第9話 ⑤(最終回)

 祖母の家に戻ってみると、玄関に一足の運動靴があった。男物で、薄汚れている。

 二人ぶんの笑い声が居間のほうから聞こえた。うち一人は、男だ。

「嫌な予感がするな」

 父は顔をしかめた。

「知っている人?」と尋ねたが、来客の声をどこかで聞いたことがあるような気がした。

「ああ。たぶん、おれの旧友だろうな」

 目星はついているのだろう。

 父に続いて居間に入ると、祖母と小杉が座卓を挟んで座っていた。小杉はまたしても夏用作業服である。佳乃の家で見せられた幻覚を思い出し、おれはかぶりを振った。

「雅夫ちゃん、久しぶり」

 あぐらをかいてリラックスしている小杉が、麦茶のグラスを座卓に置き、父を見上げた。

「小杉よう、犬のマルの件で押しかけてきたのか? 動物の愛護及び管理に関する法律、なんていうものを持ち出すんじゃないだろうな?」

 父は立ったまま声を尖らせた。

 顔を引きつらせた祖母が、父を睨む。

「こら雅夫、なんだいその態度は。いくら幼なじみだからって、礼儀っていうものがあるだろう。小杉さんはマルのことを話しに来たんじゃないよ」

「まあまあ」小杉は笑った。「あれはおれが悪かったんだ。普段から繫いでおかなかったしな。首輪なんて犬が可愛そうだ、と思っていたんだが、それが間違っていた。動物の愛護……えーと、そのなんとかという法律を持ち出したら、おれのほうこそ立つ瀬がないよ。マルが子供を嚙んでいたら、そっちのほうが問題になっていただろうし。……貴也ちゃん、あのときは悪かった。ごめんな」

「いえ、そんな」

 返す言葉がなかった。

「あの四人の子供にも悪いことをしたよ」和やかな表情で小杉は言った。「特に、花壇の花を一人で見ていた小学四、五年生の女の子。あの子には本当に怖い思いをさせてしまったなあ。今度、あの四人を見かけたら、ちゃんと謝っておくよ。というか……今日、ここに来たのは、おばちゃんの言うとおり、そういう話のためではないんだ」

 四人の子供、と言った小杉には、ナナの姿は見えていなかったのだろう。

「だからなんだよ?」と父は吐き捨てるように問う。

 その隣に立つおれはおろおろするばかりだ。

「なんだか、頭がすっきりしちゃってさ」

 小杉は答えた。

「よくわからないが」と仏頂面で言った父が、おれを見た。小杉の言葉の意味を訊きたいのだろう。だが、同じく小杉の言葉を理解できなかったおれは、首を傾げる。

「言い方を変えれば」小杉は続けた。「いつの頃からかわからないけど、毎日のように、なんとなく、ぼーっとしていたんだよ。それに、意味もなくいらいらしたりさ。たぶん、そんな感じだったな」

「なんだよ、その、たぶん……っていうのは」

 そうこぼした父が、呆れたようにため息をついた。

 小杉は苦笑している。

「あの感覚は、自分でもよくわからないんだ。ところが、さっき……お昼を過ぎた辺りなんだけど、急に頭がすっきりしたんだ。うちのおふくろや、外で草刈りをしていた隣の家のじいちゃんまでもが、急にすっきりした、と揃って言うもんだから、話を聞いてみると、やっぱり、二人ともしばらく前からぼーっとしていたみたいなんだ。うちの向かいのおばちゃんも同じことを言っているし。それで、矢吹さんのおばちゃんはどうなのか、気になって確かめに来たわけさ」

「おまえさ、自分でもよくわからない、なんて言っているけど、ぼーっとしたりとか、いらいらしたりとか、リアルタイムでの自覚はあったのか?」

 父は小杉に尋ねた。

「いいや、自覚していなかったよ。うちのおふくろや隣のじいちゃんも、自覚していなかったみたいだな。すっきりしたあとで、みんなと話しているうちに、今までは気分が安定していなかったかもしれない、って気づいたんだ」

