第4話 ①
午前六時半に目覚めたおれは、Tシャツを交換してジーンズを穿き、祖父の形見である腕時計をはめた。財布はジーンズの右後ろポケットに入れておく。
おれより先に起きていた祖母が、すでに朝食の支度を済ませていた。せっかくの味噌汁を冷ますのは心もとない。出かける準備はあとにして、おれは祖母とともに朝食を取った。
朝食を取っている間の祖母は、終始、テレビのニュースに集中していた。そのおかげか、おれの今日の予定を詮索されることはなかった。
おれは朝食を済ませると、おにぎりの入った布の包みと冷たい麦茶の入った水筒をリュックに入れた。ゆうべのうちに「明日の朝、おにぎりと麦茶を作ってほしいんだ」と祖母に依頼しておいたのだ。その準備のために、祖母はいつもより早く起きてくれたらしい。
集合場所は例の廃中学校だ。のんびり歩いても十五分程度で着けるが、準備を整えているうちに、約束の午前八時まであと二十分弱となってしまった。
「今日は佳乃ちゃんのところへは行かないんだったね。……そういえば、佳乃ちゃんは今晩、夜勤のはずだけど、昼間は起きていると思うよ」
玄関でデッキシューズを履いていたおれは、居間の祖母に声をかけられた。勤務状況まで把握しているとは、祖母と佳乃との親密さが窺い知れる。
「ゆうべも言ったけど、今日は佳乃さんのところじゃなくて、北の林とその周辺を歩いてみるつもりなんだ」
「ふーん、やっぱり佳乃ちゃんのところへは行かないのか。貴也、佳乃ちゃんと喧嘩なんてしていないだろうね?」
祖母の声にはなんとなく棘があった。
朝食の時間を無事にやり過ごせたのだ。ここでつまずきたくはない。
「喧嘩なんてするはずがないじゃん。じゃあ、行ってくる」
おれはリュックを背負い、玄関を出た。佳乃に避けられているのは事実だが、喧嘩をしているわけではない。冷静でいるためにも祖母の質問は受け流して正解だろう。
とはいえ、意識したためか、佳乃の家がある東の方角を重く感じてしまう。小さな木橋を渡ることにし、道を西に進み、祖母の家の裏手へと続く小道に入った。
快晴だった。今日も暑くなりそうだ。
昨日の雷雨は土砂降りだったが短時間で上がってしまった。そのためか地面はすでに乾いている。川の流れも穏やかだ。
木橋は東のコンクリート橋よりさらに小さかった。幅は一メートルもなく、木の板を渡しただけのように見える。慎重に渡るが、思いのほか堅固な橋だった。
対岸には田んぼが広がっている。その田んぼの手前を横切っている道を右に十メートルほど進んだ辺りが、おれがマルを蹴った場所だ。
木橋を渡りきって立ち止まり、何げなく集落の中心を見た。川の北側の民家に人の姿を認める。家屋の陰に中年の女が顔を引っ込めるところだった。
田んぼの西のほう、五十メートルほど離れたあぜ道には、麦わら帽子をかぶった一人の老人が立っていた。男女の区別はつかないが、おれをじっと見つめている。
不穏な空気を感じた。走って逃げたいのは山々であるが、かえって不信感を煽るだけだろう。何しろおれは、マルを蹴り殺した男なのだ。
廃中学校の正門へと至るわかりやすくて歩きやすい道は、昨日のうちに子供たちに教えてもらった。川野の中心から北に延びる道を行くと、北の雑木林を避けて西へと大きく迂回し、廃中学校の正門前に着けるらしい。川野の中心から廃中学校までは舗装路であるそうだ。その道をさらに進めば、廃中学校の西側を北上し、未舗装路となって山林地帯に入るという。
せっかく教えてもらったわかりやすい道だが、子供たちの話によると、雑木林の中を通る道に対してかなり迂遠であるようだ。ならば、と近道である雑木林の中を通ることにした。人目を避けるための選択でもある。
平然とした態度を装い、川沿いの道を東へと歩き出した。コンクリート橋のたもとを経由し、速度を変えることなく田んぼの間の道を北上する。
