第7話 ④

「なんだ、あれは」

 おれはつぶやいた。

「どうした?」

 土を掘りながら父が問う。しかし、作業に夢中らしく、こちらを見ようともしない。

「いや……」

 答えられなかった。なんと説明してよいのかわからない。

 そのとき。

 八本の細長いものの動きに変化が生じた。それらのすべてが、揃ってゆっくりと右回りに移動し始めたではないか。まるで尺取り虫の群れだ。左側の四本は幹の反対側に隠れ、右側の四本はこちら側へと出てくる。

 目を逸らせなかった。ゆっくりと動く群れを、黙して見つた。

 しかしそれは群れではなく、一つの存在だった。幹のこちら側に姿をさらした黒い異形が、おれに正面を向け、動きを止めた。

 器用に動く八本の細長いものはすべて、差し渡し五十センチ前後のいびつな塊に繫がっていた。そのいびつな塊の上部には、差し渡し一メートル強の卵形の塊がついている。それら二つの塊が成す形は、さしずめ、逆立ちをした細長いだるまだ。とはいえ、決してだるまではない。八本の細長いものは左右に四本ずつの足なのだから。

 現実なのか幻覚なのか、判断がつかなかった。もし現実ならば、父の言うとおり、それが判明したときにおれは食い殺されているのだろう。

 認めたくなかった。幻覚であってほしかった。

 だが黒い異形は、いっこうにおれの前から消えてくれない。消えてくれないどころか、卵形の塊に異変が生じた。黒一色だった表面に黄色や青からなる横縞模様が浮き上がったのだ。続いて、八本の足のそれぞれにいくつもの黄色い帯状の模様が現れた。

 興奮している、と感じた。色の変化は感情の高ぶりの証しではないだろうか。

 不意に、おれの左手を小さな手が握った。柔らかくて温かい手だ。覚えのある感触だが、おれは目の前の異形に畏縮するあまり身動きが取れず、声も出せなかった。その小さな手の持ち主を確認することはかなわない。

 幹にへばりついている極彩色のものが、するすると素早く地上に下りた。その速度を維持し、こちらに向かってシダの茂みの中を這ってくる。

 杉の枝を踏み鳴らすこの音は、夜中に祖母の家で聞いた不可解な音とリズムが似通っていた。とはいえ今回の音はあまりに小さく、父の耳には届いていないらしい。

 束の間、異形の頭部とおぼしき先端部に人間の顔のようなものが窺えた。

 次の瞬間、すさまじい勢いの風がおれの背後から前方へと吹きつけた。

「なんだ?」

 声を上げた父はしゃがんだまま振り向くが、杉の枝やちぎれたシダを容赦なく叩きつけられ、片手で顔を覆った。

 突然の現象になすすべがないのはおれも同様だ。立ったまま、後頭部やうなじ、背中などに、細かい飛来物を浴びる。

 あまりの痛さにしゃがみ込もうとしたとき、唐突に風はやんだ。

 杉林の中が、何事もなかったかのように静まり返った。

 這い寄ってきたものの姿が消え失せていた。おれの右手を握っていた温かい感触も今はない。辺りを見渡すが、特に変わった様子はなかった。

「あんな突風が吹くとは、驚いたな」

 言いながら父は立ち上がった。土で汚れた右手に、高さも直径も五センチ強のガラスびんが握られている。のりの佃煮などの容器らしきそれは金属のふたで封じられており、父の手と同じく土まみれだった。