 小杉の説明を聞いたおれは悟った。熟考するまでもない。やはり、もう済んだのだ。

 父も理解したのだろう。宙を見つめて何度も頷いている。

「ばあちゃんも、やっぱりすっきりしたの?」

 おれが問うと祖母は父以上に激しく頷いた。

「そうなんだよ。不思議なこともあるもんだね。今思えば、ほかの人たちと同じように、気分だか精神だか、そういうのが不安定だったんだろうね。それが、まったく同じ時間に、頭がすーっとしちゃったんだよ。気温とか気圧とか湿度の変化のせいじゃないかなあ、って話していたところだったの。えーと、それにしても……」

 祖母はおれと父とを交互に睨んだ。

「こんな時間までどこをほっつき歩いていたんだい? 雅夫はいったん帰ってきたけど、またふらりと出ていっちゃったし。それに……雅夫ったら、いい大人のくせして服をこんなに汚しちゃって。泥みたいだけど、もう乾いちゃっているよ。いったい、何をしていたんだろうね。あとでじいちゃんの服を出してあげるから、ちゃんと着替えなさいよ」

「ああ……うん……」と父は曖昧に答えた。

「二人とも買い物に出かけたはずだけど、貴也の父さんは田んぼの中で買い物をしていたのかい?」

 祖母の詰問がおれに向けられた。

「いや、佳乃さんの家に――」

 答えかけたおれは父の肘鉄を食らった。

 父を睨んだおれは、抗議の言葉を直前で吞み込む。確かに、佳乃の家が朽ち果ててしまったこの現実を川野の人々は受け入れがたいだろう。

「え? 誰の家だって?」

 そう尋ねたのは、祖母だった。

「ヨ、シ、ノ……おれも知らねーなあ」

 小杉は首を捻っている。

「何それ……」とおれは言葉を詰まらせた。二人とも、佳乃の存在が記憶から消えてしまったのだろうか。

「そういうことにしておけよ」父がおれに囁いた。「みんな、彼女の束縛から解放された。そういうことだ」

「でも父さんは、佳乃さんを覚えているんだろう?」

 小声で尋ねた。

「ああ」

「おれだって覚えているけど、どうしてだよ? なんで、ばあちゃんと小杉さんには佳乃さんの記憶が残っていないんだよ?」

「さあな。佐久本さんの記憶が残っているおれたちの共通点、といえば、佐久本さん……というか、あの女との恋愛関係にあったことくらいだが」

「ああ、そうか」

 おれは――いや、おそらく父も、記憶のすり替えをされていない。佳乃は、交わる相手との思い出を偽りのものにしたくなかったのだ。幻覚は散々見せつけられたが、結果的に、おれと父にはすべての記憶が残ってしまったわけである。

「何か悟ったのなら、あとでちゃんと教えろよ」

 父はおれの耳元でさらに声を潜めた。

「親子で何をこそこそとやっているんだろうね」

 呆れ顔で祖母が肩をすくめた。

 だが、佳乃が存在した証拠は残っているはずである。

 おれは戸棚の前まで歩いた。

「ばあちゃん、引き出しを開けていい?」

 祖母の返事を待たずに引き出しを開けた。戸惑いの表情を表す祖母を尻目に、引き出しに収まっている書類や雑誌を持ち上げる。

「見られてまずいものは入っていないから、別に構わないよ。けど、いったい何をしているんだい?」

 不審そうに祖母は問う。

「佳乃さんから引っ越しの挨拶品をもらったじゃん。見せてほしいんだよ……そのときの、のし紙をさ」

 答えながら引き出しの中を調べたが、のし紙は見つからなかった。

「そんなものは入っていないよ。だいたい、ヨシノさんだかヨソノさんだなんて、あたしは知らないし。それに、挨拶品って、どんなのだったの? 洗剤かタオルなの?」

「おれが見せてもらったのは、のし紙だけだよ。ていうか、東の砂利道の途中に家があるだろう。そこに越してきたじゃん」

 あの廃屋はいずれ見られてしまうのだ。言っても構わないだろう。

 もっとも、黙り込んでいる父は、疲れたようにうな垂れていた。

「あそこは」祖母は言った。「ずっと空き家だよ」

「空き家だよなあ」

 小杉が追従した。

「だったら」おれは自分を抑えられなかった。「佳乃さんに焼き肉のたれをあげたじゃん。焼き肉が好きだから、ってさ」

 引き出しを閉じ、祖母を見下ろした。

「焼き肉の……そういえば」思い当たる節があるらしく、祖母は目を見開いた。「小杉さんが来るちょっと前に、頭がすっきりしたところで家計簿をつけていたの。それで気づいたのよ。焼き肉のたれを多めに買っちゃったみたいなんだけど、ないんだよ、二本ばかり。なんで二本も余計に買ったのか、理由も覚えていないんだよ。ぼけちゃったのかしらねえ。それとも、気分が安定していなかったせいだったりして」