おれの背中にいくつもの視線が刺さっているような気がした。それでも、雑木林に入ると同時に川野の集落は見えなくなり、どうにか気持ちは落ち着いた。
とはいえ、時間に余裕がない。赤い鳥居を一瞥しつつペースを上げた。
子供たちによると、この道は雑木林内の何カ所かで分岐しているらしい。おれの知っている分岐点は、前日の往復で通過した一カ所だけだ。把握できているのはほんの一部ということになる。迷わないように気をつけなければならない。
その分岐点であるY字路に差しかかったおれは、左の道に入った。右の道はこれまでどおり二メートル前後の道幅だが、こちらの道幅は一メートルもない。左右の雑草は伸び放題であり、なおさら狭く感じてしまう。
ふと、猪や野犬などの脅威が脳裏をよぎる。
「まったく」
おれはかぶりを振った。これでは子供たちになめられるばかりである。臆病風に吹かれてはならない。
草をかき分けるような音を耳にしたのは、分岐点から二十メートルばかり進んだときだった。
足を止め、正面を向いたまま息を吞む。
音は背後から迫ってきた。立ち止まらずに走って逃げるべきなのかもしれない。とはいえ、全身が硬直し、振り向くことさえできなかった。心に誓ったばかりなのに、すでに臆病風に吹かれていた。
得体の知れない何かが、立ち止まっているおれを左右から追い抜いた。音からすると、猪か野犬か、とにかく獣のようだ。少なくとも二匹はいるはずだが、三匹以上かもしれない。
もっとも、それを獣と思ったのは、追い抜かれる瞬間までだった。両側の藪の中を突き進む何かは、不意に加速し、矢のような速さで彼方へと去ってしまったのである。
おれは足を前に踏み出せなかった。正体不明の何かは、立ち去ったふりをしてどこかで待ち伏せしているのではないか。なぜか、今の何かを「夜中に天井裏を走り回っていた何か」と関連づけてしまう。おれが怯懦である、という証しなのかもしれない。
だが、おれを襲うのであればここでできたはずだ。あえて先回りをするなど、考えにくい。あれはおれなど眼中になかったのだ。そう思えたおかげか、どうにか足を踏み出すことができた。
いずれにせよ、今の何かは猪や野犬ではないはずだ。なんとか導き出した答えは「単なる突風」だが、抜かれる直前までの様子からすると、それさえ的外れな気がする。
おれは歩きながら耳をそばだてていた。
なんとか約束の時間に間に合った。校舎の東側にある昇降口に入ると、五人の子供たちがコンクリートの三和土に立っていた。小学生の四人はそれぞれ、おれと同様にリュックを背負っている。ナナだけはいつものオレンジ色のポーチだ。
挨拶もそこそこに、全員の視線がおれに集中する。
「やっぱり、タカ兄ちゃんが一番遅かったな」
モリオが口火を切った。
「時間に余裕を持って行動しようぜ」
そう言って笑ったのはカズマだ。
「三分前だぜ」
腕時計で確認し、おれは弁明した。
「五分前に着いていないとだめなんだよ」とエリがおれをたしなめた。「大人なら常識でしょっ。人としてのルールを守らなきゃ」
「それって、おれの二番煎じじゃん。ていうか、スマホも時計もなくて、よく時間の管理ができるな」
などと感心するおれを、キヨシが横目で睨む。
「早めの行動を心がけているから、時計がなくても遅刻しないんだよ」
「キヨシの言うとおりかもな。気をつけるよ」自分の落ち度を認めた。「それより、昨日はあれから雷雨になったけど、みんな、濡れなかったか?」
「あ、話を逸らした」
すかさずモリオが突っ込んできた。
「話を逸らしたんじゃなくて、マジで心配していたんだよ」
おれは突っ返した。
「大丈夫だったよ」カズマが話を繫いだ。「昨日も今朝もそうだけど、おれたちは時計がなくても、ちゃんと考えて行動しているからね」
「昨日はおれがアドバイスしたんじゃないか」と抗議しつつ、おれはナナを見た。「ところで、今日の宝探しにナナちゃんも連れていくのか?」
