第6話 ①

 佳乃と会っているときに腹の虫が鳴ったのでは格好がつかない。食欲はなかったが、祖母の作ってくれた朝食を強引に腹に収めた。

 自分の食器を洗い、洗顔などを済ませてから自室に戻った。エアコンの電源を入れ、畳の上で仰向けになる。

 祖母はまだ食事中だ。どことなく疲れているようである。

 おれが川野に滞在して今日で五日目となるが、その間、祖母の情緒は安定していなかった。祖母だけではなく川野の住民たちの様子も妙である。

 佳乃と過ごす時間はこの陰鬱な空気を忘れさせてくれるだろう。だが、あの子供たちに対する佳乃の思い込みだけは、なんとしても改めさせなくてはならない。佳乃が食われそうになったことや佳乃の母親が食い殺されてしまったことは、佳乃自身の妄想――というより心の病の可能性がある。佳乃の脇腹の傷は犬などの動物に嚙まれた跡かもしれないし、佳乃の母親に関しては、やはり、持病が悪化して死去したに相違ないだろう。

 傍らに置いた腕時計を見ると、午前八時十二分だった。今日の宝探しの集合時間まで、あと二十分弱である。子供たちとの約束を守るのであれば、そろそろ出かけないと間に合わない。

 だが、おれは動かなかった。佳乃と会うために子供たちを裏切ってやろう、という度胸があるわけではない。こうして悩んでいれば嫌でも時間は過ぎてくれる――そんな屁理屈に甘えているだけなのだ。

 一方で、佳乃の家に行くという決意も揺らぎ始めていた。むしろ、彼女とは二度と会わないほうがよいのかもしれない、という思いが芽生えている。

 何げなく顔を部屋の片隅に向けると、滝壺で拾った黒い缶が目に入った。処分するつもりでリュックの脇に置いたのだ。

 子供たちとの時間が蘇る。五つの屈託のない笑顔が頭から離れない。

 やりきれず、おれは天井に顔を向けた。


 午前九時半を過ぎた。

 近くでクマゼミが鳴いている。

 おれは半身を起こし、リュックに目をやった。子供たちとの約束を守っていたなら、今頃はそれを背負って野山を歩いていただろう。三つ目のお宝を求め、わいわいと騒ぎながら――。

 カズマやエリ、モリオ、キヨシらは肩を落としているに違いない。ナナに至っては事態を理解できないでいるはずだ。

 今からでも間に合うだろうか。

「いや」

 おれは立ち上がった。

 腕時計もリュックも――財布さえ持たずに、玄関へと向かう。

「佳乃ちゃんのところへ行くのかい?」

 祖母の声が居間のほうから聞こえた。

「うん」と答えたおれはデッキシューズを履いて外に出た。

 そう、佳乃の家へと行くのだ。

 佳乃に惹かれる気持ちと佳乃に対する憎しみとが、複雑に入り交じっていた。子供たちとの約束を裏切らせた佳乃を、めちゃくちゃにしてやりたい。強引に押し倒して、犯しまくるのだ。

 トウモロコシ畑の手前で砂利道に入ろうとしたときだった。

 おれは足を止めた。

 すぐ目の前――砂利道に佳乃が立っていた。

「貴也さん」

 半袖のブラウスとすみれ色のスカートを身に着けた佳乃が、憂いを帯びた表情でおれを見つめていた。

「佳乃さん、どうして……」

 おれは啞然とし、言葉を続けられなかった。

「時間になっても来ないから、あの子たちに何かされたんじゃないか、と心配になっちゃって」

 そう告げて涙ぐむ佳乃は凄艶だった。

 意表を突かれたおれは、たじろいでしまう。先ほどまでの威勢はもう取り戻せない。

 言葉を返せず、おれは佳乃に近づこうとした。

 ふと、佳乃はトウモロコシ畑のほうに視線を移し、目を見開いた。そしてすぐに、その反対側に顔を背けてしまう。

 何が起こったのか、おれにはわからなかった。どうすることもできず、佳乃を見つめたまま踏みとどまる。

 暫時ののち、車の音を耳にした。

 見ると、一台の黒いワンボックス車が、狭い舗装路を県道のほうからゆっくりとこちらに向かってくるところだった。トウモロコシの葉に挟まれた空間をワンボックス車のフロントが埋め尽くしている。

