第8話 ④

 コンクリート橋を渡った先で左に折れた。

 この位置で祖母の家のほうに顔を向けると、家屋の一部だけが窺えた。父のワンボックス車が停まっているはずだが、木立に遮られ、その車体は確認できない。

 ナナは迷わずに佳乃の家へと足を進めていた。

 粘着物の罠があった場所を通り、佳乃の家の前に到着する。

 足を止めたナナがおれを見上げて手を離した。

「お兄ちゃん」いつもの笑顔だった。「お宝、出して」

「あ、ああ」

 乾いた唇をどうにか開き、おれは答えた。

 リュックを胸の前に持ち、中から石球を取り出した。とりあえず、空になったリュックは背負っておく。

「あっち」とナナが指差したのは、佳乃の軽自動車だった。

 石球を右手に持ち、ナナに続いてパステルピンクの軽自動車へと近づく。

 違和感があった。目の前の軽自動車は何かがおかしい。

 おれは目の前の車体を凝視した。ルーフもボンネットもどのドアもどのガラスも、虫食いにあったかのごとく、ところどころが欠けているのだ。そればかりか、ほかとは完全に切り離された状態で宙に浮いている部分もある。欠けている箇所を通してあちら側の景色が窺えた。さらによく見れば、車内やエンジンルームはただの空洞だった。

「お兄ちゃん、お宝をもっと近づけて」

 ナナは言った。

 指示されたとおり、おれは石球を軽自動車に近づけた。

 とたんに、欠けているすべての部分――空間が一斉に広がり、虫食いだらけだった車体は、跡形もなく消え失せてしまった。

「そのお宝は、おれたちにはさわれない」

 すぐそばでカズマの声がした。

「ナナちゃんも、お宝にはさわれないんだよっ」

 明朗な声でナナが付け加えた。

 右手に持つ石球を見た。三つどもえのように配置されたそれぞれの勾玉が、太陽の光を浴びてきらめいている。

 もう、認めないわけにはいかない。カズマら四人が佳乃の子であることも、ナナがすでに死んでいることも。

 それでも佳乃に会わなければならない。佳乃に会って、佳乃の口から事実を聞くのだ。

 だからこそおれは、石球を前に掲げ、佳乃の家の玄関へと近づく。

 佳乃の家が徐々に朽ちていった。塗装や壁が剝がれ、蜘蛛の巣がはびこり、アプローチは砂埃にまみれ、庭やテラスが雑草に覆われていく。

 玄関の前に立ったとき、佳乃の家はあばら屋と化していた。これがこの家の実態なのだろう。リフォームなどしていなかったのだ。

 色あせたインターフォンが目に留まったが、スイッチは押さなかった。

 石球を左手に持ち替え、右手をドアノブにかけた。施錠はされておらず、油の切れたような音とともにドアが開く。

 すえたにおいが鼻腔に入り込んだ。家の中は、日中とは思えないほど暗い。

 振り向くとナナの姿がなかった。

 玄関へと足を踏み入れるが、外の光を導くため、ドアは開けておく。それでも、どんよりとした闇は完全には払拭できない。

 薄闇の中で目を凝らすと一面が埃まみれなのがわかった。

 息を潜め、土足で廊下へと上がる。

 壁は黴に侵され、そこかしこでクロスがめくれていた。

 床を見下ろすと、佳乃やおれがつけたのだろう足跡があった。もっとも、どれもスリッパではなく、裸足である。

 見上げると、いくつもの蜘蛛の巣があった。これらの巣の主たちが一斉に降ってきたら、おそらく躱しきれないだろう。

 廊下の右側に並んだ三つのドアのうち、一番手前のドアが開け放たれていた。前に来たときは閉ざされていたドアである。そっと覗くと、調度の類いは何もなかった。カーテンもないが、窓ガラスが汚れ放題であり、差し込む夏の日差しがかなり弱くなっている。

 開け放たれているドアをそのままに、おれは廊下を進んだ。ドアは全部であと五つあるが、その五つとも閉ざされている。左の二つは、佳乃の説明ではトイレと浴室ということだった。突き当たりと右奥のドアは、どちらもリビングキッチンの出入り口である。右の三つのうち、真ん中のドアはおそらく一番手前の部屋と似た作りだろう。