「当然。仲間だもん」
エリが答えた。
おれを見上げている本人が、ふと、笑みを浮かべる。
「あのねえ……ナナちゃんも、お宝を見つけて金儲けするのっ」
おれはその言葉に愕然とした。
「おいカズマ、ナナちゃんに変な言葉を教えるなよ」
「これも社会勉強だよ」
口答えするカズマを、エリが睨む。
「カズくん、あたしがいつも言っているじゃない。ナナちゃんの前で下品な言葉はいけないよ、って」
「しょーがねーだろう。普段からこんな言い方なんだし」
「ああわかったわかった」おれは二人を制した。「とにかく、ナナちゃんを一人にするのだけはやめろよ。猪や野犬が出ないとも限らないしな」
「まあ、そうだね」
カズマは頷いた。
「ナナちゃんだけじゃなく、おまえらだって、林に入るときは気をつけるんだぞ」
先ほどの得体の知れない何かについては明瞭な説明ができず、子供たちにそれとなく注意を促すだけにとどめた。もっとも、大人のおれも油断は禁物である。
「わかった。気をつけるよ」
カズマは答えると、四つ折りにして持っていた紙を全員に見えるように広げた。例の地図だった。その顔つきから察するに、カズマは地図を誇示しているらしい。
「一日目の宝探しは、この地図で見ると――」
「ちょっと待て」
おれはカズマの説明を中断させた。
「なんだよタカ兄ちゃん」
話の腰を折られたカズマが口を尖らせた。
「一日目の宝探し、ってカズマは言ったけど、今日だけじゃないのか?」
おれが問うとカズマは頷いた。
「そうだよ。全部で三カ所あるし」
祖母にしらを切るのは今日だけにしたかった。おれはさらに問う。
「三カ所なら、一日で回れるんじゃないのか?」
「それはどうかなあ」モリオが口を開いた。「かなり歩くようなんだ。三カ所なんて、今日一日で回りきれるかどうか、わかんないよ」
「なんだか、えらく大がかりだなあ」
目まいがしそうだった。
「だからさ」カズマが言った。「無理はしないことにして、二日に分けたんだよ。二日あれば、三カ所は回れると思う」
「そうだな」おれは納得した。「あんまり遅くまで外出していると、おまえらの家族が心配するよな。それに、暗くなる前に帰って、宿題をやらなきゃならないし!」
最後の部分に力を込めてやった。
ナナ以外の四人が互いに顔を見合わせ、苦笑する。
「ところで」おれは子供たちの顔を見回した。「どんなお宝なんだか、もう教えてくれたっていいんじゃないかな。一緒に宝探しをするのに、どんなお宝だかわからないんじゃ、やる気が失せるぞ」
「そうか」としばし考え込んだカズマは、地図を四つ折りにして半ズボンの後ろポケットに入れると、モリオのリュックに手をかけた。
「見せるのか?」
モリオは尋ねながらカズマに背中を向けた。
「そのほうがいいかもしれない」
答えたカズマは、モリオのリュックから直径十二、三センチの球体を取り出した。
「カズマ、何それ?」
カズマが右手に掲げる球体に、おれの目は引きつけられた。
表面につやのある球体だった。灰白色であり、ところどころにひびが走っている。数ミリ四方のレベルで欠けている部分もいくつか見受けられた。
「石の玉だよ」
不敵な笑みを浮かべたカズマは、手にした球体をおれに渡した。
ずっしりとした手応えがあった。間違いなく石である。だが、人の手が加えられているのも確かだ。丹念に磨き込まれた表面や正確な球形であることは言うに及ばず、先端が微妙にカーブしたティアドロップ形の浅いくぼみが三つ、ある一点を中心として放射状に配置されているのだ。それらくぼみの組み合わせは、太鼓などに描かれている三つどもえに酷似しており、おのおののティアドロップ形の先端が半時計回りに外側に向いていた。もっとも、三つのくぼみのいずれにも多かれ少なかれひびがかかっている。
