第5話 ⑤

 林道では車と出くわすこともなく、はらはらする事態に陥らずに済んだ。なじみの雑木林を抜けて川野に辿り着いたのは、午後二時半を過ぎた頃である。日は高いが、小さなコンクリート橋の北側のたもとで、疲れ知らずの子供たちと別れた。おれは滝壺であんな目に遭ったが、子供たちが無事に一日を過ごせたのは幸いである。

 新興住宅地の方角へと歩いていく子供たちを見送ったおれは、川伝いに祖母の家の裏手を目指すことにした。

 佳乃の家にはまだ近づかないほうがよいだろう。少なくとも、佳乃の気持ちが落ち着くまでは自重しなければならない。

 川伝いの道を西へと歩き出したときだった。

「貴也さん、こんにちは」

 思わぬ声を背中に受け、足を止めた。

「まさか」

 振り向くと、コンクリート橋の上に、Tシャツにスキニージーンズという姿の佳乃が立っていた。長い黒髪が柔らかな風に揺れている。

 意表を突かれた。言葉を用意していなかったおれは、何を話すべきなのかわからないまま口を開く。

「こんにちは。佳乃さんの今日の勤務は夜勤だ、って聞いていました。こんなところで会えるだなんて」

「はい。もうすぐ出勤します」涼しげな瞳がおれを見ていた。「あの子たちと何をしていたんですか?」

 そう問われて、おれは躊躇した。

「遊んでいただけです」

 無難な答えを返した。

 佳乃は表情を険しくする。

「貴也さん、あの子たちと一緒にいるのはよくないわ。危険なんです。ただ遊ぶだけでも、いけない。まさか貴也さんがあの子たちに魅入られてしまうなんて」

「あの子たち……って、あいつらのことですか?」

 おれは東に目を向けるが、すでに子供たちの背中は見えなかった。

「そうです。あの五人の子供たちです」

 この暑さの中で佳乃の声に冷たさを感じた。

「言っている意味がわかりません」

「いいえ。貴也さんには身に覚えがあるはずです」

 佳乃の語気がわずかに強くなった。

「そう言われても」

 胡乱だった。何を言いたいのか、さっぱりわからない。

「不思議なことがあったでしょう?」

 佳乃はおれに尋ねた。

「不思議……」

 確かに不思議な出来事ばかりだった。しかし、それらはすべて幻視や幻聴だったはずだ。

「あったでしょう?」微動だにしない双眼がおれを射すくめた。「信じられないことが、いろいろと」

「ありましたよ。ていうか、幻覚だと思っていましたが」

 そう答えるのが精いっぱいだった。

 佳乃はかぶりを振る。

「幻覚ではありません」

「幻覚ではない……そんな、現実だなんて」

 頭の中が整理できない。これまでの不思議な体験のすべてが現実であるとすれば、得体の知れない怪物は実在する、ということになってしまう。

 ふと、別の疑問が浮上する。

「おれが不思議な体験をしたことを……それが現実にせよ幻覚にせよ、どうして佳乃さんが知っているんですか? どこかで見ていたんですか?」

「見ていなくてもわかります。貴也さんは、あの子たちに狙われているんです。あの子たちは、人ではありません」

 まるで当然のごとくだ。おれは戸惑ってしまう。

「人ではないなんて、いくらなんでもありえませんよ。おれは不思議な体験をしましたけど、あいつらには関係ありません」

「関係があるんです」佳乃はおれから目を逸らさずに言いきった。「あの子たちは、狙った獲物に近づき、言いくるめ、散々弄んだあげく、その体を食べてしまいます。普段は人間の子供の姿をしているけれど、だまされてはいけません。あの子たちは五人とも、怪物なんです」

 突拍子もなかった。たとえ佳乃の言葉でも鵜呑みにはできない。

「怪物だなんて」子供たちの無邪気な笑顔が脳裏に浮かんだ。「あいつらに食べられた人なんているんですか? そんな事件が起きていたとしたら、川野の人たち……というより、日本中が騒いでいますよ」

