第9話 ④
左の頬を軽く一発、叩かれた。
「貴也、起きろ」
目を開けると、父がおれを覗き込んでいた。
「父さん……」
おれは上半身を起こした。空のリュックは背負ったままだった。
おれの右で片膝を突いている父が、眉を寄せる。
「怪我はないか?」
「うん、大丈夫みたいだけど」
「ならいいが。ところで、ここはどこなんだ?」
「どこ……って、佳乃さんの家……」
厳密には佳乃の家ではないはずだが、それ以外の答えが思い浮かばなかった。だいたい、自分で足を運んでおいて人に尋ねるのも妙である。
「ここで何があったんだ?」
重ねて問われた。
「何って……えーと……」
答えられず、周囲を窺う。
間違いなく、あのリビングキッチンだ。というより、先ほどと変わらぬ老廃した空間である。もっとも、床には争ったらしい痕跡が認められ、足跡が増えていた。
足跡は裸足のものと靴跡らしきものが入り交じっていた。裸足の足跡は大人のものだが、靴跡は子供のものと大人のものがある。大人の靴跡には少なくともおれと父のぶんもあるはずだ。
足元に落ちていたはずの三つの勾玉がどこにも見当たらなかった。カズマの左前腕も消えている。粘着物や原色の体液に至っては、床にも、壁にも、おれの身体にも父の体にも、付着した形跡がまったくない。とはいえ、石球の破片は散らばったままだ。
「父さん、みんなは?」再度、見回すが、子供たちや佳乃の姿はどこにもない。「おれたち以外には誰もいないの?」
「ああ。誰もいないな。というより、誰かいたのか?」
「いたのか、って……」
現状が把握できなかった。とりあえず、伸ばしていた両足を曲げてあぐらをかく。腕時計を見て午後二時を過ぎたばかりであると知った。
「ていうか、どうして、父さんはここに来たの?」
頭の中を整理する時間を稼ぐためにも、父に尋ねた。
「わからんよ」
「え?」
ここに乱入してきた父の形相を顧みれば、拍子抜けもするだろう。だが、佳乃の言葉を思い出し、おれは理解した。父は伊吹真菜――ナナに憑依されていたのだ。記憶がなくても無理はない。
「ばあちゃんの家に戻ってから」父は言った。「美沙も来ていなかったし、すぐに田んぼのほうに歩いていったんだ。しかし、子供たちの姿は見当たらなかった。それで、もしかしたら、と思って北の林の中に入ってみたんだよ。できれば、あの祠を起こしてやりたかったし」
宙に視線を漂わせながら、父は口をつぐんでしまった。
「何? どうしたの?」
「おれが覚えているのは、北の林の中に入った辺りまでなんだ。気づいたら、ここで仰向けになっていた」
「そうだったんだ」
おれが頷くと父は不安げな色を呈した。
「今の説明で納得できたのか?」
「うん。何もかもが常軌を逸していたからね。……あのあと、おれも北の林に入ったんだ。もしかすると、父さんは北の林の中でおれのすぐ近くにいたのかもしれないよ。お互い、まったく気づかなかったけど」
「かもしれないな」
「父さんこそ、今ので納得したのかよ?」
「納得したよ」と答えた父が、おれに右手を差し出した。その手のひらに、三つの勾玉が載っている。佳乃の口から吐き出されたはずだが、唾液などは付着していない。
「おれの近くに落ちていた」
「その勾玉を手にして、なんともない?」
おれは父の顔をまじまじと見た。
「別に、なんともないが」
訝しむような目で父はおれを見返した。
「なら、いいけど」
カズマが言ったとおり、ナナは無理をしたに違いない。生きている人間の体を借り、佳乃の砦であるこの家に入ったものの、勾玉の圧倒的な力に耐えきれず、すぐに倒れてしまったのだ。
「勾玉は役に立ったのか?」
父は問いつつ、三つの勾玉を手のひらの上で揺らした。
「うん。でも、もう必要ないと思う」
「なら、これを子供たちに渡してやれ」
「あいつらには、さわれないんだ」
うっかり言ってしまった。
「あの女の血を受け継いだ子供たち、そうなんだな?」父の目に力が入った。「貴也のその表情からすると、おれに言うつもりはなかったようだが……もしかすると、その子供たちはおれの子、なのか?」
推測を関連づけていく様はまるで名探偵だ。とはいえ、平静でいられるということは、ある程度は予測していたに違いない。
「そうだよ」
ごまかせず、肯定した。
「だったら、貴也が持っていろ」
父は告げるなり、右手をおれの目の高さに掲げ、三つの勾玉をぽろぽろと落とした。
「おっと」両手で受け止めたおれは、言う。「父さんが持っていればいいじゃないか」
「どうして?」
「佳乃さんは、まだ生きているかもしれないんだ」
「勾玉は必要ないんだろう?」
「ひとまずは大丈夫、っていうことだよ。おれも最後は気を失っちゃって、佳乃さんがどうなったのか、わからないんだ」
右手のひらにまとめた三つの勾玉を見下ろしながら、おれは言った。
「なら」父は立ち上がった。「それは、お守りだと思って持っていればいいさ。とにかく今は、ここを出よう。何があったのかは、あとで詳しく聞かせてもらう」
「わかった。でも、これを使いこなしたのは、父さんだったし」
言いながらおれも立ち上がった。
「おれが使いこなした?」
「あとで詳しく聞くんだろう?」
「そうだったな」と答えた父は、おれに促され、開け放たれているドアへと向かった。しかし、不意に立ち止まる。
「どうしたの?」
「いや」父は室内に目を走らせた。「今、妹の……真菜の声が聞こえたような気がしたんだが。ああ、真菜おばさん……わかるよな?」
「うん」
「真菜は三歳のときに自宅の裏の川で溺れて死んでしまったが、おれはずっと考えていたんだ。あの女に殺されたんじゃないか、ってな。それが判明したところで真菜は帰ってこない。だがな、もしあの女が犯人なら、真菜の死はおれの責任でもある。そういうことになるんだ」
重い口調だった。
歩き出そうとした父を、おれは呼び止める。
「父さん」
「ん?」
「父さんは、真菜おばさんを大事に思っていた?」
まっすぐな瞳がおれの正面にあった。
「今でも大事に思っているさ」
「なら、真菜おばさんは嬉しく思っているよ」
「貴也の言うとおりなら、おれも嬉しいな」
父はほほえんだ。
廃屋の外へ出ると、すえたにおいから解放された。
玄関のドアを閉めた父が、廃屋に正面を向けるなり、数歩、下がった。
「この家、なんだか哀れだな」
廃屋を見ながら父は言った。
「哀れ?」
父に並んだおれも、廃屋を見た。
「本当だったら」父は言う。「この家には生活があったはずだ。住人の喜びや悲しみ、そういった日常を優しく包んでいたはずなんだよ」
父はこの家を自分に重ね合わせているのかもしれない。これまでの日常を失ってしまった一人の男の嘆き――という趣があった。
だが、日常が失われたとしても、それが現実ならば受け入れなくてはならない。幻にすがっていては前に進めないのだ。そんな感慨を、おれは嚙み締めた。
おれたちは互いの体についた埃を払い合ってからその場をあとにした。
もっとも、父の服についていた土は、手で払った程度では落ちなかった。
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