「この石の玉は、そこの林の中に落ちていたんだ」カズマは東に顔を向けた。「見つけたときは砕けていて、いくつかの塊だったんだけど、なんとか繋ぎ合わせたんだよ」
「へえ、石なんてよくくっつけられたな」
子供の業とは思えなかった。特にくぼみの部分は、へりのラインがぴたりと合っているのだ。立体パズルのごとくである。
気になる数ミリレベルの欠けている部分に至っては、細かい破片までは回収できなかった、と想像できた。とはいえ、それを口にしてまで揚げ足を取ることもないだろう。
「街のホームセンターで見つけた石材用の接着剤を使ったんだ」
誇らしげに語ったのはキヨシだ。
「へえ、職人みたいだな」おれは頷き、カズマを見る。「で、この石ころがお宝とどう関係するのか、ちゃんと説明してくれよ」
おれのそんな要求にカズマは思案げな色を呈した。
「石の玉の表面にある三つのへこみが気になったから、いろいろと調べてみたんだ。そうしたら、そのへこみにぴったり合うものがある、っていうことがわかったんだよ。この辺のあちこちに隠されているらしいんだ」
「それって、どうやって調べたんだ?」
「えーと……いろいろとネットワークがあるっていうか……」
カズマは言い渋った。
「インターネット?」
おれの問いに対し、カズマは目を泳がせつつ口を開く。
「違うよ。友達のネットワークさ」
「なるほど」
子供たちだけの噂、ということは想像できた。カズマは、情報源の信憑性の低さを気にしているのかもしれない。
「つまり、このへこみに合うものがお宝なんだよな?」
三つのくぼみをまじまじと見ながら、おれは尋ねた。
「うん」
カズマは頷いた。
「ふーん」おれも頷いてみる。「だから、お宝は三つなんだな。しかも、それぞれが別々の場所に隠されているわけか」
「そうだよ」
答えたカズマに、おれは球体――いや、石球を返した。そして、素朴な疑問を呈してみる。
「誰がお宝をあちこちに隠したのか、っていうのも気になるよな。そもそも石の玉がなんなのか、なんで砕けていたのか、カズマは知っているのか?」
「それはまあ、知らないわけじゃないけど、なんていうか……」
カズマは曖昧に答えた。
見れば、エリとモリオ、キヨシの三人も、落ち着きのない表情だ。小首を傾げているナナだけが状況を把握していない様子である。
なんらかの不文律があるのかもしれない。おれは追及を断念した。
「なら、頑張ってお宝を見つけような」
『ごっこ』ではあれ、おれは自分の士気を高めるつもりで言った。
「うん。絶対に見つける」
笑顔を取り戻したカズマがモリオのリュックに石球を戻した。
「じゃあ、もう一度、地図を見せてもらおうか。最初のお宝はどこにあるんだ?」
おれはカズマを促した。
「林の東の外れだよ」
ポケットから出した地図を再び広げたカズマは、その右下の一角を指差した。
もっとも、いくら目を凝らしても、荒唐無稽な落書きにしか見えない。
「そうだなあ……カズマについていけば、そこに着けるんだろうし……」
つぶやいたおれをカズマは横目で睨んだ。
「地図のとおりに行くんだよ」
「なら、そういうことにするけどさ」
この子供たちの目に映っているのは、大人には見えない世界なのかもしれない。はたしておれはその世界に立ち入ることができるのだろうか。
ふと、ナナの熱い視線に気づいた。おれ――ではなく、祖父の形見の腕時計を見つめている。
「ナナちゃん、どうした?」
おれが問うと、ナナはほほえんだ。
「これ、とってもきれい」
「へえ、こんなのが好みなのかあ」
ステンレスの光沢に惹かれたのかもしれない。とはいえ、もともとは祖父の所有物だったのだ。こんな幼い少女にしては好みが渋すぎる。
「お兄ちゃんって、かっこいい」
ナナは褒めてくれたが、かっこいいのはおれなのか腕時計なのか、それはわからなかった。
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