 動揺を悟られないように、語調に気をつけながら尋ねる。

「父さん、それがそうなの?」

「ああ、そうだ。これだよ、これ。それにしても、四十年も前に埋めたんだぞ。まるでタイムカプセルだよな」

 顔をほころばせた父がガラスびんを軽く振った。風鈴のような涼しい音がした。

 だが父は、杉林の中を見渡し、表情を険しくする。

「今の突風、なんだか嫌な感じがしたな」

「突風なんて、どこでも吹くじゃん」

 おれが肩をすくめると、父は「そうかもな」とつぶやき、自分の体中についているシダを払った。しかしその行為により、ポロシャツやズボンに手の汚れがついてしまう。

「参ったな、着替えは下着しか持ってきていないのに」

 父の浅黒い顔がげんなりとした。

「ばあちゃんの家に戻れば、代わりの服があるかもしれないよ」

 そう言いつつ、おれも自分の体についているシダを払った。

「どうせじいちゃんの服だろう。とにかく、車のところへ戻ろう」

「そうだね」

 おれは頷き、父のあとについた。

 あれは幻覚だったのだ、と自分に言い聞かせた。


 空き地に戻ると、父は近くの小川へと向かい、岸にしゃがんでガラスびんと自分の手を洗い始めた。

「貴也も手を洗ったらどうだ?」

 父は小さな水音を立てながら、後ろで待つおれに声をかけた。

「おれはいいよ」

 洗わなければならないほど手が汚れている、というわけではない。

「ジャムが入っていたびんだよ。ほかの容器が見つからなかったんだ」

 立ち上がった父はそう言うと、手とガラスびんをハンカチで拭き始めた。

 おれは尋ねる。

「どうして、そのまま埋めなかったの? 容器に入れる必要があったの?」

「そのまま埋めたら、二度と見つからないぞ」

「三つの勾玉は捨てたんじゃなくて隠した、って父さんは言っていたじゃん。いつかは回収するとか、そういうことを前提にしていたわけ?」

 おれが問うと、父はハンカチをズボンのポケットに入れながら首肯した。

「そうだ。石の玉を壊したくせに、諦めきれなかったんだよ。なんとなくだが、三つの勾玉だけでもまた手にしなきゃならなくなる、と思っていたんだ。ところが、石の玉が復元されているじゃないか。なら、勾玉は三つとも揃えるべきだろう。だから、ここに来たわけだ」

「揃えるべき? ていうか、父さんはまだ、佳乃さんや三島さんを妖怪だと思っているのかよ?」

「思っているからこそ、さゆりとの関係を断ち切るつもりでいるんだよ」

「それって」おれは断言する。「改心したことにはならない」

「どのみち、美沙とのことは、もう手遅れみたいだしな。だが、たとえ美沙とのよりを戻せなくても、おれはさゆりとは別れる」

 そう告げた父は、きれいになったガラスびんを掲げた。中には勾玉らしきものが窺える。

「手を出せ」

 そう言われたおれは素直に右手のひらを差し出した。

 父はふたを開けるなりガラスびんを逆さにし、中身をおれの手のひらに落とす。

 透明感のある白っぽい表面が太陽の光を受けて輝いていた。間違いなく、先の二つと同じ、勾玉である。

「石の玉にはめ込んでみる」

 おれは告げると、左肩にかけているリュックから石球を取り出した。

 すべての勾玉が揃った状態の石球が、突然、七色に輝く――などと想像しながら、三つ目の勾玉を残りのくぼみにはめ込んだ。

 しかし――というより、やはり、期待したような現象は起きなかった。

 おれは父の顔を見る。

「これで、石の玉は元の形に戻ったんだよね?」

「ああ。だが、継ぎ接ぎだらけだからな。効力があるかどうかが問題だ」

 なんとも頼りない返事だった。

「これが妖怪を封印していただなんて、そう簡単には信じられないけど」

 おれは本音を呈し、石球を父に差し出した。

「なんだ?」

 気圧されたような顔で、父はおれを見返した。

「三島さんに狙われないように、お守りにしたいんじゃないの?」

 嫌味を込めてみた。

 しかし父は、おれの手を押し戻す。

「狙われているのは貴也、だと思うがな」

「佳乃さんは妖怪じゃないよ」

 つい、感情的になってしまった。

「気持ちはわかるが、これは持っていてほしい。どうしてもいらないのなら、子供たちにやるんだな。どのみち、これは子供たちに渡すつもりだったはずだ。子供たちに渡せば、貴也の面目も立つだろう」

 そこまで看破されているとは思わなかった。

「そうだね。効力があるかどうかは別として、面目が立つのはありがたいな。でも、あいつらが今どこにいるのか、わからない。新興住宅地に行って、あいつらを捜したほうがいいのかもね」

 歯痒かった。なんとかしてこのお宝を子供たちに渡したい。

 何かを思いついたように、父は頷く。

「その子供たちがよく遊んでいる場所が、川野にあるんだろう? そこへ行ってみるといいと思う。ここに歩いてくるには山道を通ったほうが早いから、子供たちは今、その道を向かってくる途中かもしれない。もしくは、勾玉を見つけられなくて戻って行くところかもな。いずれにしても、川野で待っていたほうがいい、そういうことだ」

「うん、そうかもしれない。あいつらが帰宅していなければ、会えると思う」

 おれは賛意を示し、石球をリュックに戻した。

「じゃあ、行くぞ」

 父は言うとガラスびんのふたを閉めた。

 その様子を見て、ふと、思い出す。

「ちょっと待って」

 おれはジーンズのポケットからマッチ箱を取り出した。一つ目の勾玉が入っていたマッチ箱である。

「これ、返すよ」

 父に突き出したマッチ箱は、ポケットにずっと入れておいたためか、かなり歪んでいた。

「これは、勾玉を入れておいたやつだ」と漏らした父が、それを受け取った。

「そうだよ。ばあちゃんちに戻ったら、あの空き缶も返すね」

 おれが言うと父は顔をしかめた。

「ゴミ同然のものばかりだな。まあ、空き缶も含めて、預かっておくよ」

「それにしたって、小学生にして喫煙とはね」

「ばかを言うなよ。このマッチ箱は、拾った空箱だぞ」

 父の焦りの表情を見て、おれは笑った。

「冗談だよ」

「喫煙を始めたのは就職してからだが、それ以来、つい数年前まで、ヘビースモーカーだったな」

「そういえば、父さんは五年くらい前に煙草をやめたよね」

「煙草のにおい、貴也も美沙も苦手だったからな」

 しんみりとした口調だった。

「そうだったかもね」

 もう、笑えなかった。

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