第7話 ③
杉林の間を抜ける道を北へと向かってワンボックス車は走った。民家は一軒も見当たらない。
「昔、父さんと一緒にカブトムシを捕ったけど、この辺だったっけ?」
おれは尋ねた。
「この道の先だな。高三土神社よりもずっと北にある雑木林だよ。カブトムシ、また捕りたいのか? なんだったら、勾玉を見つけたあとで、行ってみてもいいぞ」
父はそう言ってくれたが、おれは首を横に振る。
「小学校を卒業してからは、虫にそれほど興味がなくなったし。ていうか、母さんがいつ来るのかわからないんだから、そんな時間なんてないだろう」
「そうだよな」
父は頷いた。
右へ左へと続く緩やかなカーブをいくつか抜けると、テニスコート二面ぶんくらいの空き地が道の左に広がっていた。県道から折れて二分と経っていない。
ワンボックス車は空き地に入るとその北の外れでエンジンを停止した。すぐ目の前には鳥居が立っている。
父がハンドバッグを持って車外に出ると同時に、後部座席からリュックを取ったおれも空き地の砂利を踏んだ。
うだるような暑さである。
「ここが高三土神社か」
おれはリュックを左肩にかけ、五メートルほどの高さの鳥居を見上げた。川野の雑木林で見つけた鳥居より一回りほど大きい。色はこちらも赤だが、至る部分の塗装が剝がれていた。どうやら木製であるらしい。神額に「高三土神社」と記されている。
「川野の林にある例の祠は、ここの境外摂社らしい」
隣に並んだ父がそう告げた。
「境外摂社って、神社本社の境外に置かれた小規模の社、だったよね?」
おれが尋ねると父は頷いた。
「そうだ。とはいえ、高三土神社より川野の祠のほうが古いんだよ」
父の答えを聞いておれは首をひねった。
「神社本社のほうが新しいだなんて、逆じゃないの?」
「高三土神社建立の成り行き自体がよくわからないんだが、少なくともこの神社が建てられたのは昭和の時代……戦後間もなくの頃だ。そしてその後、放置されていた川野の祠を境外摂社とした」
「でも川野の祠は、今でも放置されているんだろう?」
「ああ。高三土神社そのものが、今は管理者が不在みたいだしな。廃神社となったのは、七年くらい前だったな。まあ、神社として機能していたのは短い間だったわけだ」
「七年、ってかなり前じゃん。荒れ放題だよ」
「近所の人がたまに掃除しているらしい。どのみち、ここがそんな感じでは、川野の祠がほったらかしなのも無理はないさ」
父はそう告げ、肩をすくめた。
「かもね」
おれが相槌を打つと、父はハンドバッグからスマートフォンを取り出した。
「美沙に電話してみる。ちょっと待っていてくれ」
「ああ、いいよ」と答えてから後悔した。こんな炎天下に放置されたのではたまらない。
スマートフォンを耳に当てた父を背にして、おれは鳥居をくぐった。木陰が多いため、とりあえず直射日光から避難することはできた。
父の姿を確認できるぎりぎりの位置で足を止め、参道の先を見た。まっすぐに延びる参道は幅が三メートル弱であり、赤土が剝き出しだ。木立の中――五十メートルほど先に、もう一つの赤い鳥居が見える。「近所の人がたまに掃除しているらしい」と父は言ったが、少なくともこの参道は、随所に雑草が伸びていた。前回の手入れのあとに数日で伸びてしまった、ということは想像できた。
遠くで泣いているのはミンミンゼミだ。それ以外には何も聞こえない。父が母に電話をかけているはずだがその声も聞こえなかった。
不審に思ったそのとき、ハンドバッグを手にした父がそそくさとやってきた。
「だめだった」
父は首を横に振った。
「母さん、出ないの?」
「出ないどころか、まったく通じない。圏外ではないらしいんだがな」
どおりで声が聞こえないはずだ。
おれは今後の予定に危惧を感じてしまう。