 廊下の奥から何かが聞こえた。耳を澄ますと、どうやら人の息遣いらしい。

 おれはほかのドアを調べず、ゆっくりと、リビングキッチンを目指した。朽ち果てた廊下は、まるで、地獄へと続く洞窟のようである。

 父には「ちゃんと帰ってこいよ」と言われたが、生きてここを出られる保証などどこにもない。むしろ佳乃が妖怪ならば、おれごときは食い殺されてしまうのがオチだ。

 突き当たりで止まった。突き当たりのドア、右のドア、どちらでもよかったが、とりあえず右のドアを選び、ノブに手をかける。

 息遣いはまだ耳に届いていた。はたしてこれは佳乃の息遣いなのだろうか。佳乃だとしても、佳乃の姿をしているのだろうか。

「入ってきなさいよ」

 細い声がした。

 おれはドアノブを引いた。なんの抵抗もなく、リビングキッチンのドアが開く。

 この部屋もすべての窓ガラスが汚れており、薄暗かった。やはり、カーテンはおろか調度が何もない。シンクさえないのだ。床は埃まみれで、いくつもの裸足の足跡が残されている。

 殺風景で広々とした部屋だった。その奥に佳乃がいた。背中を壁にぴたりとつけ、うつむき加減に立っている。そんな彼女は半袖ブラウスにスキニージーンズという姿だ。スリッパは履いておらず、素足である。髪型はロングのストレートであり、セミロングでなければウェーブもかかっていない。

 ドアを開けたまま、おれは部屋の中央まで進んだ。

「佳乃さん、これはどういうことなんです?」

 老廃した部屋を見回しながら尋ねた。

 シトラス系の香りなどなかった。すえたにおいがするだけだ。

「わたしが答えるまでもないでしょう」佳乃は顔を上げずに口を開いた。「貴也さんは、全部、知っているんだもの」

「知りませんよ。ちゃんと説明してください」

 はっきりと訴えた。

 佳乃は上目遣いにおれを見る。うつろな瞳だった。

「貴也さんだって、生き物を食べるでしょう?」

「そりゃあ、食べますよ」

 おれが肯定すると佳乃は顔を上げ、瞳に涼しい光を宿らせた。

「牛も豚も鶏も魚も……野菜だってキノコだってお米だって、みんな生き物よ。人間は生きるためにそれらを摂取する。そのうえ人間は、生きるために家を建て、道を延ばし、街を広げるけれど、それだけでも、そこに生きているたくさんの命を駆逐してしまうわ。人間だけではない……ほかの生き物だって、生きていくためにほかの命を奪うのよ。わたしだって、生きるために命を奪う」

 カズマも似たようなことを言っていたが、無論、その概念は理解できる。

「だから、佳乃さんは人間を食らう?」

「そうよ。そして、わたしの生存に支障を来すものがあれば、排除するわ。そのために人をあやめることもある」

「それで、あんな小さな女の子……ナナちゃんを殺したんですか?」

 石球を握る左手に力が入った。

「あの子は、わたしの獲物となるだろう男に、いつもつきまとっていた。あのまま生かしておけば、間違いなくわたしの邪魔をする。だから、殺したのよ」

「やっぱり、佳乃さんが……」

 心が砕けそうだった。それでも、訊かなければならない。

「その男って誰なんです?」

「伊吹雅夫さん……貴也さんのお父様」

 父が狙われていたのも事実だったのだ。つまり、佐久本佳乃と三島さゆりは同一人物ということになる。しかし――。

「どうしてナナちゃんがおれの父につきまとっていたんですか?」

「わたしのことより、あの子のほうが気になるみたいね。だったら、あの子に尋ねてみればいいんだわ」

 嫉妬でもしたのだろうか――不遜な物言いだった。明らかにこれまでの佳乃とは違う。

「なら、質問を変えます。なぜ佳乃さんは父を食おうとしたんですか?」

「わたしを解放してくれた男ですもの。いとおしくていとおしくて、食べたくなるのも当然でしょう」

「それで食べたくなるなんて、おれには理解できません」

「卵を産むために、とても大切なことなの」

「卵? 佳乃さんが卵を?」

 産み落とされた卵から孵るのは子蜘蛛なのだろうか。そして、佳乃の子といえば、あの四人――。

「いとおしいから誘惑する」佳乃は言った。「そして近づいてきたら、愛し合う。愛し合えば、わたしはお腹に卵を宿すわ。でも、わたしが卵を産むためには、たくさんの栄養が必要なの。その栄養の元となるのは、卵たちの父親でなければならない。わたしは、愛した男を食べなければならない。それが、わたし、という存在の摂理なのよ」

 まるで実際の蜘蛛の話のようだが、佳乃にとってはまっとうな主張なのだろう。しかし、それが事実ならば、新たなる疑問が浮上する。

「おれの父は生きています。なら、佳乃さんとおれの父との間に子供はできなかった、っていうことなんですか? 今の佳乃さんが妊娠しているかどうか、おれにはわかりませんが、もし今、妊娠しているとしたら、これからおれの父を食べるんですか?」