 ワンボックス車がおれの前に横づけになった。見覚えのある車だ。

 運転席のドアガラスはおれの目と鼻の先だ。そのドアガラスが下がるとともに、おれは一歩、あとずさる。

 オールバックの髪、浅黒い肌、太い首、それらを見紛うはずがない。伊吹雅夫、おれの父だった。

「貴也、これからどこかへ行くのか?」

 どこへ行こうとおれの勝手だろう――と思いながら、ポロシャツ姿の父を睨んだ。

「父さんこそ急に来てさ、どうしたんだよ?」

 父の問いには答えず、自分の疑問をぶつけた。

「ゆうべ、美沙から電話があったんだ。話があるからここに来てくれ、とな。それで急遽、仕事を休んだんだよ」

 ひょうひょうとした態度の父に対し、おれは怒りを覚えた。

「離婚の相談でもあるんだろう」

 おれが吐き捨てると、父はため息をついた。

「そうだろうな。だが、おれをここに呼び出したということは、美沙は、貴也とばあちゃんにも話し合いに同席してもらうつもりなのかもしれない」

「おれ、関係ないじゃん」

 諸々の難題から解放されたくて祖母の家に滞在しているのだ。そんな修羅場に立ち会うつもりはない。

「家族なんだし、おれとしても貴也の意見は聞きたい。まあ、強制はしないけどな。ところで……」父はおれの背後を見た。「そちらのお嬢さんは?」

 尋ねられたが、こんな父などに紹介したくなかった。

「貴也さん」佳乃は顔を背けたまま言った。「家庭の問題があるようですね。今は、おばあ様の家に戻ったほうがいいと思います」

「両親の問題ですよ」

 すがる思いで訴えた。あの子供たちとの約束を反故にしたばかりか、佳乃との時間まで失ってしまうなど、あまりにも悲しいではないか。

「それどころではないでしょう。貴也さん、もっと大人になりなさい」

 強い口調で佳乃はおれをたしなめた。顔を背けているうえに長い髪に遮られ、その表情は窺えない。

 返す言葉がなかった。

「落ち着いたら、また会いましょう」

 佳乃は一方的に告げると、背中を向け、歩き出した。うつむき加減で急ぎ足だった。間違いなく、佳乃はおれの父を避けている。

「佳乃さん」と声をかけたが、佳乃は振り向かなかった。

 やがてその後ろ姿が見えなくなり、おれは肩を落とす。

「ヨシノさん、というのか」

 運転席の父がつぶやいた。

 おれはうな垂れたまま「父さんには関係ない」と突き返した。

「彼女、様子がおかしかったな」

 おれの神経を逆なでする一言だった。「あんたのせいだろう!」と怒鳴りたかったが、ぐっとこらえる。

 確かに、他人が見れば佳乃の様子は尋常ではなかっただろう。だが、おれにはわかる。佳乃は恥じらったのだ。おれと会っている現場を誰にも見られたくなかったに違いない。

「似ているな」

 父はまたしてもつぶやいた。

「え?」

 意味がわからず、おれは顔を上げて父を見た。

「なんでもない。気のせいだ」と告げるなり、父はおれの顔を見た。「ばあちゃんの家に戻るのか?」

「そうする」

 意気消沈したおれは、もうどこへも行く気がしなかった。

「なら、乗れよ」と父は誘うが、おれは視線を逸らす。

「すぐそこだし、歩いて行く」

「そうか」

 ドアガラスが上がり、ワンボックス車が静かに動き出した。

 父と一緒にいる時間をできるだけ減らしたかったのだが、この調子で歩いていけば、玄関でまた父と顔を合わせるかもしれない。

 佳乃の家のほうを見るが、無論、彼女の姿はなかった。

 猛暑に耐えながら、うつむいて立ち尽くす。

 そうして五分ほどが経ち、おれは祖母の家に向かって歩き出した。


 ワンボックス車は祖母の家の庭に停まっていた。車内や玄関周辺に目を配るが、父の姿はない。

 玄関に入ると、祖母と父との会話が居間のほうから聞こえた。

「それでも反省しているつもりなのかい?」

 祖母は感情的になっているらしい。

「だから、おれが悪かった、と言っているじゃないか」

 懸命に訴える父は、明らかに押されぎみである。

「いい大人が開き直っているんじゃないよ!」

「開き直ってなんか、いないさ」

「美沙さんにどう言い訳するつもりなんだろうね」

「言い訳はしないよ」

「ああ言えばこう言うし」

「おふくろと話し合っているだけじゃないか」

「本当にどうしようもない男だね!」

 そんなやり取りが続く居間には入らず、おれは自室へと向かった。掃き出し窓は閉じてあるが、居間の襖は開け放たれており、祖母も父も、廊下を歩くおれに気づいたはずである。だが、二人ともおれに声をかけてこなかった。

 横目で確認したが、祖母と父は座卓を挟んで向かい合わせに座っていた。正座する祖母は父を睨み、あぐらをかいている父はうつむいている。さすがにあんな父でも実母の前ではおとなしいものだ。

 自室に戻ったおれは、襖を閉じてエアコンの電源を入れた。居間でのやり取りが耳に入ってくるが、かかわるつもりはない。置きっぱなしにしてあった腕時計を左手首にはめ、再び畳の上で仰向けになる。

 やがて睡魔が襲ってきた。

 祖母と父との会話が遠のいていく。

 適度に下がった室温が心地よかった。

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