「どうする? 母さんは、もうばあちゃんの家に着いているかもしれない」
「どうするも何も、ここまで来たんだし、例のものを見つけ出そう。それに、子供たちが来ているかもしれないしな」
そう答え、父は歩き出した。
おれはあとに続きながら、父の背中に声をかける。
「もしあいつらが来ていたら、車で送ってやってもいいよね?」
「ああ、いいとも。そのつもりで来たんだ。小学生ということは、六歳未満の子供はいないんだろう?」
父は振り向かずに問い返してきた。
「三、四歳の女の子が一人、一緒にいるかもしれないけど。……なんで?」
「チャイルドシートを気にしているんだよ。そんなもの、用意していないぞ」
「あ、そうか」
おれは頷いた。
「そうか、じゃないだろう」父は呆れ声である。「まったくしょうがないな。そのときはそのときだ」
父のワンボックス車は七人乗りだ。人数的には問題ないだろう。チャイルドシートの件は考えないことにした。
背の低い雑草を踏み締めつつ、足を進める。
「子供の頃は、友達らと、歩いてここまで来たっけ」父は背中で言った。「自転車でもよく来ていたな。仲間内では、天狗様の神社、なんて呼んでいたんだ」
「天狗が祀られているの?」
「
父は歩きながら答えた。
飯綱権現だの飯綱山だのと言われても初耳である。今一つ、理解できない。
「天狗って妖怪じゃん。それでも神様なんだ?」
「平安時代や鎌倉時代には、天狗は仏教の敵と見なされていたんだ。だが、政治や文化が変遷するとともに、宗教も変化していった。たとえ妖怪だろうと、神通力にたけ、知恵もある……といった天狗は、江戸時代以降、信仰の対象となっていったわけだよ」
「ふーん」おれは頷いた。「天狗って、威厳のある妖怪だったんだ」
威厳のある妖怪がいれば、人間の男を誘惑したうえで食らう野蛮な妖怪もいる。いずれにせよ、どちらも想像上の存在だ。だからこそおれは、子供たちのことも佳乃のことも妖怪とは思っていない。
参道の先に待ち構えていた二基目の鳥居は、色も大きさも材質も神額も痛み具合も、一基目の鳥居と変わらなかった。
二基目の鳥居をくぐると、広さが先ほどの空き地の二倍近くある境内だった。もっとも、正面の奥に鎮座する社殿は幅も高さも五メートル程度である。
「社務所も手水舎も、最初からなかった」
父は足を止めずに言った。
「手水舎って、水で手を清めるところだよね?」
「そうだ」
頷いた父が、歩きながら足元を見下ろした。どこもかしこも雑草に埋もれている。
社殿の右手へと進む父におれは従った。雑草は多いが歩行に支障はない。とはいえ、開かれた空から降りそそぐ日差しによって草いきれが満ちていた。
社殿の屋根は銅板葺きだった。閉ざされた正面扉の上には、やはり「高三土神社」とある。横から見ると奥行きも五メートル前後だ。至って普通の神社、といった趣だ。
拝殿の裏には鬱蒼とした杉林が迫っていた。その杉林の手前、拝殿の真後ろに、小さな祠があった。祠は高さが二メートル前後であり、幅と奥行きはともに一メートル弱だ。おそらくこれが本殿なのだろう。拝殿と同様、上半分が格子状の観音開きの扉が、正面にしつらえてある。
父の背中に尋ねてみる。
「後ろの社が、本殿だよね?」
「まあ、そうだな。多くの場合、参道を進むと、まず拝殿があって、その後ろに本殿があるんだ。……貴也、神社に興味があるのか?」
「興味があるというよりは、ちょっと知っている、っていう程度だよ。要するに、生かじりさ。小学生の頃、毎年のように、近所の八幡神社へ初詣に連れていってもらったじゃん。そのたびに、父さんがしつこく解説してくれたからね」
「生かじりでも勉強になったのなら、よかったよ。教えた甲斐がある。だが、おれの解説は、しつこくなかっただろう。貴也がしつこく質問してきたから、それに答えただけだ」
