体型ではなくなってしまったの。川野の人たちには三島さゆりの外見で接していたから、すぐにみんなの記憶をすり替えたわ。佐久本佳乃の姿は今のこの姿なんだ、とね。……わかるでしょう? 今のわたしは貴也さんにとって完璧な女なの。そのわたしを貴也さんが拒むはずがない。何もかも忘れて、今すぐ、わたしと一つになるのよ」
「いい加減にしろ!」
誘いに乗るつもりなどなかった。
このときのために子供たちは宝探しを敢行した。そんな子供たちの指導者たるナナは、おれが宝探しをやめようとするたびに、その都度、導いてくれたのである。おれの心に介入してまで――。
だからこそ、おれはもう迷わない。たとえ佳乃にかなわなくても、もう二度と、ナナとこの子供たちを――おれの大切な仲間を裏切らない。
決意を胸に焼きつけたおれは、佳乃を睨んだ。
右手が届かないのなら投げつけるだけだ。
三つの勾玉を握り締めた次の瞬間、白くて細長いものが目の前に現れた。紐のように細長い粘着物が天井から素早く垂れ下がり、おれの右手首に巻きついたのだ。そしてそれは、天井とおれの右手首とを繫いだ状態で、またたく間に金属の棒のごとく固くなった。手首に伝わるその生温かさが不快極まりない。
左手に勾玉を持ち替えようとしたが、天井から垂れ下がったもう一本の粘着物によって左手首も拘束されてしまう。
「ちくしょう!」と叫ぶが、突き出した右手と上げかけた左手は、その状態のまま、まったく動かなかった。とっさの反撃を封じられたということは、瞬時にして意図を読まれたに違いない。
両手両足は確実に動かない――つまり、佳乃がおれの体を操っていないとすれば、この粘着物は実体であるはずだ。それに幻覚であるなら、勾玉の近距離にあって消えないはずがない。実体なら実体で、勾玉を押しつければ劣化する可能性があるだろう。もっとも、この現状では試せるわけなどない――というより、両手が自由なうちにその仮説に気づいていれば、おれの両足を固定している粘着物をどうにかできたかもしれない。冷静になれなかった自分が口惜しかった。
「ねえ、貴也さん。記憶はいじらないけれど、体の自由を封じるのはいいでしょう? 体は正直よ。貴也さんの体が快楽に耐えられるかどうか、貴也さんの体に訊いてみるわ」
佳乃の顔に淫猥な笑みが浮かんだ。
逃げようにも逃げられず、抗おうにも抗えず、おれはただ固唾を吞む。
「わたしは貴也さんとの卵を身ごもり、貴也さんを食べる。そして生まれた子たちは、この四人の子たちを食べる。そのためにも、まずはその勾玉を、糸を使って弾き飛ばしたほうがよさそうね」
佳乃の右手がおれに向かって伸びた――そのとき。
玄関のほうで足音がした。足音というよりは靴音だ。何者かが廊下を歩いてくる。聞く限りでは、堂々とした歩みで早めの歩調だった。
佳乃の顔に驚愕が浮かんだ。
開け放たれているドアから靴音の主が入ってきた瞬間、おれは顔をそちらに向けた。
白目を剝いているその人物は、おれの父だった。
「父さん――」
おれの声に反応を示すことなく、父はおれに近寄り、三つの勾玉を右手で引ったくった。
「どうして?」と目を見開いた佳乃が、後ずさった。
「ああ……はは……はは……」
父の口からうめきとも笑いともつかない声が漏れた。
ゆっくりと後ずさった佳乃が壁に背中を押し当て、動きを止めた。
「あなたは……伊吹真菜」
つぶやいた佳乃に、父が迫る。
見ると、父の膝から下にも白い粘着物が絡まっていた。しかしそれは、靴底を床に接着することなく、父が足を運ぶごとにどこまでも伸びてしまう。
「やめて!」
佳乃が叫んでも父は止まらなかった。
厳つい左手が佳乃の華奢な右肩を鷲づかみにした。そして、勾玉を持つ右手が彼女の口を覆う。
「嫌……ううう!」
佳乃が声を立てた。激しくもがくそんな彼女を、父は離さない。
ブラウスの生地はほとんどが残っていなかった。かろうじて乳首を隠しているブラジャーに至っては、幻覚であるためか、肩紐やベルトが損失しているにもかかわらず、床に落ちない。
「ぼわっ!」と声を上げた父が仰向けに倒れた。白目を剝いたまま、床の上で動きを止める。
「ぎゃあああああ!」
すさまじい叫びを上げた佳乃が、二歩、前進し、床に膝を突いた。父の足先にふれんばかりの位置である。
その佳乃の顔が、醜く焼けただれていた。額や頬からわずかに煙が立っている。あの美貌が見る影もない。なんとなく、写真立てにあった中年の女に似ている気がした。
何かが佳乃の口から吐き出された。父の足先付近に落ちたそれらは三つの勾玉だった。