 おれの質問を受けた佳乃は、首を横に振る。

「貴也さんのお父様との子は、もう卵から孵っているじゃない」

 それはあの四人のことなのか。しかし、質問に対する答えをもらうほうが先だ。

「じゃあ、どうして父は食べられなかったんですか?」

「あらあら」佳乃は疲れたように苦笑した。「あのいたずらっ子たちからいろいろと聞いたのかと思ったけれど、本当に知らないのね」

「教えてください」

 立ち尽くしたまま、おれは要求した。

 佳乃はその場から一歩も動かず、遠い目をする。

「雅夫さんの妹さんに邪魔されたからよ」

「父の妹……って、ずっと昔、小さいうちに死んでいるはずです。……まさか」

 父の妹――おれの叔母の名は、真菜まなだ。あの少女であるはずがない。

「ナナという子が、貴也さんのおば様である伊吹真菜さんなのよ」

「そんな」

「幼かった真菜さんは、自分の名前をうまく発音できなかった。どうしても、ナナ、となってしまったの。まーちゃん、というあだ名は本人の中では定着しなかったみたいね」

「ナナちゃんが、おれのおばさん……ナナちゃんがつきまとっていた、っていうのは、自分の兄にべったりとついていたということか。ナナちゃんが言っていた、おばあちゃんというのは、おれのひいばあちゃんだったわけだ。つまりナナちゃんの母親は、おれのばあちゃん……だからナナちゃんは、あのおにぎりに喜んでいたんだ」

 おれは得心した。奥の滝に向かう途中でおれが出したおにぎりは、祖母が作ってくれたものである。つまり、ナナは自分の母親が作ったおにぎりを口にしたのだ。死んだ人間が実際にものを食べるかどうかは知らないが、少なくともあのときのナナは、母親の味を堪能したに違いない。

「とても優しい子で、お兄様の雅夫さんに懐いていたわ。いつも雅夫さんについて歩いていた。その真菜さんが大人になったらわたしの邪魔になることくらい、予想がつく。だから命を奪ったの。それなのに、死んでも邪魔をしてくるなんて」

「死んでも邪魔をする?」

「あの子がわたしの前に現れるようになったのは、わたしが雅夫さんとの子……雅夫さんとの卵をお腹に宿した直後だった。雅夫さんを食べようとするとね、いつでもどこでも、あの子が現れるの。そして、わたしの力をどんどん奪っていく。そのせいで、わたしは人を自在に操ることが、まったくできなくなってしまった」

「ナナちゃんが……」

 ナナの手の温かさを思い出しつつ、おれは独りごちた。もっとも、佳乃に人を操る能力があったことも脅威である。

「雅夫さんに会うどころじゃなかった。雅夫さんを食べるなんて、とうてい無理。栄養は足りなくなっていく一方よ。それでも、お腹の卵たちが大きくなりかけていた。わたしはどうしようもなくて、雅夫さんも会ったことのある由佳や、男を見つけるために街のあちこちに潜ませておいた由佳の兄弟たちを、みんな残らず食べたわ」

「自分の子供を、食う……」吐き気をこらえつつ、おれは問う。「なら、佳乃さんのお母さんがカズマたちに食い殺された、っていうのは?」

 佳乃はおれを見つめている。

「もちろん、うそよ」

「うそ……」

「わたしを産んだのは、底なしの深淵に巣を張り続ける神……蜘蛛の神。そう、わたしは蜘蛛……蜘蛛であり、神の子」

 あまりの荒唐無稽さに、おれは言葉を失った。そんなおれを見据えながら、佳乃は続ける。

「底なしの闇……その虚空に産み落とされて孤独だったわたしは、その孤独を払拭すべく、長い年月の果てにようやく母の元へとたどり着いた。でも母はこれからも永遠に巣を張り続けるという。わたしにかまっている暇など寸時もなかったの。ならばわたしは永遠に人間の男と交わり、永遠に子を産み続けよう……そう心に誓った。そして、ずっとそうしてきた。だからわたしは、もう孤独ではないのよ」

 川野の集落に残る伝承を、おれは想起した。佳乃の話は、川野の伝承に輪をかけてとてつもない絵空事だ。これでは、佳乃は壮大な神話を構成する一員ということになってしまう。そんな話を聞かされて信じる者が、果たしているだろうか。

 それでも、茫然自失のおれは佳乃の言葉に耳を傾けるしかなかった。

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