「おれ、質問なんてしていないよ。じゃあ、母さんがばあちゃんの家に来たら、訊いてみる。一緒に初詣に行った母さんなら、覚えているはずだし。母さんの記憶がおれの記憶と一緒だったら、おれが質問していないことを、父さんに認めてもらうよ」
「そういう話ができるほど美沙の機嫌がいい、とは思えないがな」
「深刻な事態なのはわかるけどさ、ばあちゃんの家で、終始、けんけんごうごう、っていうのもどうかと思う。……母さんも母さんだ。ばあちゃんの家で話し合うだなんて。おれはともかく、ばあちゃんまで巻き込むべきではないよ。それに、夫婦の問題なんだし」
父はおれのそんな主張を無視し、境内の裏に迫る杉林へと近づいていく。
杉林の中はシダの群れに覆われていた。父は躊躇することなくその茂みへと足を踏み入れる。
「都合が悪くなると、黙るんだからな」
無視された憤りをこぼしつつ、おれも茂みへと入った。
杉林の中は森閑としていた。膝ほどの高さのシダが行く手を阻んでいるばかりか、その茂みの中に落ちている無数の杉の枝がクッションとなり、歩行は困難である。
「あとどれくらい歩くの?」
シダの茂みを十メートルも歩かないうちに、おれは音を上げていた。
「すぐそこだ」
そう言って立ち止まった父が前を指差した。
十五メートルばかり先に灰白色の物体があった。幅も高さも一メートル、そういったところだろう。丸みを帯びた台形の石である。
「もうちょっとだね」
言いつつおれが足を止めたとたんに、父は歩き出した。
ため息をついたおれは、父に続こうとして自分の足を何げなく見下ろした。ジーンズの膝から下が濡れている。シダの露だ、とすぐに悟った。不快感にさらされながら前を見れば、父のズボンも濡れていた。
士気が下がりかけたが、気を取り直し、早足で父の背中に追いついた。
歩きながら周囲を見渡すと、幹の太さが五十センチほどの杉が五、六メートルの間隔で立っていた。子供たちの姿を期待したが、おれたち以外に動くものは何もない。
おれは父と並んで石の前に立った。シダに取り囲まれているその石は奥行きも一メートル前後であるが、地中に埋もれている部分がどれほどの規模なのか、想像がつかない。
「この辺りに埋めたんだ」
石の正面で父はおもむろにしゃがんだ。
「こんなに大きな石が目印なら、間違いようがないね」
「まあな」
父は頷き、何本かのシダをむしり取ると、素手で土を掘り始めた。柔らかい黒土であるためか穴はどんどん深くなっていく。
「子供たちは、いないようだな」
土を掘りながら父は言った。
「うん、そうだね」
答えたおれは父の作業を傍観していた。手が汚れるのも嫌だったが、かえって邪魔になるだけかもしれない、と案じたのだ。もっとも、指図があればすぐにでも動くつもりではいた。
父の背中を見下ろしていると、ふと、気配を感じた。
子供たちか、と思ったおれはすぐに顔を上げた。
石の先、三十メートルほど離れた一角だけが不自然に暗い。
おれは目を凝らした。
幹の直系が一メートル以上もある巨大な杉が立っている。
杉が巨大なだけなら驚く必要はない。だが、太い幹の地表から約十メートルの高さに、節を有する黒くて細長い横向きのものが、左右に四本ずつの計八本、人為的に配置されたかのごとく、整然と縦に並んでいるのだ。巨大な左右の手が背後から幹をつかんでいる、そんなふうにも見える。奇形化した枝、と考えるのが現実的なのだろうが。
もっとも、枝でないことはすぐにわかった。そよ風もないのに、それらは本物の指のように小刻みに蠢いているのだ。
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