 祖母の声がやけに遠かった。

 振り向き、小杉の横に立っている父を見る。

 しかし父は、「もうよせ」とでも言いたげに無言で首を横に振った。

「そういや」小杉が首を傾げた。「おれも何かを忘れているような気がするんだよなあ」

「小杉さんがぼけるのは、まだ早いよ」祖母は笑いながら立ち上がった。「それより、雅夫も貴也も、お昼、まだだろう? 小杉さんも、よかったら食べていって。焼きそばを作ろうと思ってね」

「いやいや、おばちゃん、おれは食ってきたんだ。というより、もう二時を過ぎているんだよ。それに、そろそろ帰らないと」

 片手を振って遠慮した小杉も、立ち上がった。

「おれも、いらない」と一言だけ告げ、おれは居間から廊下に出た。

「貴也、食べないのかい?」

「おふくろ、いいんだよ。一人にしてやってくれ」

 閉じた襖の向こうで、祖母と父の声が聞こえた。

 おれが向かったのは、玄関を介して居間の反対側にある仏壇の間だった。

 襖を開けると線香のにおいが漂ってきた。

 六畳間の奥に仏壇が据えてあった。かなり短くなった線香が、香炉で薄い煙を上げている。

 おれは仏壇の間に足を踏み入れた。ここに入るのは、今回の滞在では初めてである。

 後ろ手に襖を閉めた。

 仏壇の前まで進み、目を細める。

 遺影の中の祖父は安穏な笑みを浮かべていた。生前のイメージとは真逆の表情だ。

 その遺影の横に小さな写真立てがあった。色あせたカラー写真だ。そこに映っているのは満面に笑みを浮かべる叔母――いや、ナナである。淡いピンクのTシャツに赤いミニスカートという装いだ。袈裟懸けにしているのはオレンジ色の小さなポシェットである。以前にもここでこの写真を目にしていたはずなのだ。ナナの正体を佳乃に告げられたおかげでこの写真の存在を思い出した自分が、あまりに情けない。

 おれは背中のリュックを左手に持ち、中から三つの勾玉を取り出した。

「勾玉のおかげなんかじゃない」右手のひらにある三つの勾玉を見ながら言った。「おれを助けてくれたのは、ナナちゃんと、あの四人なんだ」

 就活に失敗して以来、どんな苦境の中でも涙を流したことなど一度もなかった。それなのに、両目からあふれ落ちるこの熱いものはなんだろう。

 薄暗い部屋の中でおれは嗚咽をこらえた。


 その日の夕方になって、父はやっと母と連絡を取ることができた。しかし母は、父を祖母の家に呼び出した覚えはないという。これは兄を呼び寄せようとした叔母の介入だったのかもしれない――というおれの意見を父は否定しなかった。

 母は明日の早朝に自分の実家を発ち、電車とバスを乗り継いで川野を訪れるらしい。夫婦の今後については、やはり祖母の家で話し合う形になったわけだ。

 祖母は息子夫婦の問題に展望はないと悟ったのだろう。ひどく心を痛めている様子だった。

 たった一つの救いは、両親の問題が川野の住民に知られていないことである。小杉家の主人も気づいていないらしい。もっとも、狭い集落である。交渉が決裂すれば実情はすぐに広まるだろう。


 夜になり、おれは父と部屋をともにした。そして、佳乃の家――あの廃屋での顛末や、佳乃の語ったこと、カズマら腹違いの兄弟や叔母であるナナとのふれ合いに至るまで、細大漏らさず父に伝えた。父はそのすべてを受け入れてくれた。

 消灯する直前、おれは思い立ち、父に三島さゆりの画像を確認するよう求めた。父はすぐにスマートフォンを手に取り、画像を表示したが、そこに三島さゆりと由佳の姿はなく、背景しか映っていなかった。