 おれは正論を述べたつもりだが、佳乃は首を横に振る。

「あの子たちはほかの誰にも気づかれないように、獲物を襲うんです」

「誰もが気づかないのなら、なおのこと、佳乃さんが知っているはずがないでしょう」

「知っているんです。なぜなら、わたし自身が、あの子たちに食べられそうになったからです」

 口調は穏やかになったが、険しい表情は変わらない。

 しかし、おれは認めたくなかった。

「冗談はよしてください」

「冗談なんかじゃありません。ほら」

 佳乃がTシャツの裾をまくり上げた。引き締まった腹があらわになる。美しい白い肌だが、それにそぐわないものが現れた。

「それは……」

 声が震えてしまった。

 佳乃の左脇腹に傷跡があった。五センチ四方の範囲に皮膚の裂け目がある。

「二日前の夜」佳乃は右手で脇腹の傷にそっとふれた。「約束どおりにわたしの家に来ていたら……わたしを抱いていたら……もっと早く、この傷を見ていたでしょうね。そしてもっと早く、あの子たちのことをわたしから聞くことができたはず。あの子たちがわたしの母を食い殺してしまったことも」

「え――」

 思わず言葉を吞んでしまった。

「わたしの母は、持病で他界したのではありません」

 佳乃は言うと、Tシャツの裾を下ろした。

「佳乃さんのお母さんは病気で亡くなったんじゃなくて、カズマたちに……あいつらに食い殺されていた……そんな……」

「東京でわたしの母を食い殺したあの子たちは、わたしを追ってこの地まで来たんです。そして普段は、この地のどこかに身を潜めているんです。だからわたしは、あの子たちがうちの近所で遊んでいると、警戒してしまうんです」

 言いながら、佳乃は周囲に目を走らせた。

「じゃあ、おれがここでずぶ濡れにされたときも?」

「そうです。あのときも、わたしはあの子たちに目を光らせていました。もしかすると、貴也さんはあのときから狙われていたのかもしれません」

「信じられません」

「そうでしょうね」佳乃は悲しげな笑みを浮かべた。「怪物だなんて、信じる人はいないでしょうね。でも、本当にあの子たちは危険なんです。特に、ナナという子。あの女の子が一番危険なんです」

「ナナちゃんが……まさか、あんな子が……絶対に違う」

 否定したが、すぐに背筋が凍った。滝壺でおぼれそうになったとき、聞こえたのは紛れもなくナナの声だ。

 受け入れられず、もう一度、声に出してみる。

「滝壺でおれを襲ったのは、ナナちゃん……」

 ナナの手の温かさと白い何かの生温かさが重なった。

 静かに、佳乃は頷く。

「あの夜、貴也さんがわたしのうちに来られなかったのも、あの子たちの仕業に違いありません」

「あれは夢だったんです。白くてべたべたしたものにとらえられて……なんだかわけのわからないものに飛びつかれて……あれが現実だなんて」

「いいえ、夢ではなかったはずです。白くてべたべたしたものも、飛びついてきたものも、どちらも現実だったんです」

 そう告げられたが、夢でなければ説明のつかない事象があった。

「気づいたら、自分の布団で寝ていたんですよ」

「おそらく、あの子たちが運んだんでしょう」

「どうしてその場で食い殺さずに、わざわざ祖母の家に送り届けてくれたんですか? おまけに、布団に寝かせてくれたり、あちこちについたべたべたしたものまで、きれいに拭き取ってくれたり……今日だって、おれと仲良く遊んでいたんですよ」

「さっきも言ったけれど、あの子たちは獲物を弄んで楽しんでいるんです。だから、すぐには食い殺しません」

「でも、どう見ても、あいつらは人間の子供ですよ。どんな怪物だというんです?」

「糸……」と佳乃は言った。「糸を、見たでしょう?」

「糸は、見たかもしれません」おれは答えた。「滝壺では細い何かに足を引っ張られたし、あのべたべたした何かも、よく見れば無数の繊維の集まりみたいでした」

「あの子たちは、糸を使って相手の身動きを封じる怪物なんです」

「糸を使って相手の身動きを封じるなんて、まるで蜘蛛じゃないですか」

 思わず口にしていた。

「そう、蜘蛛ですよ」

 簡明な答えだった。

 祖母の家の天井裏を走り回っていたものも、雑木林の中を走っていったものも、小屋から飛び出してきたものも、滝壺でおれをとらえようとしたものも、それらの正体はすべて、大型犬並みの巨大な蜘蛛だった――そういうことなのだろうか。

 だが、それらがあの子供たちだったのなら、どうしても矛盾が生じる。

「あの五人が揃っていたときに……蜘蛛か何かはわかりませんが、それらしきものと遭遇しましたよ。林の外れにある小屋から、みんなの目の前に飛び出してきたんです」

 矛盾を指摘した、というより、子供たちを弁護したつもりだった。「野犬である」と思い込むことにした存在であるが、子供たちを弁護するのであれば、この際、怪物ということにしておいたほうがよいだろう。