おれの左右の手首に巻きついている粘着物が徐々に細くなっていく。見下ろせば、両足にまとわりついている粘着物も縮んでいくではないか。父の足や子供たちの足にへばりついているそれぞれも、じわじわと収縮していくところだった。
「やっちゃえ!」
カズマが声を上げたときには、それらすべての粘着物が完全に消え失せていた。おれの手足はもう自由である。
四人の子供が一斉に佳乃に飛びかかった。
「やめなさい!」両手を振り回し、佳乃は抗った。「あなたたちは、わたしのしもべなのよ!」
「ナナちゃんが教えてくれた」エリは言いながら佳乃の左腕に組みついた。「母親の言いなりにならなくたって生きていけるんだ、ってね」
「生きていける? あなたたちはこれからも、野良犬の肉団子や猪の肉団子を、おまんじゅうと偽って食べていくつもりなの?」
抗いながら佳乃は問うた。
「肉団子があれば十分なんだよ」モリオが佳乃の髪の毛を引っ張りながら答えた。「それに……」
「ナナちゃんがいれば、肉団子だってまんじゅうに見せられる」
佳乃の右腕を押さえつけているキヨシがそう付け加えた。
「だから、人間の世界でも、うまく生きていけるんだ!」
叫んだカズマが佳乃の顔を鋭い爪でかきむしった。
「やめなさいと言っているの!」
金切り声とともに佳乃が立ち上がった。
四人の子供が仰向けに倒れる。
「わたしにかなうわけないでしょう!」
そう怒鳴りつけるが、佳乃の面貌はさらに崩壊していた。焼けただれた皮膚はめちゃくちゃに剝がれ、毛髪は半分以上がむしり取られている。
それよりもおれの目を見開かせたのは、彼女の顔面からあふれ出る体液だった。血液とおぼしき赤もあれば、灰色や黄色や青もある。
「おおおっ!」
雄叫びとともにカズマが佳乃に飛びかかった。
しかし、素早く躱した佳乃がカズマの左腕に食らいつく。
エリとモリオ、キヨシも飛びかかろうとするが、三人とも、弾き飛ばされたカズマの体に当たってしまう。
床に転がった四人を見下ろす佳乃が、カズマの左前腕をくわえていた。
「もうやめてくれ」おれは佳乃に言った。「カズマが死んでしまう」
カズマの左前腕が床に落ちた。
「この子たちは本気よ。手を引いたら、わたしが食べられてしまうわ」
そう訴えた佳乃も、子供たちと同じように変貌していた。どろどろの肉塊の中にある双眼は突き出ており、口には鋸歯が垣間見えた。両手のそれぞれの爪も、鋭く伸びている。
エリとモリオ、キヨシらが、ゆっくりと立ち上がった。
遅れてカズマも立ち上がる。だが、彼は左前腕を損失するという重傷だ。その傷口から流れ落ちるのは、やはり、何色もの体液である。
「カズマ、もうやめよう。このままじゃ、おまえが死んでしまう。早く手当をするんだ」
たとえ人間でなくても、おれの弟であることに変わりないのだ。死なせるわけにはいかない。
だがカズマは、突き出た眼球をぐりぐりと動かしながら、首を横に振る。
「ナナだって、無理して勾玉をつかんでくれたんだ」
そう答えるや、カズマは体を大きく震わせた。見る間に左腕の傷口が塞がる――と同時に、Tシャツを突き破り、左脇腹からもう一本の左腕が現れた。
「なんだよ、それ……」
おれは息を吞んだ。
カズマの新しい左腕――その付け根の位置がぐいぐいと上に移動した。新しい左腕の移動に合わせ、前腕を失った左腕が肩の上まで押し上げられる。Tシャツは左半分が割けてしまったが、新しい左腕は、人間としては正常な位置に落ち着いた。人間は四肢であるが、蜘蛛は倍の八本だ。とはいえ、カズマのこの変態がそれを活かしたのか否か、おれにはわからない。
エリとキヨシが、佳乃の下半身に組みついた。
佳乃の顔面から原色の体液が飛び散る。
床、壁、子供たちの体、父の体、おれの靴先もが、毒々しく染まった。
「こんな冒涜、許されるはずがない」
憤然としてそう告げる佳乃をモリオが羽交い締めにした。
上腕を左肩に生やしたカズマが、「こいつを食べるぞ!」と叫びつつ、佳乃の正面に立った。
「おまえら、人も兄弟も食わない、って言ったばかりじゃないか!」
おれが訴えると、カズマは振り向き、突き出た左右の眼球をぐりぐりと動かした。
「だってこいつは、人でもおれたちの兄弟でもないよ」
そしてカズマは三人の兄弟と一緒になって、佳乃を仰向けに押し倒した。
布を引き裂くような鈍い音が聞こえた。
足の力が抜けてしまい、おれはその場にへたり込んだ。
父は白目を剝いたまま動かない。
鋭い爪。
ぎざぎざの鋸歯。
突き出た眼球。
原色の体液。
「わたしが自分の子に食べられるなんて、絶対にあってはならないの!」
佳乃が叫んだ。
惨劇は続いている。
おれは意識は闇に落ちた。
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