 父は「美沙の記憶も操作して、さゆりとの関係もなかったことにしてくれたらよかったのに」と嘆いた。もっとも、祖母にも、自分の息子は三島さゆりと不倫していた、という記憶は残っていた。もしかすると、三島さゆり――佐久本佳乃は、力を温存するために、自分にとって特に不利益とならない記憶に至っては、操作の対象外としたのかもしれない。


       *


 夏の日差しが川野の景色にくっきりとした陰影をつけていた。天気予報によれば最高気温は三十五度前後となるらしい。昨日の夕立がうそのようだ。

 クマゼミの大合唱が続く中、小さなコンクリート橋の上で、おれは川野の景色を見渡した。朝食を済ませて出てきたが、それから三十分もこの場所に立っている。もうしばらくしたら北の雑木林に行ってみよう。

 廃中学校を経由し、「あまり知られていない道」を通って石祠のところまで行く――それがここ一週間の午前中の日課だった。わずかな期待がそうさせた。それなのに、あれ以来、子供たちは姿を現してくれない。

 佳乃が「砦」と称していた家には近づかなかった。意図的に散歩のルートから外したのだ。白亜の外壁も、ウッドデッキのテラスも、エアコンによって保たれた室温も、食べたり飲んだりしたものも、あの家にあったもののすべてが偽りだった、と知る今では、朽ち果てた廃屋を見るのがあまりにつらいのだ。

 おれは下流に目をやった。ナナの溺れる様子が重なる。いっそのことおれも同じ場所に連れていってほしい――などという思いが胸をよぎるが、一時の感情に吞み込まれまいと必死にこらえた。救ってくれた子供たち――ナナや兄弟たちを裏切るわけにはいかない。

 こんな苦悩をこの一週間、毎日のように繰り返していた。気持ちを切り替えられなかった。川野に来てからまだ何も変わっていない、そんな気がする。

 鬱屈した日々が続くが、わずかばかりの果報はあった。故障していたおれのスマートフォンが修理から上がってくるのだ。バッテリーの寿命とコネクタの接触不良が不具合の原因だったらしいが、ナナか佳乃の仕業、とも考えられる。いずれにしても、今となっては原因などどうでもよいことだ。そのスマートフォンは二日後に父が祖母の家まで持ってきてくれる予定である。大学時代や高校時代の友人たちと連絡を取れば、少しは前向きになれるかもしれない。

 希望のアイテムを運んできてくれる父は、あの翌日、東京の自宅へと一人で帰っていった。無論、母との話し合いを済ませてからである。

「送っていく」という父の申し出を断った母は、当然のごとく日帰りだった。帰路も電車とバスを利用したらしい。

 そう、母の気持ちは、修復が不可能なくらいに父から離れていたのだ。離婚は決定したも同然だった。

 最も肩を落としたのは祖母だった。両親ともそんな祖母を慰めていたが、おれには、祖母にかけるべき優しい言葉など一つも思い浮かばなかった。当然ながら、昔の初詣での様子を母に尋ねるなど、できるわけがない。

 父は東京に帰る直前に「鎮守様のところに寄っていく」とおれに告げた。その日の夕刻、おれがそこへ行くと、石祠は土台の上に立っていた。


 腕時計を見ると午前九時二十二分だった。橋の上に一時間以上もいたことになる。

 北の雑木林を目指し、おれは歩き出した。

 今日に限ったことではないが、弁当どころか飲み物も財布も持っていないため、昼までには祖母の家に帰る予定だ。所持品は、祖父の形見の腕時計と、左前ポケットに入っている合い鍵、ジーンズの右後ろポケットに入っている三つの勾玉――だけである。

 日差しに目を細めつつ歩いていると、おれの頭上から北の雑木林の上空へと、二羽のツバメが飛んでいくところだった。あのツバメたちが旅立つ頃にはおれも川野をあとにしよう。


 子供たちは今、どこにいるのだろうか。

 鋸歯や鋭い爪、突き出た眼球は、元に戻ったのだろうか。

 カズマの傷は癒えたのだろうか。

 ナナも一緒に遊んでいるのだろうか。

 お盆までここにいれば、ナナに――みんなに会えるのだろうか。


 夏はまだ続いている。

                                    了

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魔性の夏ヤスミ 岬士郎 @sironoji

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