「怪物が五匹だけとは限らないでしょう?」

 そう返され、おれは口ごもる。

「貴也さん」佳乃の顔に憂いが表れていた。「わたしは、一週間は会わないほうがいい、と言いましたが、なんとかあの子たちを追い払える方法はないか、と考える時間がほしかったからなんです。狙われているのはわたしだけ、と思っていたし。でも、貴也さんまで狙われているのなら、話は別です。何かいい手立てはないか、一緒に考えてほしいんです。わたし、とても怖い……自分が襲われるのも、貴也さんを失ってしまうのも、想像するだけで、本当に怖いんです。……もうあの子たちとは遊ばない、と約束してください」

 佳乃はそう言った。

 とはいえ、子供たちを疎う気持ちにはなれない。一方で、佳乃を苦しませたくない、という気持ちがあるのも事実だ。

 断腸の思いで、おれは頷く。

「わかりました」

 佳乃の顔に安堵の色が浮かぶ。

「じゃあ……明日、わたしの帰宅時間に合わせて、うちに来てくれませんか? 朝の九時半に、どうでしょう?」

「行きます」

 何も考えずに答えた。深く考えていたのでは佳乃とは二度と会えない、そんな気がしたのである。

 おれは佳乃に促されてコンクリート橋を渡り、二股で彼女と別れた。

 祖母の家へと向かう足がやけに重かった。


 何も考えずに答えたが、それでよかったのかもしれない。祖母の家に帰ったおれは、やはり、佳乃に懐疑心を抱いてしまったのだ。

 夕食のあと、おれは風呂を済ませると、祖母が風呂に入ったのを確認してから、居間の固定電話の前に立った。電話帳で調べた番号は、市街地にある総合病院のものだ。佳乃が勤めているはずの病院である。

 電話をかけると病院の受付事務に繫がった。電話に出た担当の男に「看護師の佐久本佳乃の縁者ですが」と告げたうえで、佳乃の職場に繫いでもらった。

 男の様子からすると、佳乃がその病院に勤めているのは間違いないらしい。はたしておれの知っている佳乃だろうか――保留メロディーを聞きながら、焦燥感にさいなまれてしまう。

 三十秒ほど待つと保留が解除された。

「佐久本です」

 間違いなく佳乃の声である。

「貴也です。すみません、仕事中に」

「いいんです、ちょうど手が空いていたし。それにしても、どうしたんです? もしかして、わたしが本当に病院に勤めているのか、確かめたかったのかしら?」

 近くに人はいないのか、特に声を押し殺すでもなく、泰然とした口調だった。

「昼間の、あんな話を聞かされたら、疑いたくもなります」

 正直に答えた。

「でしょうね。普通なら、正気の沙汰とは思えないもの」

「気を悪くしないでください」

「大丈夫ですよ。貴也さんの意見は、理解できます」

 どうやらこちらの気持ちをくんでくれたらしい。

 胸が軽くなったところでおれは話を再開する。

「でも、電話をしたわけは、もう一つあります」

「何かしら?」

「訊きたいことがあるんです。佳乃さんは、あの子供たちを追い払うつもりでいるんですよね?」

「はい、そうです」

「痛めつけるとか、殺すとか、そういったことはしないんですよね?」

 問い詰めた。佳乃を思えばこそ、はっきりとさせたかったのだ。何がなんでも子供たちに危害を加えてはならない。つまりおれは、あの子供たちが怪物である、などと信じていないのである。

「怪物ではなく人間の子供だから、傷つけてはならない……貴也さんは、そう言いたいんですね?」

 どうやら見透かされたらしい。ならば、ごまかしてもためにはならないだろう。

「そうです。でも、佳乃さんの気持ちには答えるつもりです」

「わかりました」佳乃は言った。「あんな話、信じられなくて当然です。けれど、わたしの気持ちに寄り添ってくれただけで、とても嬉しい。……あの子たちを傷つけるつもりはありません。どこかへ追い払うだけです。ですから、貴也さん、明日は必ずうちに来てくださいね」

「九時半に、必ず伺います」

「待っています。くれぐれも、子供たちに気をつけて」

「わかりました」と答えたが、無論、それは糊塗にすぎない。「夜勤のお仕事、頑張ってください」

「はい、ありがとうございます」

 通話が切れた。

 佳乃が看護師をしているのは事実だったが、だからこそ、彼女の人物像がますますわからなくなってしまった。宝探しの件など話せるわけがない。

 佳乃に対する不審と子供たちに対する不安――。

 おれは疑心暗鬼に陥っていた。

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